太岡寺畷の芭蕉句  愛知厚顔 70代 元会社員 2003/6/18投稿
  元禄三年の春のある日、こゝ大津膳所の珍碩亭に朝から沢山の宗匠頭巾を被った人々が集まった。中に皆から敬われて一人の人物がいる。
この人こそ俳諧の世界では知らない人はない芭蕉翁である。
数年前に彼は奥羽から北陸にかけて大行脚を終え、「おくのほそみち」を上梓したばかり。
その疲れを癒すため湖国の弟子たちが句会に招いたのだ。彼はつい最近まで大津に滞在していたが、いったん伊賀に帰郷したのち、ふたたび琵琶湖畔にやってきたのだった。
 今日の句会の席主は近江勢田の俳人、浜田珍碩である。師匠の芭蕉を座敷の上座に座らせ、ぐるりと廻るように十数人が座った。珍碩が進行役を引き受けて句会がスタートした。
 『では句題を季節に合わせ、春の“花見”といきましょう。それでは翁から発句をどうぞ』
芭蕉は少し考えていたが、開かれた窓の外の桜をチラッと眺めると
    木のもとに汁も鯰も桜かな          芭蕉
 『なるほど…、桜の下に広げられた花見料理、お汁や鯰料理にもヒラヒラと花が散り、
  花びらに蔽われてあたりは花の襖を着せたようだ…。風情ですね 』
珍碩が感心する。そして連句の下句を色紙にすらすらと
         西日のどかによき天気なり     珍碩
『桜の樹の下に広げられたお花見料理に花びらが舞い、西に傾いた太陽ははなやかに風もなく、ゆったりと春の一日も暮れようとしている…。いや若輩の私が言うのも何ですが、名句でしょう…』
大きな声で評したのは大津の運送屋の主人で河合乙州である。彼は芭蕉がもっとも愛した弟子の一人でもあった。
 このように連句はつぎつぎに詠まれて進んでいった。一通りの句が詠まれると珍碩は
 『ではこれから句題を変えましょう。“城下”というのはどうですか?。ご異存がなければ
  野径さんから詠んでください』
野径は近江の人で珍碩や乙州とも親友である。彼は少し照れながら
 『ではいきます。
    鉄砲の遠音に曇る卯月哉          野径   』 
それを引き取って、下座にいた里東が
 『では私が下の句を
        砂の小麦の痩せてはらはら     里東
  こんなのはどうでしょうか…』
 『なるほど…、侍が鉄砲の練習を始めるのは四月からですな。砂の小麦云々とは
  砂地の畑のことですか…、ふんふんよく実感がでてますね』
芭蕉が一言云うと、一座の弟子たちも頷いている。
 
 日もようやく傾き、春の一日もまさに暮れかかってきた。
連句会も酒が入りにぎやかになっている。つぎつぎに披露される句に、ときには賞賛、ときには酷評が浴びせられる。沈む夕日を静かに眺めていた珍碩が筆をとり
    たそがれは船幽炙の泣くやらん     珍碩
と書いて
  『こんなのはどうですか、このたそがれの侘しさですがね。
   誰かもっとよく下句で補ってください』
それを聞いた里東は
  『では、
       連(つれ)も力も皆座頭なり   里東  』
  『なるほど、夕暮れの侘しい情景に、連れだって列になって歩く眼の不自由な人々、
   よくわかります。』       
 一同がうなずいた。しばらくしてつぎに野径が
    からっ風の太岡寺縄手ふき透し     野径
と書いて披露した。それを見て乙州がさっそく
      蟲のこはるに用叶へたき      乙州
と詠む。弟子たちはそれを見る。しばらくはシーンとして読んでいたが、期せずして
  『わハッハッ!わハッハ!』
顔を見合わせ大爆笑になってしまった。 
 この当時、東海道でもっとも強い風が吹く所が太岡寺畷の堤防道だった。連句の意味は
  『冷たい空っ風が西の鈴鹿の山々から吹き下ろす。こゝは十八町もある長い吹きさらしの縄手道だ。  
   この寒さで身体の芯まで冷えて下腹が痛む。どこかで用を足したいのだが、人目があるのでしゃがむことも、厠を借りる家もない。我慢するのがつらいところだ』
というも。出席した弟子たちのほとんどが、この太岡寺畷での体験があるので大爆笑になったのであった。                       (終わり)


現在の太岡寺畷

 
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