ああ懐かしい亀山の一日  愛知厚顔  2004/10/3 投稿
 

 
10月2日、久しぶりにJR関西線での旅である。
名古屋駅を早朝に出発する4両電車に乗ったが乗客はまばら、あのころはどの車両も人で溢れていたのに…。終点の亀山駅ではホームにも待合にも人影も殆どない。
昔は人がこぼれ落ちそうだった。駅弁売りも声を嗄らして売っていたのに…。
 駅を出てすぐ右の食堂手前の路地を入る。狭い道を少し歩くとT字路にぶつかる。
それを西に歩くと〔でころぼ坂〕に上がる角に空き地が見えた。
ここは農業会(JAの前身)があった場所だ。戦争中はその倉庫に牛馬の飼料となる大豆の絞りカス、豆板が大量に保管されていた。それは満州から運ばれてきたもの、私たち学生は軍の命令で動員され、それを駅からこの倉庫に運んだものである。
豆板にはところどころに生の大豆が混じっていた。腹をすかせた私たちはナイフでそれをえぐり取って食べものだ。
 この空き地の前の広い通りを挟んだ向かい側、ここに木造のバラックの長屋があった。いま見ると建物はなくなり更地の工事中である。ここは亡き母が戦後の混乱期に駄菓子屋を営んでいた場所だ。小さな店だったが、それでも親子3人が食べるだけの売り上げがあった。それくらい通りを行き交う人も多かった。じっと眼を閉じると当時の町の姿が浮かぶ。むかい角には自転車屋もあったが…。
  『あの店では自転車を月賦で買った』
 
 坂を見上げると墓石や寺の屋根が見える。これは遍照寺らしい。
亀山に住んだ10年間で一度もこの寺に来たことがない。いい機会なので拝観することにした。でころぼ坂の急坂を登る。坂の途中にいた男の人が側溝の鉄蓋を引き上げようとしている。どうしたのかと尋ねると
  『子猫がこの溝に落ちたらしい。かわいそうなので助けるところです』
という。二人で重い鉄蓋を持ち上げようとしたが上がらない。下の溝から子猫の鳴き声がする。
  『いま助けるからまってなよ…』
二人で声をかけ、やっと蓋を上げようとしたところギクッと腰痛が走る。男性も
諦めて市役所に連絡すると云っていた。もう無理がきかない年令なのを忘れていた。

 遍照寺には墓石のある裏側から登った。
観音菩薩像や勢至菩薩像で有名だが、今日は本堂の前で参拝し大月関平の墓にも参った。これもなかなか果たせなかったのだが念願がかなった。山門から通りにでて江ケ室交差点に向かう。警察の建物が見えた。
  「そうするとこちらの角の空き地が郵便局の跡地になるな」
どうも確信がない。歩いているお婆さんに聞いてみると、
  『むかしここに郵便局がありましたな。』
やはりそうだった。
 昭和24年4月、私はこの郵便局で一ヶ月間働いた経験がある。
逓信省職業学校の卒業実習のときだった。当時は満16才だったが、はじめて社会に出た不安と期待で必死に頑張った。いまの16才ではとうてい自立は無理、それをやってきたのだと少し自慢気に思う。

 ここから少し東町を歩いてみる。村井さんのお店がある。60年前と同じ場所だ。
私の家では村井さんから譲ってもらった茶箱が、いまも衣装箱として重宝に現用中である。左手にたしかM電器さんがあったと思ったがいくら見てもない。この店の裏道で上級生から「生意気だ」と鉄拳制裁を受けたこともあった。
 この先に同級生のI君の家があったはずだがそれもない。彼は高校に進学してのちに私と同じ会社に入ってきた。私も彼もいつか定年をむかえている。どこかに引越したのだろう。
 店の前や角に〔宿場の賑わい復活一座〕の皆さんが取り付けた江戸時代の屋号板がある。それも相当な数である。
  「これは大変な労力がかかっているな…」
わが町を愛する皆さんの強烈な想いが胸を打つ。
 
 法因寺の手前で小さな路地を抜け北の道に出た。それを西に歩くと八幡神社の森が見えてくる。
  「たしかこの道の両側は深い孟宗竹の林だった…」
そうだM君の家もこの辺りだった。しかし暗い竹林は薄れて明るくなりM君の家もわからない。広い道が交差するところは自動車の往来がはげしい。ふっと左を見るとK牛乳店が見える。小学校中学のころあの店でよく牛乳を買った。そしてそのすぐ隣に同じ苗字の二軒の家があったはず、その一軒には美しい女性がいた。
 私が中学を卒業し鈴鹿市の逓信省職業学校に通学したとき、その人は庄野の小学校に赴任され同じ列車で通勤されていた。私はいつも窓に写るその人の横顔をそっと盗み見していた。16才青春前期の淡い思い出である。
 八幡神社に詣でる。この宮も懐かしい。小学生のときここで相撲大会があり、学校から見物にいったものである。マピオン地図でこの宮が江神社と記されていたが、やはりここは八幡神社に間違いなかった。

 だんだんと時間が経っていく。
市制50周年まつりの宿場を散策する時間が足りなくなりそうだ。ここから江ケ室の旧電話中継所跡にむかう。たしか七曲り坂へいく途中だったが…と、探してみるがそれらしいものがない。ここでも通りの女性に聞いてみると
  『その保育園がそうです』
これでは判らないはずだ。父親が亀田にあった旧逓信省の無線電信局に勤務しており、私たち家族はそこの官舎にいたが、間もなく父は病気で死亡した。
 そのため私たちはこの亀山の地に居ついたのである。父の職場とこの電話中継所と同じ逓信省の官吏で人事交流があり、知った人も多く私もよく遊びにきていた。
ここで鉛電池の古い極板を貰っては空缶にいれて溶解し、大黒さまや蝉などを鋳型に嵌めて鉛細工を作って遊んだものだ。
 すこし戻って羽若へ下る坂道の向かい角に工務店があった。
  「ここで何か…どなたかのお世話になったのだが…」
なかなか思い出せなかったが、ハッとして思い当たった。
  「そうやここはヒョキさんの店だ!」
大工のヒョキさん、あの人は私の父母と懇意でよく私の家に出入りしていた。
 決心して二階の事務所にお邪魔しする。
ところがちょうどそのとき電話のベルが鳴り、この家の御主人が重要なお仕事の話を始めた。私を見ながら目礼をして椅子を勧めてくださったが、話が何か込み入ってきたようなので私は挨拶して店を辞した。
 たしかにここはヒョキさんの店だ。あれは戦後の食糧難のころだったが、お腹を空かして学校から帰る途中、私を見つけると店に招きいれ、ふかしたサツマイモやコッペパンを食べさせてくれた恩人であった。
 
 後ろ髪をひかれる思いで姫垣外苑を通りK書店の前を過ぎる。この書店にはタコ入道のような丸坊主頭の番頭さんがいたな…。ふっと思い出し笑いが出る。
 お城の多門櫓は開放されていた。上がり込んでゆっくり見学する。
この横の石垣の上から錫杖ケ岳や鈴鹿の山々がよく見える。今日は曇っていたがそれでも素晴らしい眺めが広がっていた。この小学校の西に続く公園はむかし運動場だった。
 あの南海大地震のとき私たちのクラスはちょうど体操をしていた。立っておれないほどの猛烈な大地の振動であった。亀山神社の石灯篭は全部倒壊したのを覚えている。
 この周辺にある明治維新の功労者、黒田孝富と近藤鐸山そして山崎雪柳軒の石碑の写真をとる。いまの亀山で何人の人がこの碑のことを知っているのだろうか…、どうかこれを風化させないでほしいと願う。
 ここからすぐ中学校のグラウンドに下りる。
グラウンドにはスピーカや音響機器が設置されていた。コンサートか何かがあったのだろうか。戦時中この運動場は私たちが開墾してイモやサトウキビを栽培したところだ。戦後になると元に戻ってグラウンドとして整備したが、そのいずれも生徒たちが鍬やスコップで行った。
 占領米軍と地元のチームとの野球の親善試合もよく行われた。亀山には沢山のチームがあったが、その中の優秀な選手を集めてたのが〔オール亀山〕だった。
これは強かった。あるとき3番と4番打者が大男の米軍チームからホームランを打った。それを見て私は敗戦の悔しさを少し和らげたのだった。

 中学校…、ここは私の母校である。
ここで私は必死に3年間学んだ。義務教育は全部亀山だったが、よく遊んだのも遊んだが、この中学校では本当に猛烈に勉強した。父がいないので高校にはいけない。
そこで撰んだのが学びながら月給をくれるうえ、高校卒の資格もくれるという逓信省の職業学校だった。それを目指して懸命に勉強したのだった。
 幸いにも合格することが出来たが、それが我がサラリーマン人生の始まり、延々と55年もの間、同じ会社の系列で働くことになろうとは…。
 私のころは木造校舎だったがいまは鉄筋である。そういえば同級生のT君が10数年前、ここの校長を最後に定年になったはずだ。体育館の〔お休み処〕でガイドしていた男性と話をしたら
  『その人はいまも元気で老人会の面倒みている』
と云っていた。同窓会で一度顔を合わせたあとは音信がないが安心した。

 お休み処はあとで見学することにし宿場へ向かう。
門をくぐると江戸時代の装束をした若者が、子供たちに竹馬の乗り方を教えている。
そのすぐ隣に立派な庭園を持つ西の丸歴史広場があり、茶席が設けられている。
和服姿の女性たち…。いつ見ても若い女性が着飾った姿は文句なく美しい。老人の押しでどんどんカメラのシャッターを押させてもらう。再現された亀山宿はだんだんと人通りが増えている。加藤家長屋門では女性がマイクで説明してくれた。
加藤家は代々家老を務めた家柄とか、国替えのとき備中からきた加藤内膳の屋敷だろうか…。
 体験コーナーでは数人の女性がワラ草履を作っている。あまりにも手際よく作っておられるので
  『私よりお若いのに、どうしてそんなに上手なんですか?』
と聞くと
  『戦争中に学校で習いました。忘れていたのが講習会で思い出したんです』
  『私も小学校で作り方を習いました。いまはもう作れません。』
お若い方と思ったが、どうやら私と同年輩らしかった。
 宿場の中ほどに舞台が設けられ子供の駒回しが行われていた。なにかの会長さんが引っ張り上げられ駒を回した。これが手の平で回したり小さな盆の中で曲回しをしたり、見事な腕前だったのに驚いた。再現宿場では犯人の手配書がある高札、若い女性が将棋を指した縁台があったり、懐かしい手造りの玩具を売る店、むかし風の食べ物の屋台など意匠をこらした宿場風景である。江戸時代はほんとうにこんな賑わいだったのだろう。

 朝が早かったので腹が空いてきた。
宿場の外れにある店で〔宿場うどん〕を食べる。金280文という格安で美味しかった。その先にある店では〔川ひたり餅〕を賞味した。ちょうどZTVが撮影している。
私の顔をアップしてきたので少し緊張する。美味しいので家への土産に買おうとしたが、すでに売り切れであった。市民文芸HPで知り合ったIさんは不在だったので名刺を置いて失礼する。
 午後に大名行列の出迎えがあるという京口門に向かう。
時計を見るとまだ少し時間がある。そこで梅巌寺の境内にある西国33観音を拝観する。石燈籠や手水に元禄16年の年号がある古さに感心する。
 やがて灯踊りの衣装をまとった御夫人たちが集まってきた。
どういうグループかと聞くと
  『伝統の亀山音頭や灯踊りを伝える会です』
とのこと、そして
  『野村一里塚から石川家の行列がやってきます。
   それをここで出迎えて踊りで歓迎するのです』
それはぜひ写真に写す必要がある。しかしまだ時間がある。そこで坂下の照光寺にいてみた。石井兄弟に討たれた赤堀水之助の墓に詣でる。元禄14年の刻が入った墓石はやはり小さいもの。世間の目から遠慮勝ちに建立されたのだろうと思う。
昨年にはこの仇討ち話が国立劇場で上演された。片岡仁左衛門の赤堀が評判の名演技だったが、彼も上演に先だってこの墓に詣でたと聞いた。

 やがて後ろの城のほうから板倉家の侍、姫君、侍女たちが到着した。
そして野村一里塚を出発した石川家の行列も、幟のあとに大勢の幼稚園児たちが続いて到着した。子供たちが大きくなったときよい思い出になるだろう。そのあとから重臣や供侍が続々と続く。裃の紋に注目してみたが、石川家の家老重臣の家紋とは違うようだ。これは伊勢戦国時代村からの貸し衣装のせいだろう、勝手に想像する。
しかし駕籠の屋根にはまごうことなくササリンドウ、大きな石川家の家紋が入っていた。美しくきらびやかな衣装の姫や侍女、どうも重そうである。
  『その衣装は重いでしょう?』
と聞いてみると
  『皆さんが想像されるより軽いですよ』
と嫣然とした笑顔で返事があった。京口門での両家の挨拶が交わされ、御夫人たちの歓迎の踊りも披露された。私はあちこちと場所を変えカメラのシャッターを夢中で切った。
 このあとは行列の後を追って写真を写した。どこから集まってきたと思われるほどの人、人、人の波。もの凄い賑わい。そこにはまさに宿場に賑わいが復活していた。

 そして体育館に戻って古い史料や写真を見る。
 説明をして頂いた若い男性もよく昔のことを勉強したらしく。私の思い出話をよく聞いてくれた。
  『いまはそこには別の建物があります。』
とか、
  『その人はまだ元気でおられます。』
とか親切に教えてくれた。最後に
  『亀山にも大きな最新の液晶工場も出来ました。
   また来年は関町とも合併し、ますます大きく変貌しますよ。』
と目を輝かしていた。

 懐かしい亀山。忘れられない亀山。わが心の故郷。いつまでも健やかであれ。
  『亀山よ、ありがとう。』 
 私は充実した一日を過ごせたことに感謝し、満足の気持ちいっぱいで帰途についたのだった。

 
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