東海道の昔の話(1)
 関の小万と鈴鹿馬子唄
                                                                             愛知厚顔 70代 元会社員 2003/6/23投稿
  関の町に入って地蔵院の手前、木崎町の左に少し入ったところに福蔵寺がある。織田信長の子、信孝の菩提寺として家臣が建立したもの。この境内に関の仇討ちで有名な小万の墓がある。小万の敵討は有名な割には、くわしい話が知られていないので、すこし調べてみた。
 第十代将軍家治の時代、関宿の山田屋に止宿した身重の女が、玉のような一人の女の子を産んだ。しかし母親は難産のため助からなかった。この母親は九州久留米藩二十一万石、有馬家の家臣で牧藤左衛門の妻だった。藤左衛門はふとしたことから、同僚の小野元成と口論となり、あげくのはてに殺されてしまった。

 その仇敵の小野元成は小林軍太夫と名前を変え、亀山藩に仕えているのが判明した。そこで身重の身体もかえりみず、みずから夫の仇討にでかけてきたのだが、関まできて病気に倒れてしまったのである。
 宿の主人庄兵衛は苦しい息の下から聞いた身の上話にうたれ、その義侠心から小万に仇討ちの本懐を遂げさせるまで養育しようと決心した。
 そして成長した小万に亀山の剣術師範、榊原権八郎の道場で修業させた。事情を知った師範も小万の意気にうたれ、くる日もくる日も必殺の「突き」の一手を教えた。やがて六年の歳月が経過した。
  『もう大丈夫、小万、やってみよ』
師範に激励され、その翌日、亀山城下の辻で見事、小林軍太夫を討ったのである。天明三年(1783)八月、十八才のときであった。

 小万は絶世の美人、仇討に成功した女性という物珍しさもあり、街道を上り下りする旅人は多くが心引かれて山田屋に宿泊し、そのため大いに宿は繁盛したという。享和三年(1803)三十八才で亡くなっている。関宿の東の入り口に「小万のもたれ松」というのがある。
剣術修行のため亀山に通うとき、土地の無頼漢のいたずらを逃れるため、この松の影に隠れたという。毎日亀山に通ったのは剣術を習うためもあるが、敵の動静を監視するためでもあったらしい。

 この仇討はあっと云う間に全国に喧伝された。
有名な鈴鹿馬子唄にも小万のことが再三でてくる。

  「坂は照る照る鈴鹿は曇る  あいの土山雨が降る 
  「馬がものいうた鈴鹿の坂で おさん女郎なら乗しょというた
  「手綱片手の浮雲ぐらし   馬の鼻唄通り雨
  「与作思えば照る日も曇る  関の小万の涙雨
  「関の小万が亀山通い    月に雪駄が二十五足
  「関の小万の米かす音は   一里聞こえて二里ひびく
  「馬はいんだにお主は見えぬ 関の小万がとめたやら
  「昔恋しい鈴鹿を越えりゃ  関の小万の声がする

 この唄は小万の唄といってもいいほど小万のオンパレードである。
ところが仇討の方の小万は「亀山通い」のところだけで、他は別の「遊女の小万」だという学者がいる。二人の小万が歌の中にいたのである。
 遊女の方は近松門左衛門の傑作「丹波与作待夜の小室節」、のちに別人の手で狂言に改作された「恋女房染分手綱」に登場する色男の与作の恋人、すなはち関宿の遊女の小万である。
 学者の中には遊女のモデルは別の名で実在していたが、小万の名を近松の台本から拝借したという人もいる。しかし近松の「丹波与作」は宝永五年(1708)というし、その中にはすでに「与作思えば照る日も曇る、関の小万の涙雨」が出ている。そうなると仇討ちの天明三年(1783)よりかなり古くなり、鈴鹿馬子唄はすでに成立していたことになる。

 単純に考えると、鈴鹿馬子唄はずっと古くからあり、遊女の小万の方が先に中で唄われており、それを近松も台本に取りいれた。
あとで仇討があったので、もう一人の亀山通いの小万を、地元の人々が馬子唄の中に追加して唄ったのではなかろうか。
 二人の小万説は不思議な話だが、つぎの史料を見ても事実と納得できる。この遊女の小万の方は仇討の前後に、いろいろなところで登場する。

  享保十年(1725) 芭蕉三回忌で

   古里の小万も見えず田植歌    千那

  寛政八年(1797)  柳多留
   関も無いはず御二人で小百万       
   小万を寝せて実盛の物がたり

 ところが、「亀山通い」の小万の方も、仇討のあった天明三年(1783)よりずっと前に「亀山通い」の言葉が唄われていたのがあった。それがつぎの唄である。いったいどうなっているのだろうか。 

    四季花笠踊    宝永七年(1711) 式亭三馬
  関の小万は亀山かよひ  色を含むや冬ごもり
  まず立春の祝いには   ぬふちょう鳥の花笠
  夏は川瀬に網代笠    秋は踊に菅笠を
  揃えてそれぞれ     小万おどりだぜ
    小万でん手拍子もそん揃うた 
       そろたそろそろ月の笑顔に 
  照ったりゃ紅葉笠 
           そりゃ加賀笠よ〜

 仇討の七十三年も前のことである。江戸きっての流行作家、式亭三馬が全国から募集し編纂した笠踊り音頭の中にある。
しかしこれも変だ。三馬は江戸時代後期の安永八年(1776)から文政四年(1822)に生きた人。彼が宝永年間に生きているわけがない。この史料を載せている新群書類従が見間違いをしたのかも知れないし…。
 私は歴史学者でも何でもない。これ以上は郷土歴史の先生方の領域であり、詮索は止めることにする。

 小万の墓ははじめ町の北、丸山の共同墓地にあったが、明治四十年に改めて発見されいまの福蔵寺に移された。石碑の前には地蔵が彫刻され、側面には 〔妙證信女山田屋小萬 享保三年正月十六日〕とある。毎年七月十七日が命日で供養の回向が行われている。関の小万の碑


  参考文献  原志郎「三重放浪」 式亭三馬「松の落葉」
 
  東海道の昔の話(1の補追)
    関の小万と鈴鹿馬子唄の謎               愛知厚顔 2003/7/5投稿


 前回の投稿で鈴鹿馬子唄と小万の関係について、かなり疑問を投げかけたところ、いろいろな方から反響があった。関の小万が仇討ちのため亀山に剣術修行に通ったことが、馬子唄では
   「関の小万が亀山通い 月に雪駄が二十五足」
と唄われていると、江戸時代からずっと教えられ、信じられてきたが、これがどうやら疑わしいと、この投稿で指摘したところである。
 その根拠となった文献について、はっきりとさせないままでいたが、皆さまから問い合わせがあるので、改めて根拠となった文献を示したい。それは
  【中興当流あずま浄瑠璃:増補、松の落葉】
   宝永庚寅七年九月吉祥日 いつつや生兵衛 板
              書林 萬木治兵衛 行
              編者 静雲閑主人       
 これは小唄、端歌、浄瑠璃などの三味線歌曲の類を、主として元禄から宝永年間にかけて流行したものがまとめられている。そして「関の小万が亀山通い」の詞は、巻四第五十八に〔四季花笠踊〕として収録されている。原文は全部かな文字なので少し漢字を入れてみた。

元は小唄のかな文字では意味がわかりにくい。漢字を適当に入れると
  『関の小万は亀山通ひ、いろをふくむや冬篭り
   まず立春の祝いには、ぬふちょう鳥の花笠、夏は川瀬に
   網代笠、秋は踊りに菅笠を揃えて、それそれ小万踊りだぜ。
   小万てん手拍子も、そんそろた。
    そろた、そろた、そろた、
         そろそろ、そろそろ、
   月の笑顔にったりゃ紅葉笠、そりゃ加賀笠よ加賀笠よ
   冬は雪見にかつ゛くひじ、笠は名のみや、この御所塗り笠は
   笠はなり(姿)が良うて、さてさてどっこい、きよござる』
と、ざっとこんな具合ではないかと思う。
 なお編集者には式亭三馬は関係してないことが判明した。

 この文献について、明治四十年に水谷不倒識という人がかなり研究をしているのでこれを紹介する。
  『これははじめ「松の葉」元禄十六年版を秀松軒という人が
   編纂した。三味線がわが国に伝来してから、世間で唄われた
   小唄を集めたものである。しかし翌十七年(宝永元年)に
   大木扇徳という人が「松の落葉」を編纂し「松の葉」に洩れた
   のを拾い、宝永三年には静雲閑主人が「若緑」を出して、
   前二書以来の新曲を集め、宝永七年に更に「増補、松の落葉」
   が成立した。正徳三年には「続松の葉」という書を刊行した。
   しかし仔細にこれらの書を対照すれば、「松の葉」の実態は
   ただ三つの書に過ぎないことを見出した。(略)
   これらはいずれも非常に貴重であり、この「増補、松の落葉」
   もすこぶる稀本である。』

 ここにあるように宝永七年(1711)に編纂収録された小唄なので実際はもっと以前から唄われていたと思う。そうすると関の小万が亀山に通ったのは、仇討ちがあった天明三年(1783)以降ではなく、七十二年以上も以前のことになる。
 そうすると、鈴鹿馬子唄の小万はまったく仇討ちとは無関係となり、遊女の小万のほうとなる。これは近松門左衛門の台本でも証明される。
近松は仇討があったときはすでに物故していたのだらか、仇討の小万を知っているはずがない。
 私の推理をめぐらせた結論を言うと、
  1、鈴鹿馬子唄はかなり前からすでに成立していた
  2、唄の中の小万は遊女の小万(近松の台本とも無関係)一人である
  3.山田屋で生まれた女の子に馬子唄から名前を貰ってつけた
  4、「亀山通い 月に雪駄がニ十五足」は小万が恋しい情人に逢いに通った情景
  5、馬子唄はまったく仇討話とは無関係である。

 以上のとおりです。皆様からの問い合わせに現在判明している材料でお答えしました。地元郷土歴史研究の先生方のご意見もたまわりたいと念願しています。
 
 
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