東海道の昔の話(101)
    西村謹吾の生涯 1  愛知厚顔  2004/7/25 投稿
 


 伊勢の亀山から、こんな武蔵の豊島までわざわざ私を尋ねてこられたのですか。それは大変ごくろう様です。この年寄りの昔話でよければ、いくらでもお話しましょう。
 まあ今日もよく降り続く雨ですね。どうか遠慮せずこっちに上がってください。さて赤報隊の西村謹吾さんについてお知りになりたい?、そうですか、いまは明治二十七年ですから、もう何年むかしになりますやら…。六十八才の私が三十才そこそこの頃でした。

 あの西村謹吾さんは貴方と同じ勢州亀山の人です。
亀山藩士のころは山本鼎と言い、あざ名は則孝と名乗っていましたね。西村謹吾は変名です。ほかに山本必衛、菅沼八郎とも名乗ってましたが、紛らわしいので西村謹吾でお話します。
 西村さんが下野国都名郡寺尾村(茨城県)に縁が出来たのは、藤田小四郎や武田耕雲斎らの水戸天狗党挙兵のときです。
それは元治元年(1864)のことでした。当時、亀山藩は水戸藩内に騒動が発生しそうな気配に、江戸屋敷の駐在藩兵たちは江戸郊外で演習をしていたのですが、天狗党が筑波山で挙兵したことに呼応し、亀山藩から小林平太郎が脱藩してこれに加わりました。彼は天狗党千人に加わり信濃から中仙道を西方へ転進したのですが、西村謹吾さんもこのとき脱藩して天狗党に参加しました。弘化元年生まれの二十二才でしたね。

 しかし彼は藤田らの天狗党勤皇過激派と、家老の市川佐幕派との内部抗争にイヤ気がさし、天狗党から抜けて下野の寺尾村に身を潜めました。結果としてこれが正解でした。半年後に天狗党は越前で謀略にかかり、降伏したものの敦賀で殆ど全員が処刑されてしまいます。天狗の連中が西に転進をはかると、水戸藩内は市川佐幕派が実権を握り、勤皇派を徹底的に弾圧しました。西村さんはこの時勢にじっと身を潜めて耐えていたのです。
 西村さんが国事に奔走する決意を固めたのは、嘉永六年の黒船浦賀への渡来したときでしょう。このアメリカ軍艦の渡来はひとり西村謹吾だけ奮起させたのではなく、天下の志士という志士を、悉く攘夷の方向に向かわしめたのです。
このとき京都の天皇側近と幕府の施政方針に齟齬が多く、  
 『もう幕府を倒すしかない』
との世論が盛んになりました。幕府もはじめの頃はただ権威をもって弾圧してましたが、一人を弾圧すればつぎに十人が出てくる。十人を弾圧すれば百人誕生で、少しも弾圧の効き目がありません。その結果が石見銀山や大和天誅組、筑波山での天狗挙兵となり、桜田門外の変と続き、倒幕活動が盛んになっていきました。

 しかし三百年も続く徳川幕府の政治、これに恩顧を受けたという者もあり、幕府の権力が低下したとは言え、烏合の浪士が幕府を倒すなどとうてい無理です。しかし薩摩と長州の雄藩が同盟し、この際、上は天皇側近の公家と結び、下は浪士を使って密かに倒幕の直許を得ようとしました。幕府はここにいたり
まったく三百年来の威厳を失い、運命を一戦に賭ける境遇になりました。時勢は逼迫しました。将軍徳川慶喜は会津、桑名の二藩の兵を率いて京都にのぼり、大政を奉還してしまいます。
 倒幕派はそれに驚きました。それではせっかく倒幕の直許を密かに頂いても、意味がありません。倒幕派はさらに慶喜に官職封土の返上を求め、彼を追い詰めます。
 慶喜は恭順の心を表し、謹んで朝廷の意向に従うつもりでしたが、彼の部下たちが承知しません。彼らは
 『これは薩摩と長州の謀略専断だ!彼らを除け!』
といまにも合戦が避けられない状況になりました。

 これより前です。
 薩摩藩は江戸三田の広大な薩摩屋敷を引き払い、改築してここを関東での倒幕活動拠点にしました。薩摩は益満休之介、伊牟田尚平などの人物が中心とりなり浪士の募集を始めました。
もちろん江戸や関東で反幕運動や騒乱を引き起こす目的です。
莫大な資金は薩摩の西郷隆盛が提供しました。
 それに応じて真っ先に駆けつけてきたのが相楽総三です。
彼は胆力、才智もあり早くから京都で倒幕活動に参加してました。このとき亀山脱藩の西村謹吾さんも下野国寺尾村から駆けつけました。
 ほかに水原一郎、森田谷平、峯尾小太郎、川村藤太郎、林幸之輔ら、のちに幹部となる人々がやってきて、その数も五百人余に達しました。
 これらの浪士とは金銭で動くのでもなく、恥を知らない者でもなく、刀を抜いて戦闘を知らぬでもない。吹けば飛ぶような者でもない。尊皇攘夷という大義の下に、国のため天皇のためには我が命をも惜しまないという人たちです。いまの若い人たちはとうてい想像もできないでしょう。その浪士組から最高幹部の総裁として相楽総三、大監察の水原一郎、監察に西村謹吾さんら五人が選ばれました。
 私が西村さんと知り合ったのはこのときです。

 一方、幕府側もまた浪士を募集し新徴組を結成し、それを庄内藩酒井家の所属にしました。新徴組は江戸市中を徘徊してその警固を固めます。ここに至って勤皇と佐幕の両方がまったく相対峙し、危機一髪、まさに引き絞った弓のよう、少しのきっかけで衝突する事態になっていました。そうこうするうち、京都方面の形勢が切迫してきます。
 そこで薩摩など勤皇派は京都と江戸関東の両方面で呼応し、兵を起こそうと計画しましたが、江戸屋敷の僅か五百名余の勢力ではどうにもなりません。そこで
 『幕府の勢力を四方に分散させ、その隙を突いて
  事をはかるるのが得策だ。』
と策を決定したのです。そしてまず第一に鯉淵四郎、上田修理、岩屋守三郎ら三十人ばかりを相模国に派遣しました。
彼らは相模国萩野(神奈川県)の陣屋を焼き討ちし、武器弾薬、軍用金を分捕ってきました。この成功を見てつぎは西村謹吾、会津元助、西山謙之介ら六十人ほどを慶応三年十一月(1867)に下野国に派遣し、大平山で倒幕の挙兵をさせたのです。
 この激の呼応して各地から味方に加わる者が増え、つぎに岩船山に移るころは約八百人ほどになっていました。
 彼らのうち西村さんら五名の幹部は、下野の栃本陣屋に出向き軍資金の提供を求めました。しかしこの陣屋は三年前の天狗党の挙兵のとき、そのなかの過激派によって街が焼き討ちされ、住民たちは浪士に恨みを持っていました。住民は自衛部隊を組織し武装したのです。
 
 慶応三年(1867)十二月十一日、これを知った五人の浪士幹部は本部から八名の応援を求めたのですが、幕府側と住民の合同部隊と合戦になりました。西村謹吾さんら五名は押田屋という宿屋にいましたが襲撃され、西村さんと高橋亘の二名だけが脱出に成功しただけ。ほかの幹部の斉藤泰蔵、吉沢富蔵、高田国次郎ら幹部三人は討たれたり斬られたり、隊は散り散りになって敗走しました。
 江戸まで戻れた幹部は五人だけでした。
ようやく江戸三田の薩摩屋敷にたどりついた西村さんらは
 『このような敗残の姿で戻ったのは、この合戦の
  詳細を報告するためです。復命した以上は腹を
  かき切って戦死者の後を追います。』
と刀を抜き放ちました。水原一郎があわててそれを止め
 『西村さんともあろう方が何と早まったことをする。
  君がここで死んでも何にもならぬ。生命を永らえ
  て戦うのが戦死者の心だと思うが…』
と説得しました。はじめはなかなか承知しなかったのですが、周囲の猛烈な説得のせいで遂に切腹を思い止まったのです。

                       〔続く〕

 
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