東海道の昔の話(103)
    西村謹吾の生涯 3  愛知厚顔  2004/7/25 投稿
 

総裁、相楽総三が率いる浪士たちもいまは防戦一方です。
屋敷の一方を破って退路を見つけようとしたのですが、前も後もみな庄内松山藩士たちで満ち溢れています。これはまるで袋の中のネズミです。このとき下野から帰った西村さんら五人
  『いまこそ死場所を得たり。下野で死んだ友に
   まみゆるときだ。それッ!』
と、隣接した阿波藩屋敷の土塀を打ち破り、五人は刀を抜きつれて、寄せ手の中に無二無三に斬り込みました。私も五人の後を追って戦いました。そしてついに一方の血路を開き、脱出に成功したのです。ほかの同志もこれに勇気を得て、思い思いに品川港を目指しました。
この様子をみた寄せ手の庄内藩の槍組は
  『一人も逃がすな!』
と私たちを追ってきます。このとき西村さんは声高く
  『敵は我らが引き受けた。一刻も早く落ち延びよ!』
と叫び踏み止まったて戦ったのが、水原一郎、西村謹吾さんら下野から帰着の浪士です。ことに水原は梅鉢紋の毛くま縅の陣笠を被り、肩には

  思い染めし色をば変えじ紅葉の
     身は木枯らしに散り果てぬとも

と書付けてありました。 水原は正幸の鍛えた二尺八寸の銘刀を振りかざし、追っ手の槍組三十人を相手に、さながら阿修羅のごとく散々に戦いました。それを見て追っ手は恐れ慄き敢えて彼に近ずかなかったのです。西村さんら五人は庭先の鴨脚樹を盾にとり、しばらく敵と睨み合っていましたが、煙の中から寄せ手の大将、金子与三郎が大身の槍を竿茎短めにとり、浪士をめがけて突いてきました。これをみて寄せ手は勢いずき
  『それッ討てッ!』
と攻撃します。浪士も戦う価値ある敵と思ったのか、陣笠の紐を切って捨て、
  『ここが死場所だ!』
と刀を抜き合わせて戦います。しかし敵の数は多くそれに槍ばかりなので浪士側は不利です。このとき浪士の峰尾小太郎という勇士がいましたが、寄せ手の大将、金子を目掛けてピストルを取り出し
  『ダーン』
見事に金子の腹を貫きました。寄せ手は驚いて槍を引きずって逃げていきます。その隙に浪士側は勢いを得て脱出に成功したんです。

 私たちを先に逃したあと、踏み止まって庄内松山藩士と戦った西村さんたちが、私たちと合流したのは芝の高輪でした。
そしてようやく品川港に到着したのは昼過ぎです。私たちはようやくほっとしたのですが、腹が減ってきてどうしようもない。
そこでとある料理屋に押し入りました。ちょうどそこではどこの藩の侍か、二三十人ばかりが集まって宴会の最中です。
私たちを見ると驚いて逃げ去りました。
  『これはありがたい、遠慮なく頂くぞ』
と、手掴みでパクパク食べだしたのです。ところが一人だけ豪胆な男が残っており、
  『どうぞゆっくり召し上がってください。』
私たちに酒食の斡旋接待をしてくれました。名前も聞いたのすがもう忘れました。

 品川湊では薩摩藩の持ち船、祥鳳丸が待っており、私たちを収容するため、艀舟を三艘を下ろしてくれました。しかしこのうち一艘は波に流され祥鳳丸に戻れず、二艘だけで辛うじて私たちを収容し乗船できました。この一艘はあとで羽田というところに漂着し、幕府側から散々に追われて京都に到着できたの
は、僅か一名か二名だったそうです。
 薩摩藩の祥鳳丸は、相楽総三に私や西村さんたち浪士組脱出兵を乗せると、すぐに黒煙を吐いて出発しました。船上から江戸の町を見ると、はるかに炎煙が天に立ち昇り、吶喊の歓声や銅鑼の響き、そのすざましい音はどう表現したらいいのか…。
まさに地獄の業火をみるようでした。そこはいままで私たちの城郭と頼んでいた薩摩屋敷の断末魔の叫びでした。
 品川の浜辺には追っ手の藩士が黒山のよう、いまにも寄せてくる気配です。胡蝶丸は蒸気を一段と増して走りだしました。
ところがまもなくはるか後ろの方、山のような大艦が一艘波上に現れました。そしてこちらをむけて迫ってきます。
すると
 『ドーン!』
舷頭に一条の黒煙が立ち、轟然と波をかすめて飛んできた弾丸。
どれも我が祥鳳丸に命中してしまいました。そのため三本のマストは砕かれ、士官室はことごとく破られ、いまにも沈没しそうです。祥鳳丸にも大砲、弾薬があるのですが、敵艦との距離が遠すぎて届きません。空しく敵艦が近ずくのを待つのみでした。
 敵艦はもの凄い速度で近ずいてきました。射程距離に入ったころ、こちらも五、六発射ちましたが、どうもうまく当たりません。
 『このうえは船を相手に乗り付け斬り死にしよう』
と舳を返して敵艦に向かうと、どうしたことか敵もまた船を返し、逃げていくではありませんか。あとで聞けばこちらの撃った砲弾が、敵艦の機関室に命中していたとか…。
 この敵艦は幕府の新鋭軍艦、開陽丸。艦長は榎本武揚その人でした。

 一難去ればまた一難来る、これはいまの私たちの身の上でした。敵艦が去りやれやれと思ったが、我が祥鳳丸は砲疵大きく、潮水が浸入して殆ど沈没するばかりです。
 『着物で穴を防げ!』
西村さんは大声で叫び、袴の裾を裂いて穴を防ぐよう指示しています。私は板の切れ端や調度品を剥がして穴に詰めました。
このようにして伊豆の下田湊に着いたのは、その日の夕方でした。艦体を点検したところ砲疵は十三ケ所もあり
 『よくもこれで沈没しなかったな』
人々はわが身の運の強さに感謝したのです。
 下田で祥鳳丸を大急ぎで修理し、あくる十二月二十六日に再び出港しました。遠州灘にかかるころ俄かに暴風雨が起こり、山のような逆浪が襲いかかります。船中の人々は生きた心地もせず、船底を転げまわりゲロを吐いてました。幸いにも翌二十七日の朝、風は止み浪も穏やかになりました。
  『いったい船はどのあたりだろうか?』
と問えば、
  『八丈島の沖あたりでしょう。』
船は二十九日の朝に紀州熊野の九鬼港というところに着き、ここで一泊しました。あくる三十日はまた海が荒れ模様になり、船を出すことができません。相楽総三を中心に浪士組はいろいろ議論が出ます。
  『天候の回復を待って兵庫を目指そう。』
  『紀州藩がここを襲撃するだろう。いやあの開陽丸も
   後を追っているという。一刻も早くここから陸路
   で京都にいこう。』
結局、私は他の浪士とここで別れました。
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