東海道の昔の話(107)
    鬼平と亀山藩屋敷  愛知厚顔  2004/7/29 投稿
 


 鬼平こと長谷川平蔵は、火付盗賊改メ方という放火犯や強盗、殺人など、凶悪犯を取り締まる特別警察の長官である。
彼の配下には元盗人でいまは改心した密偵が多く協力していた。
伊三次もその有能な一人である。
 その伊三次がある日、なじみの女から昔の盗賊仲間の強矢(スネヤ)の伊佐蔵が江戸に来ていることを知り、鬼平に
 『三日前の夜、なじみの女の客となった男は
  強矢の伊佐蔵という凶賊に間違いありません。』
と報告した。鬼平は
  『伊佐蔵の件はすべてお前に任せる。』
といって、尾行や探索見張りなど一切の責任を伊三次に任せてしまう。
 ところが伊三次の心は憂鬱だった。何か深い仔細があるのだろう。
それがどことなく顔に表れている。たちまち鬼平はそれを察したが、この重要な役目は
 「伊三次、お前にしか出来ない仕事だ」
と信頼している。

 伊三次は人に知られたくない、深い悩みがあるようだ。
鬼平の命によるお役目はきちんと手配し、抜かりなく勤めてはいるが、今日も酒を飲んだが少しも酔えない。
「畜生め、畜生め…」
胸の内に叫びながら、広小路を南へ…上野新黒門町から御成街道へ出た。両眼から得体の知れない涙がこぼれる。
通りの右側は伊勢亀山藩の石川日向守、左側鳥居丹波守の広大な屋敷だ。彼はよろめきながら足を運ぶ。そのとき一人の町人風の男が迫ってきて
  『おい、伊三次…』
低く声をかけた。
  『……?』
振り向いた伊三次
  『う…』
伊三次は自分の胃の腑が、身体の中から?ぎ取られたような衝撃をうけた。
  『この強矢の伊佐蔵を忘れたのか。』
  『……』
つぎの瞬間、眼を見張った伊三次の身体へ男の短刀が吸い込んだ。
伊三次は泥しぶきをあげて転倒した。傷口からおびただしい血が泥濘の道へ流れた。

 悲鳴を聞いて石川日向守屋敷の辻番所から二人
 『どうした?』
伊三次は彼らによって亀山藩江戸屋敷へ運び込まれた。
これは伊三次が
 『このことを盗賊改メ方の長谷川様へ
  お知らせくだせまし。』
と言ったからだ。長谷川平蔵が亀山藩屋敷に駆けつけたとき、伊三次は裏門傍の足軽長屋の一間に運ばれていた。
 亀山藩は名医と噂の高い飯島順道を手配し、彼の手当てを受けていた。それほどの名医を亀山藩が招いてくれたのは、平蔵がひきいる盗賊改方に対し、好意を抱いていたことによる。
 伊勢の亀山六万石、石川日向守の家中には
 「こころ利いたものがいる…」
と見えた。平蔵は石川家の江戸留守居役、渋谷清太夫に会い、厚く礼をのべた。
 『いやなに、御役目、御苦労に存ずる。当人の傷
  が癒ゆるまで、御遠慮なく、当屋敷内において
  治療なさるがよろしゅうござる。』
渋谷は親切にいったくれた。

  『かたじけなく存ずる。』
  『いやいや、お上の御用に立てるならば、われら
   とても何よりのことでござる。』
 留守居役とは江戸の将軍を守るため、参勤交代で藩主家臣が江戸屋敷に詰めるとき、主君のため幕閣との連絡や屋敷の運営経費支出、情報収集などの一切を取り仕切る重要な役目である。
 このとき藩主、日向守は国元に帰っていたので、江戸屋敷は渋谷清太夫が最高責任者として取りまとめていた。

 鬼平の妻は一日も早く伊三次を役宅に引き取り、こころゆくまで看病したいと思った。
 『まだ動かすのは無理だ。』
 『でも他家の御厄介になっているのは、さぞ心細いでしょう。』
 『案ずるな。石川日向守様御屋敷では、まことに
  よく面倒を見て下さる。大名方でも、これほど
  に、われらの御役目を重んじてくだされると
  思うと、わしも心強い。』
そうは言ったものの、こころは穏やかでない。鬼平が一昨日見舞ったとき、伊三次の寝顔を見て
  「これは、いかんな…」
伊三次の死相を見たからである。

 翌朝、雨がやっと止んだ。
 長谷川平蔵は、部下から強矢の伊佐蔵の所在が判明し、捕縛の手配が整った報告を聞くと
 「伊三次を見舞って来よう」
と、羽織、袴をつけ出入りの町駕籠をよばせた。空は曇っている。
 亀山藩屋敷へ着いた平蔵が、足軽長屋の一間に寝ている伊三次の枕もとへ座わると
 『長谷川さま…』
伊三次が意外にはっきりした声で呼びかけてきた。
 『私の身体はもう戻りそうにありませせん。
  どうか私と強矢の伊佐蔵との関わり合いを聞いてください…』
そして話出したことは
「私は強矢の伊佐蔵の女房と密通してました。
それを伊佐蔵に気ずかれそうになり、伊佐蔵を殺すつもりで夜道で斬りつけたところ、仕損じて胸のあたりに疵を負わせ逃げたのです。それからその女
 を連れ名古屋あたりまで逃げ、半年ほど後に殺しました。
 この女は見かけと大違いの悪い女でした。」
そんな関係があり、今回の一件で伊三次の表情が晴なかったのか…。
それがつい油断を招き伊佐蔵に短刀でやられたのだ。平蔵は彼が哀れでならなかった。
 数日して強矢の伊佐蔵は下谷町二丁目の岡場所に現れた。
それを盗賊改方の与力と平蔵、密偵たちに実にあっけなく捕縛された。
 そしてまもなく亀山藩石川日向屋敷から、伊三次が息絶えたことを知らせてきた。

 この話は池波正太郎さんの傑作「鬼平犯科帳・五月雨」に描かれたものである。主役の長谷川平蔵は実在の人物。しかしストーリーはすべて創作だが、実にリアルで面白い。
 テレビでも大人気のシリーズで放映された。この「五月雨」は盗賊の捕縛よりも、配下の密偵伊三次の死に力点がおかれていて、発表当時も熱烈な鬼平フアンから
 『伊三次を死なせないで!』
と多数の要望があったそうだ。中に亀山藩江戸屋敷の協力ぶりが述べられているが、あるラジオの対談で池波さんが
 『私は大藩の江戸屋敷よりも、中小大名の江戸屋敷
  を登場させるのが好きです。ことに亀山藩は大好きです。』
と語っていた。何でも実在した平蔵の記録でも、亀山藩に関する記述があると言っておられた。
 鬼平研究者が作成したホームページを閲覧すると、小説に登場する盗賊の出身地が「名越」とあるだけで、熱心な鬼平ファンたちは、それは我が近江の名越だ、いや伊那の名越だ、上越のだと論争を繰り広げている。
 この「五月雨」のように、はっきりと亀山藩の協力ぶりが描かれていることは、熱心なファンから
 「亀山の人がうらやましい」
と思われているに違いない。


                          引用文献   池波正太郎「鬼平犯科帳、五月雨」

 
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