東海道の昔の話(113)
    西行の鈴鹿峠越え 1  愛知厚顔  2004/8/14 投稿
 


 暑いですね。近江土山からまっすぐ休まず登ってきました。
少し疲れました。ここは鈴鹿峠ですね。風がさわやかですね。
気持ちがいいので少し休んでいきましょう。出家して間が無い
のかとおっしゃる?、判りますかその通りです。仏の導きで
すっかり悟りを開いたつもりでも、生きている以上は現世の縁
は捨てきれません。若くみえますか?。いやいやもう二十五才
です。この仏法修行を志す者にとって、少し年を取りすぎま
した。ああいい風ですね。少し腰を下ろしましょう。
貴方とこうしてお話ができるのも仏縁です。

 どうか私の話を聞いてください。
鳥羽院が天皇として御在世のころ、私はその御所の北面に伺候
して警護する役人でした。名前を左兵衛尉、佐藤義清といいま
す。私の先祖は平安時代に鎮守府長官をしていた藤原秀郷。
生まれながらの武人の家系です。私は剣と弓矢はもちろん
兵法書の奥義も究め、漢学の家々に伝わった詩文を好み、とも
に苦労して勉学に励みました。また自慢ではないが、和歌にい
たっては先人の柿本人麿、山部赤人や在原業平、紀貫之などに
も劣らないと、人々から賞賛されました。

 花の春、紅葉の秋、満月の宴、蹴鞠の会、弓の競射など、
院が催される遊宴には、何を置いてもこの私をお召しになりま
した。京極太政大臣の藤原宗輔さまがまだ中納言のころ、菊を
たくさん栽培され、鳥羽院に献上されたとき、院はその菊を
鳥羽離宮の御殿の南殿や東面の庭に、ぎっしりと植えられたの
です。藤原通季のご子息の公重の少将は人々にすすめ、その
菊を題にして和歌を詠ませたのですが、私にもそれに参加する
ようにとお声があり、保延二年(1136)十九才のときに詠んだの
がこの歌です。

    君が住む宿の坪をば菊ぞかざる
         ひじりの宮といふべかるらむ
 
 鳥羽院がお住まいの御殿の中庭、そこには沢山のお目出度い
菊の花が飾られている。仙洞御所と申し上げるほうがよい、
まことにそうお呼びしたいものです。そんな意味です。

 御所の庭に伺候している日は、私は清涼殿をふり仰ぎ守護の
一日を過ごし、宿直のときは紫震殿の床を見回して警護しまし
た。院からは格別の恩恵を給わり、実家も裕福で何の不自由
もありません。院からはたびたび検非違使佐に任命の内示が
ありました。しかし私は
 「百年の栄華も醒めて見ればただ一夜の夢、検非違使
  などどれほどの楽しみがあろうか…」
と思い悩んでいました。そしてあれこれと理由を述べて辞退を
申しあげたのです。

 つねずね静かに考えると、人間としてこの世に生まれること
は、遠い宇宙から糸を垂らして、海の底にある針穴を通すほど
難しいといわれます。また仏法の教えを知ることは、盲目の亀
が流木の穴に目が合うのと同じく、めったにないことだと判り
ます。人は幻に過ぎぬ栄華に心を奪われ、当座の縁にすぎぬ妻子
に束縛され、来世で苦しむ因縁を結ぶ。これはまことに哀れな
ことです。
 私の二十数年間を振り返っても、考えてみれば仮寝の夢より
もはかない。この先、二十年三十年生きようと、どれほど楽し
い思い出ができましょうか。私は幸いにも仏の教えを知ること
ができました。
 このときに仏道修行をしないでは、せっかくの好機を逃すこ
とになります。竜樹菩薩は
 「財産豊かでも、なお欲望があればそれを貧しい状態」
と云い、
 「無一文でも欲望がなければ、それを豊かな状態」
と言ってます。これらの道理を考えると私の出家の願望はいよ
いよ高まったのです。


 しかし院の恩愛のもったいなさ、肉親の情愛の捨て難さに
悩み、空しく月日を過ごしておりました。
 この頃、東山で友人たちと今の悩みを述べようと、
こんな歌も作りました。

  そらになる心は春の霞にて
    世にあらじとも思ひ立つかな

 そわそわと落ち着かない私の心は、まるで春の霞のようで
した。
 そんな悩みをご存知ない鳥羽院さまは、ある年の秋、下鳥羽
にあった鳥羽離宮が改築完成したのを機に、源経信や藤原基俊、
などの歌人に私も招待され、ここの十枚の障子絵を題材に一首
ずつ和歌を献上するよう申されました。そのとき私はたちまち
のうちに十首を奏上申し上げたのです。院は大変お喜びになら
れ、朝日丸という宝剣を錦の袋に入れて下賜されました。
 またあるときの歌合わせでは、十五枚重ねの衣服を頂戴し、
それを肩にかけて退出するとき、私のその姿を見た者は大変に驚
き、羨ましがったものです。しかし私は
  「こんな名誉を受けていると、現世への執着が
   いよいよ深くなり、出家の決意がにぶるのでは…」
と思うのでした。
                     〔続く〕

 
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