東海道の昔の話(118)
    菅茶山と関の宿 2  愛知厚顔  2004/9/1 投稿
 


 菅茶山が福山藩江戸屋敷に滞在し、藩主や徒士あるいは彼の名を慕って訪ねてくる人たちに詩の指導をした。あるいは意見交換、吟会など多忙な毎日をおくった。
 この江戸ではあの関宿の夜に佐藤子文や山口凹巷から推薦された河崎敬軒もやってきた。そして菅茶山と初対面を済ませていた。
 河崎敬軒の儒学と漢詩の才能は相当に光るものを秘めている。茶山は時間の許す限り河崎敬軒とも交流を重ねた。

 菅茶山が帰国の途についたのは、翌年の春であった。
このとき河崎敬軒ともう一人の弟子で竹田器甫という若者が茶山と一緒に帰途の旅につくことになった。

 文化十二年二月二十六日、菅茶山は江戸を出発した。
河崎敬軒と竹田器甫らは前日に出発先行している。翌日には保土ヶ谷で全員が合流し、更に二十八日には鎌倉と江ノ島で吟遊して遊んだ。三月に入ると箱根を越え大井川を渡り、予定どうり名古屋熱田に到着する。また尾張の佐屋では舟を浮かべてまた詩を吟じあった。つぎの宿の四日市で河崎敬軒は
  『茶山先生、楽しい旅をご一緒させて頂き、
   有難うございました。私は伊勢の山田なので
   追分から伊勢街道を行きますが、先生も道中
   御身体を大切に旅を楽しんでください。』
と云って分かれていった。菅茶山も
  『貴方と知り合えて本当に良かった。また機会が
   あればお会いしましょ。よい詩が出来たらまた
   見せてください。』
とお互いに手を振って別れたのである。

 東海道を登っていく菅茶山と竹田器甫、彼らはすぐ急な杖突坂を越える。この坂は古くにヤマトタケルが不自由な身体を庇いながら上った坂である。また元禄の昔に俳聖の松尾芭蕉が落馬したので有名だ。

 徒歩ならば杖突坂を落馬かな    芭蕉    

 やがて石薬師宿をすぎ庄野、亀山宿と過ぎる。
今夜の泊まりはやはり関宿になりそうだ。
  『茶山先生、やはり今夜は関の鶴屋で泊まり
   ましょう。』
  『そうしましょ、昨年江戸に下るときも、鶴屋で
   子文や凹巷たちと賑やかに詩を楽しみましたが、
   一年経つのもあっと云う間、早いものです。』
沢山の旅人が歩いている。彼らの姿を見ながら二人は宿を決定した。
 左に鈴鹿川の流れが近ずき、長い長い松林の大綱寺畷を歩く。ここでも芭蕉と弟子とが詠んでいる。

  からっ風の大綱寺縄手ふき通し
      蟲のこはるに用かなうべき

 関宿に入ると急に客引きの女が騒がしく声をかける。
しかし茶山らはまっすぐに鶴屋の玄関にたった。
  『茶山先生、お待ちしてました。』
嬉しそうに奥から出てきたのは、佐藤子文と山口凹巷の二人である。茶山は驚いて
  『いったいどうして…、私たちの泊まることが
   判ったんやね?』
  『先生、そりゃ簡単です。河崎敬軒が知らせて
   くれたんですよ。』
  『なるほど、やはり君らは伊勢山田詩社の切って
   も切れない同志なんじゃね。』

 一同は昨年二月と同じ部屋に案内をしてもらった。
今夜も楽しい吟会と宴になりそうだ。
菅茶山の旅日記には
  ”晴、未牌、関駅に至る。内宮の佐藤吉太夫来り、
   余を引きて一旅に宿せむ。山口角太夫、二生
   の孫福内蔵を携え来り、宴飲三更に至る。”
とある。楽しい吟と宴は夜遅くまで続いたとある。
 このとき茶山は佐藤子文に一編の詩を呈している。

   関駅   佐藤子文に
薇西二月送君時 薇西二月に君を送りしとき
再会寧知今日晴 再会いずくんぞ知らん今日の期を
人事難常亦堪喜 人事は常にし難きも
          また喜ぶに堪えたり
勢南一夜復伝盃 勢南の一夜また盃を伝う
   
二月に君と別れたとき、今日の再会を誰が知ることが
出来たろう。人の世は常に何が起こるか予測は難しい
が、本当に嬉しいこともこうして起きる。
この勢南の一夜にまた祝杯をあげることができた。

 そして山口凹巷にも一編の詩をあたえた。

説出胸懐是我倫 胸懐を説き出せば是れわが友
相知何問旧将新 相知、何ぞ問わん旧と新とを
尤悦今世昌黎伯 もっとも喜ぶ今世の昌黎伯
温籍終非木彊人 温籍(ウンシャ)ついに
        木彊(ボクキョウ)の人にあらざるを   

 昌黎伯は中国の江南省河陽の人、中唐の皇帝に仕えていたが、主君を諌めて左遷された。逆境にもめげず弟子の柳宗元と共に、古文や散文の復興改革運動につとめた。
この師と弟子の恩愛は「唐宗八大家」の一人として、いまに伝えられている。木彊とは剥き出しで気が荒い人無骨者をいう。いまの菅茶山と伊勢の弟子との関係をこの故事に例えたのである。

 こうして菅茶山と伊勢の弟子たちの楽しい関宿の夜は終わった。茶山が江戸を往復したのは寛政六年(1974)四十七才のとき、文化元年(1804)五十七才のとき、そして文化十一年(1814)の六十七才の三回である。
いずれの往復でも鶴屋に泊まっている。
伊勢や志摩の佐藤子文、山口凹巷、河崎敬軒、北条霞亭、孫福内臓ら山田詩社の同人仲良し組は、その後も幾たびか備後福山や京都を訪問し、菅茶山や頼山陽と親しく交誼し漢詩や儒学の指導を受けている。

 日本人物辞典にある菅茶山の略歴はつぎのようである。
江戸中期の詩人、思想家、教育者で福山藩の儒学者。
寛延元年(1748)生まれ文政十年(1827)八月十三日没。
享年八十才だった。
 茶山は備後が生んだ当時日本一といわれた最高の漢詩人であり、また思想家教育者でもある。寛延元年に備後の神辺宿の菅波久助の長男に生まれ、父は農業と酒造りをしていた。十八才で学問を志し京都に上って耶波魯堂に朱子学、和田泰純に医学を学んだ。

 その後も何回も京都に遊学した。
天明元年(1781)三十四才のとき私塾「黄葉夕陽村舎」を開校し、村童に学問を教えはじめた。その後、塾は発展して福山藩藩校となり、「廉塾」と呼ばれた。
 福山藩主、阿部正倫は寛政四年(1792)に五人扶持で彼を召抱え、正式に藩の儒学者となった。
つぎの藩主、阿部正精も茶山を厚遇し、三度の江戸出府を命じた。東海道を上がり下りしたとき、関の宿で伊勢在住の弟子たちと楽しい吟宴を持った。
著書に「黄葉夕陽舎詩」の初編、後編、遺稿の三部作があり、合計二千数百首の詩が収録されている。
 これは頼山陽の編集である。
 
 志摩的矢出身の北条霞亭は福山藩校の塾頭となり、茶山の姪を妻に迎え右腕となって支えた。彼は藩主の阿部候に召しだされ、江戸で没したのは文政六年(1823)八月十七日である。
 墓銘碑の文は山口凹巷が引き受けたが、彼もまもなく病で亡くなった。そして頼山陽によって山陽の死の直前に碑の完成を見たのである。北条霞亭、享年四十四才、 著書に「嵯峨樵歌」など多数あり、多くに茶山が序を書いている。その中の詩を一つ紹介する。

   嵯峨幽居
巖樹蒼蒼暗  巖樹青々として暗く
夜橋人度稀  夜橋に人わたること稀なり
山頭懸片月  山の頭に片月は懸かり
川上落幽輝  川上に幽輝は落つ
鐘歇花陰寺  鐘は歇む花陰の寺
燈明竹裏扉  燈は明るし竹裏の扉
眠心随景況  眠心は景況にしたがい
無一不清機  一つとして清機ならざるは無し

 韓聯玉こと山口凹巷(1772-1830)も伊勢山田の人。
もとは遠山氏だったが山口家の養子となる。著書に「北越遊草」「東奥紀行」「天橋紀行」などがあるといわれる。もっとも有名なのが「芳野遊稾」である。

 孫福内蔵(1808-1862)
 俳人、伊勢神宮の神職で御師。名は公寛、公務。号は楓窓。若くして東恒軒に師事して漢学を修めた。また詩書もよくした。詳細は不明。

 河崎敬軒は明和七年(1770)生まれで文政元年(1816)没。
彼も伊勢山田の生まれで文化文政年間の儒学者。名は粥(タスク)字は良佐、号が敬軒である。
 本来は伊勢神宮の御師(オシ)と呼ばれる神職であるが、これは各地を回って伊勢参拝客を誘致する役目も担っていた。彼の著書に「楡塾日記」や「驥虻日記」がある。
後者の驥とは一日で千里を走る駿馬を指す。これは師の菅茶山のことであり、虻とはその駿馬にたかる虻、すなわち敬軒自身を指している。
 彼は江戸から茶山に同行し、伊勢に帰った旅の印象を

  ”楽しきこと、恍として夢境の如し”画像は「関宿の鶴屋」

と日記に残している。

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参考文献 森鴎外「北条霞亭」菅茶山「黄葉夕陽舎詩」
     富士川英郎「菅茶山」

 
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