東海道の昔の話(12)
  秀吉の伊勢侵攻          愛知厚顔 70代元会社員 2003/8/31投稿
        
 天正十年(1582)、羽柴秀吉は主君織田信長の仇、明智光秀を山崎川の合戦で討ち滅ぼしたのを機に、いまや日の出の勢いであった。ところが柴田勝家などの先輩武将たちはこれが面白くない。
 当時伊勢国主だった滝川一益も勝家と図って秀吉に対抗した。
天正十一年(1583)正月二十三日、秀吉は電光石火、近江安土城を出発し伊勢侵攻の行動を起こした。雪が溶けると越前の柴田勝家の軍が行動を起こし、滝川と連合して攻めてくるため、先手を打ったのであった。彼は総勢七万五千とも十万とも言われる軍兵を三手に分け、一手を時多良口(五僧峠越)、一手を君ケ畑口(治田峠越え)、そして自らは三万五千を率いて安楽越えに殺到したのだった。

 迎え撃つ滝川勢は伊勢平野での合戦に戦力面の不利を悟り、鈴鹿山系安楽越の天然の要害を最大に利用する作戦を立てた。
秀吉の軍勢は雪の山女原(土山町)を発し、国境の安楽越を難渋しながらも越えてくる。一方の滝川方は前もって安楽川沿いの細い崖道を随所で切り落とし、両側の岩山には逆落としの大石、大木、丸太、櫓を各所に設けて待ちうける。
 攻めるほうは大軍でしかも武器、兵糧、軍馬をそろえた重装備、しかも土地不案内で険路である。

 これに比べ守る側は天然の要害に充分な邀撃体制と、土地カンのあるゲリラ戦で対抗する。これにはさすがの秀吉も攻めあぐねてしまった。
 悪いことに渓谷の道は滝や淵沿いの岩壁で馬の爪ほどしかない狭い道幅。ここを雑兵が馬の口を取ってソロソロと先導して渡り、もう一人が馬の後ろから尻尾を持って押して渡そうそしたのだが、馬は尻込みをするばかりで進もうとしない。
 それを見た滝川勢はいっせいに弓矢を射かけ、大石や大木を崖の上から投げ落とす。とうとう多くの馬が深い淵や滝壷に真っ逆さまに転落して死んでしまった。
 
 そんなことを繰り返て強引に突破しようとしたが、ますます犠牲ばかりが増える。
  「困ったものだ。なんとかよい方法はないものか…」
攻める側の首脳は悩んでしまう。そのとき総大将の秀吉は
  『誰かこの山にくわしい土地の人間を探し出せ』
と命じた。そのとき召し出されのが、山女原(アケビハラ)へ養子できていた池山集落(亀山市)出身の猟師だった。
 池山と山女原この二つの山間集落は同じような土地環境のため、安楽越をはさんで交流があり、お互い嫁取り婿選びも「山のむこうから」とよく行われていたのである。そして
  『なんとかこの山を越える方法がないか?』
との秀吉の問いに
  『この山には他に道はありません。あくまで谷沿いに進
   むしかありません。その方法は私にまかせてください』
と、この猟師は自信たっぷりに言う。
  『よしまかせる、存分にやって見よ』
秀吉に見込まれた男は、一人だけで長い紐を結んで馬の口を取り、
  『ハイハイ、ドウドウ』
かけ声をかけながら、難なく一気にこの険しい崖道を通過してしまったのである。それを見た他の雑兵たちも一人だけで馬の口だけとって
  「ハイハイ、ドウドウ」
駆け足でつぎつぎに渡り、一頭も淵に落ちることはなかったのである。
 なまじ人間は頭が良すぎるばかりに、余分なおせっかいをしていたわけで、馬は馬なりにその本能を信じてやればよいと云うことであった。

 この淵のある険路は安楽川石水渓のどのあたりになるのか…、
そこは当時〔馬落し〕または〔駒落し〕と呼ばれていたらしいのだが、いつしか忘れられている。たぶん石水渓キャンプ場の少し上流にある岩坪三つ淵あたりであろう。 いまは車の道が走っているが、むかしの山道は険しく、キャンプ場あたりから沢をわたり、正面のピークを乗り越して石水渓開発小屋あたりに出ていた。
 いまは廃道になっているが、恐らく滝川勢はこのピークと向いの鬼ケ牙の岩山に砦を築いて秀吉を待ち受け、岩石や大木を投げ落としたに相違ない。頭上にのしかかる鬼ケ牙の迫力から〔馬落しの険〕を実感するのである。現在の鬼が牙と車道

 このときの戦いで秀吉が腰を下ろして休憩したと伝えられる大石「八畳岩」が少し下流にある。滝川軍もよく防戦したが、秀吉の勢いは止められず、春を待たずに降伏してしまった。
それから間もなく越前の柴田勝家も滅ぼされてしまった。

参考文献  「太閤記」 菊池寛「日本合戦譚」
 
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