東海道の昔の話(121)
   平信兼の生き様  愛知厚顔  2004/10/13 投稿
 


 JR加太駅の西北の背後に経塚山(628m)がある。
白鳳のむかし人々が国土安穏、無病息災、西方浄土を願って、山頂に御経を入れた筒を埋めたとの伝説が残る。 
 春まだ浅い二月、五人の男たちがこの山に分け入った。
その中の二人は剣を腰に帯びた若い武士である。あとの人はいずれも大きな荷駄箱を背負っている。歩き出してまもなく山道は急になった。日ごろから合戦に備えて身体は鍛えてあるとは云え、山に登るのはやはりしんどい。
  『すこし休もうか。』
 いちばん年嵩の武士が立ち止まっていう。一行は立ち止まって呼吸を整え額の汗をぬぐった。朝の冷え込みは収まったが、冷たい北風は彼らには心地よかった。
  『あっ、あそこに久我(関町久我)の館郭が見えるぞ!』
  『父が手を振っているわい。』
木の間隠れに城郭の一部が見える。一行が今朝出てきた居城である。彼らの父とは平盛国のことである。二人はその長子の実忠と二男の信兼である。しかし父の姿などここから見えるはずない。鹿伏兎城跡がある山 JR加太駅の裏である
  『そんな馬鹿な見えるわけがない。』
皆は大声で笑った。
  『案外に小さいものだな…、これじゃ重盛に
   攻められたら、ひとたまりもないなあ』
若いほうの侍がつぶやく。重盛とは平重盛のことである。

 嘉態二年、勢いを増していた伊勢平氏の筆頭、平清盛父子は念願の昇殿を果たしていたが、その重盛の次男の平越前守資盛もやがて昇殿を許された。そして摂政関白、藤原基房に伺候したとき、何か些細な礼を失した不行跡があったらしい。
狭量な藤原基房は平重盛に
  『汝の子はいかがなものか。』
と注文をつけた。それを知った父重盛は
  『平氏の血を引く者がなんたることか!』
と平資盛を伊勢国鈴鹿郡関久我庄に追いやったのである。
資盛は久我に住むこと六年余、そのとき生まれたのが彼らの父、平太郎盛国であった。
 祖父の資盛は安元元年に主馬判官盛久の仲介で許され京に戻っていた。
  『そう…、だけど我ら関平氏の二家が団結
   して敵に当たれば、絶対に大丈夫だ。我らの城
   はここからも見えるはずだが…』
彼らは樹木が薄くなった尾根の端に寄った。そこからは久我の館は隠れて見えないが、代わって伊勢の野や里が広がっており、その先には海まで見える。
  『あの森の中には亀山城がある。隠れて見えないが
   峰の館城(亀山市川崎)はこの方角だろう。
   すると我が館のある昼生庄(亀山市)はあっちの方と思うな…。』
 指をさしたが近い距離にあるとは云え、肉眼で館城は確認できない。彼は久我の平盛国の甥にあたり、父の兼隆はすでに他界していた。
彼は平信兼といった。
  『安濃津はあの方角だ。クソ清盛、重盛は、あそこの出だ。』
吐き捨てるように、今をときめく権勢者の名を出した。
同じ平氏でも我らは違う、我らは武士の誇りを失うまい。
権勢欲のかたまりの連中とは一線を置くぞ…。
言葉にはしないが、二人の関平氏の御曹司は心に誓っていた。
  『さあ頂上まではまだある。頑張って登ろう。』
五人の男は再び急な山道を登りだした。彼ら平実忠と平信兼の若い二人は相談し、白鳳の例にならい山頂に経筒を埋設するため登ってきたのであった。

 それから間もなく昼生館の平信兼は志を立て京に登った。
  「俺はほかの平氏とは違う、
   あくまで武士の意地を貫くぞ!」
 経塚山で心に誓った思いはますます強い。やがて検非違使に任じられ鳥羽院の北面の武士として意気盛んに活動していった。
 久寿二年(1155)二月一日、京都の町で任務についているときである。ある路頭で左大臣の藤原頼長の行列に遭遇した。
悪名が高くて世間の人々から忌み嫌われている頼長の駕籠を見て、信兼の血がさわいだ。彼はゆっくりと背から一本の矢を抜き出し、弓につがえてヒューと行列の中に射こんだのである。
  『あッ、敵だ!』
藤原頼長も自分に仇なす敵が多いことを感じており、日ごろから用心している。
  『それ捉えろ!』
たちまち大乱闘になってしまった。だが信兼はいち早くその場から逃れている。
この噂が京の町人や検非違使の仲間に知れてくると、
  「あの頼長をこらしめたのが奴だ。」
信兼の名は高まり知らぬ者はいないほどになった。

 ところが翌年の保元元年七月(1155)に、いわゆる保元ノ乱が勃発した。
それは鳥羽法皇の崩御に端を発している。
法王の実子でありながら、かねてより冷遇されてきた崇徳上皇が、この機会に自分の立場の強化を図ろうとされた。
 そして藤原忠実、頼長の父子を頼りに、源為義、平忠正らに結集を呼びかけた。それを知った後白河天皇の側も、八月には自分に味方する公家や武士に命を出し、
  『至急に参集せよ』
それに応じて集まったのは源義朝、平清盛、源義康、藤原助経、平実俊、そして平信兼も八十余騎を従えてきた。その合計は一千七百余騎に達した。
 そして軍議の結果、直ちに夜討ちをかけることになった。
これに対して崇徳上皇側は藤原忠実、頼長、藤原教長、成雅、頼資らの公家と、武士では平忠正と子の長盛、平康弘、源為義、為朝らの兄弟、合計約一千騎余である。
同族、親戚、親子、兄弟が敵と味方に別れて戦うという非情な戦になった。 

 この戦の結果は後白河天皇の側が勝利する。 
その戦功により源義朝らと共に非常時のとき、宮中に召しだされる五人の武将のうちの一人に撰ばれた。ほかの人は平実俊、源義康、源頼政らである。
 平信兼はこの乱の功で彼は正五位下に列せられ、出羽守そして河内守、和泉守と順調に累進していった。
 だが同じ平氏でも平清盛、重盛らの、むき出しの権勢欲にはいつも辟易していた。しかし彼らはすでに高位高官であり、自分は彼らの下で命に従う身分である。
どうも武士としての誇りが許さない。こうした悶々とした思いが鬱積しているとき、その平清盛から
  『平康弘を断罪せよ。』
と命令が下った。いくら戦った相手とはいえ同族である。
しかし上司の命には服さねばならぬ。まさに血を吐く思いで断罪を行った。さらに中央では同じ年令の平宗盛とも性格的に合わなかった。彼らは武人というより公家のような連中である。信兼の性格からは平氏より、東国出身の源氏の人々に心を許せる友人が多かった。
 彼は決心した。ある日とうとう
  『俺は帰るぞ!』」
と宣言し、伊勢の鈴鹿郡昼生庄へ帰ってしまったのである。

 つぎに歴史が動くのは平治ノ乱である。
 保元の乱の後、次第に力を持ちはじめた平清盛と源義朝。
この二つの勢力はことごとく対立するようになる。二条天皇の時代だが院政が敷かれた。後白河上皇が政治の実質を握っていた。その臣下である院の近臣内部でも深刻な対立が生まれた。
 こうした一触即発の空気がふくらんだ平治元年(1159)、平清盛が熊野詣にでかけた留守を狙い、義朝が藤原信頼と結託して挙兵した。そして三条殿を襲撃して後白河上皇を皇居内裏に移した。
 この変を知った清盛は急いで京に戻り、兵を集めて反撃を開始した。やがて源氏方は総崩れとなり、上皇と二条天皇は内裏を脱出した。源義朝は知多の野間で殺され、藤原信頼も敗走の途中で死んだ。この後、政治の実権は平氏の握るところとなった。

 平信兼がこの政変の知らせを受けたのは鈴鹿郡昼生庄の居城である。この頃は一志郡や飯南郡にも所領を増やしていたが、平常は昼生に住んでいた。
  『これからは清盛の天下か…、だがあいつが
   何を云ってきても、俺は従わないし上京もしないぞ。』
 日ならずして京の平氏から
  「上京されたし」
と督促があった。平氏でなければ人でない。同じ平氏の一門である。その気になれば栄耀栄華が待っている。そういう時代が来ようとしているのに、彼はあくまで孤高の武士の道を進もうと決めていた。
  『奴らにゴマは摺らない。俺は俺だ。
   ほかの誰でもない。』

 平信兼には兼衡・信衡・兼時・兼隆の子供があった。
いずれも信兼の血を受けて武勇の将であった。その中でも末子の兼隆は左衛門尉から検非違使と進み、和泉守にも補任されて父に次ぐ栄達をした。しかし若気のいたりである不祥事に座した。
  「そちを伊豆に移す」
彼は伊豆の山木郷に流され、そこで山木判官と呼ばれるようになった。頼朝が伊豆で挙兵したころ平時忠が伊豆の知行国主とし、その子時兼を伊豆守としていた。とくに時兼は平信兼の子の兼隆、山木判官を可愛がり目代に抜てきした。
 実質的な現地の最高責任者である。そのため山木判官の勢威は国府政庁(留守所)を支配し四隣に及んでいた。
                      〔続く〕

 
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