東海道の昔の話(124)
   亀山無線電信局     愛知厚顔  2004/11/3 投稿
 


 ライト兄弟が発明した航空機、それがやがてだんだんと改良され実用化される。第一次世界大戦では列強各国が新兵器として登場活躍させた。これをきっかけに世界の各国は航空機による輸送業務もだんだんと発展させる。
 その前の大正八年(1919)十月には〔航空法規に関する国際条約〕が取り決められ、わが国も賛同加盟している。大正十一年(1922)になると日本航空輸送株式会社に運航許可が下りたが、もちろんこれは国策会社である。やがて東京−大阪−福岡間の民間定期航空輸送が始まった。この当時は航空機には無線設備は搭載していない。安全に航空をするのに充分な設備も装備されてない。そのため気象情報や発着の情報は飛行場からの、いわゆる航空
固定通信でしか得ることができなかった。そのためさまざまなトラブルが続発し、官民一体の早急な対策が迫られていた。
 
 そこで登場したのが無線電信による通信連絡である。昭和四年(1929)のことだった。この定期航空行路に従って箱根、福岡、そして三重県の亀山に無線電信局を設立し、上空を飛行する航空機との情報連絡に当たらせようとした。箱根と亀山の地が選ばれたのは、箱根連山や鈴鹿山系があって、いずれも気流の変化が大きく、航空機の安全飛行上に重要な地点にあたるためだ
った。これは現在も変わりがない。
 そして中波(300Khz−3000khz)のうちラジオ放送の周波数を避け、割り当てられた上の方を使用した無線電信業務が開始された。これがわが国の航空通信業務の第一歩である。

 亀山市亀田町の亀山無線電信局は逓信省の管轄で設置された。
当時ここは低い潅木やササ、ススキなどの生い茂る原野が広がった台地上にあり、西に鈴鹿の山々が聳え周囲には建物もない絶好のロケーションであった。
 その昔、広瀬野から起こった大規模な一揆の連中が集合場所にしたところでもある。この地に三本の巨大なアンテナ塔と局舎、そして隣接した場所には職員の官舎を建設した。この無線電信による航空機との連絡網の確立により、航空輸送業務の安全性は格段に高まった。

 通信手段として電信機の最初の発明者はS・モールスである。
彼の偉大さは機械の発明もさりながら符号の組み合わせに先見性があった。それはローマ字二十六文字のうち一番多く使用されるE、これに一番短い符号トンを充てたことである。つぎにIの文字にトンを二個充てるという具合に作成された。
 この電信機の発明したのが天保八年(1837)。やがて電磁波の発見と実用化がつぎつぎとあって、明治二十年(1887)イタリーのマルコーニによる無線電信の発明に至る。
 各国はさっそくこれを競って遠距離通信、離島、船舶、軍艦などにとりいれる。
 わが国では明治三十七年(1904)の日本海海戦で実用化し勝利に貢献した。
 そして逓信省は本格的に無線通信士、技術者の養成を開始する。
明治四十五年(1915)になると、北海道の落石無線電信局とカムチャツカのペトロバブロフスク間に、初めて国際固定無線電信業務を開始した。もちろんGベルによって発明された電話もやがて実用化される。そして電波に音声変調をかけた無線電話が登場する。やがてラジオ放送の開始につながる。
 わが国のラジオ放送は一九二五年三月三十一日に東京放送局〔JOAK〕が最初である。

 そして航空機が沢山空を飛ぶようになった昭和二年(1929)、無線による方位測定が初めて行われた。昭和九年(1934)八月。このときから亀山無線電信局では、航空機に向けて一定の電波を発射し、それで航路や方位を識別する聴覚式航空無線識別標識の実地テストが開始された。これが実用化されたのは昭和十六年の第二次世界大戦の直前である。この無線標識もわが国での嚆矢となっている。
 間もなく戦争の時代に入る。
上空を飛行する航空機がそれまでより大幅に増加、亀山無線電信局もその膨大な連絡と通信量に翻弄される日々となった。戦況が悪化すると大日本航空株式会社は戦時動員され、会社をあげて軍用に投入された。そして次第に会社の手を離れて陸海軍の管理下に入っていった。亀山無線電信局のベテラン職員たちも一人二人と兵役にとられていく。
 食糧不足を補うためにアンテナの下の土地を耕して野菜を作った。やがて悲惨な戦争末期がやってくる。この上空も敵機が自由に飛行するようになる。この巨大な3本のアンテナ塔は敵機からは格好な目標である。いつかは爆撃されるだろうと職場を守る職員は祈るように空を見上げる。
 昭和二十年の七月ごろ米軍のB29爆撃機が名古屋を空襲した帰途、ここから少し入った山に一発の爆弾を投下した。幸い被害はなかったが人々は、あれは無線局を狙ったのが外れたのだろう、と噂をし合った。

 そして昭和二十年〔1945〕八月十五日敗戦。
 アメリカ軍に占領された日本、最高指令部GHQからの命令でわが国の民間航空機の運航と製造、そしてその研究も禁止された。亀山無線電信局も休眠状況に追い込まれた。もっとも戦争末期には通信相手の航空機そのものが無くなり、実質の休眠状態だった。しかし通信設備は守らねばならない。職員はいつか再開されるであろうその日に期待し、保守点検を怠らなかった。また周辺の人々の求めに応じラジオの製作、修理などを引き受け村人に喜ばれた。
 昭和二十五年六月、待ちにまった民間航空機の運航の再開が許可された。しかし昔のモールス符号通信に頼る時代はとうに過ぎていた。日本上空の航空管制、航空通信はアメリカ軍が持ち込んだ最新式の機械にとって変っていた。
 翌年六月にはJAL木星号が羽田−福岡間を初フライトに成功する。
このときの航空管制はまだアメリカ軍に頼っていた。
昭和二六年(1951)七月になるとこの航空管制権がアメリカ側から日本側に渡る。本格的な管制業務が進み、民間航空路の発達と平行して航空通信の世界も格段の進歩を遂げていく。
 平成二年にVHF無線による空地データリンクサービスが開始し、インサルテット衛星通信サービス開始と繋がっていった。

 あのSモールスが発明したトンとツーの符号を組み合わせた通信、この画期的な通信手段も有線では昭和三十三年に自動機械通信にとって代わり、全国の電報局から通信士の姿が消えた。
 こうして警察、気象庁、国鉄、逓信省などに、広く張り巡らされた電信通信網も終焉した。また無線では平成十一年三月三十一日に最期の海岸無線電信局が閉局となり、船舶通信は通信衛星の時代に突入した。あとは若干の漁業無線電信局が残り漁船との通信を守るだけである。もっともアマチュア無線の世界では、まだ沢山の人々が趣味としてモールス通信を楽しんでいる。

 亀山無線電信局が廃止されたのは昭和二十年代後半と思われる。
しばらくは巨大なアンテナも残されていたが、やがてこれも撤去された。局舎の建物も一時は三重県茶業試験場が使用していたようだが、その後はどうなったか…。官舎の住宅もその後はNTT社員住宅としてしばらく存在したと聞くが、いまはどうなっているのか…。
またこの敷地の西側に広大な原野が広がっており、ウサギやキツネ、タヌキなどの天国だったのだが、いまは住宅が立ち並んでいる。

 私事で申し訳ありませんが、父が昭和初期に無電局に通信士として勤務しており、私たち家族も官舎で生活していました。その父も病気のためこの官舎で亡くなり、亀田のお寺に葬られました。
その縁もあって私は亀山に十五才ごろまで居住していました。
 この稿を起こすにあたり当時の関係者を探したのですが、すでに物故されていてくわしいことは判らず、私の記憶だけでまとめましたので間違いがあるかも知れません。ご指摘を給われば加筆訂正させて頂きます。


参考文献   〔航空通信史〕

 
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