東海道の昔の話(126)
   葛飾北斎の石大神    愛知厚顔  2005/1/10 投稿
 


文化十四年(1817)の春、名古屋城下鍛冶屋町にある尾張藩士、牧助右衛門の役宅に一人の初老の男が訪れた。
  『墨遷どのまたご厄介になります。』
助右衛門は知行百五十石の侍ながら画に造詣が深く、尾張公に従って江戸詰のとき喜多川歌麿に入門し画号を持つほどであった。このころは墨遷と名乗っていた。
またご厄介に…とは、先回の文化九年にも訪問滞在があったことを指している。
この客は江戸はもとより日本中に名が知れた江戸の画家、葛飾北斎であった。もちろんこのときは北斎のほかに戴斗の号を名乗っている。
 『戴斗先生いったいどうなされたのです。何か上方に
  転居でもされるんですか?』
先回の訪問も突然だったがこんども唐突である。生涯に九十回以上も転居したという、師の性癖はよく承知していた助右衛門だが、さすがに驚いた。
  『いやいやこんどの旅は引越しではないです。去年あたりからちょっと
   いやな事が続いたので娘の勧めもあり、気晴らしに旅に出たわけよ。   
   こんどの旅の往路はあまり日数をかけず、知立から名古屋を抜け
   中仙道で京都、そして大阪を廻り。帰りに伊勢参りをして今昨日は
   桑名宿で泊まり、きょうようやく宮の渡しからここへ帰ったわけ
   です。それから戴斗の号は新吉原の亀屋喜三郎に譲ったよ。』
  『よくもあのお栄さんがそんな一人旅を許してくれたもんですね。
   たしか馬琴先生の草紙本の挿絵のお仕事で、多忙だと漏れ聞いており
   ましたが…』
  『いやそれがちょっとした行き違いがあり、仲たがいになったのです。』
助右衛門はその理由は聞かなかったが、のちに人伝ての話では北斎が亡き母の年忌のとき、馬琴は北斎の懐の困窮を察して香典をいくばくか紙に包んで与えた。ところが忌事が終わり北斎と馬琴が談笑しているとき、北斎が袂から紙を取り出して鼻をかみ屑篭に投げ捨てた。それを見て馬琴は大いに怒り口論になり、以来二人は久しく不和になったという。しかし北斎はこの事実を
  『私と馬琴との間はそんなことで壊れるものではない。』
と一笑に付している。

  『そうでしたか、まあこんな狭い役宅でよければ好きなだけ
   お泊りください。ちょうどよい。出版屋の永楽屋も
   先生が名古屋に滞在されると知ったら喜ぶでしょう。』
そんな縁から北斎は牧助右衛門宅に逗留することになった。
牧の連絡を聞いてさっそく永楽屋がやってきた。そして
  『先生、画題は何でも結構ですからぜひ描いてください。』
といくばくかの金を置いていった。北斎が金銭に無頓着でいつも生活に困窮していることはよく知られている。それを知っていて永楽屋は仕事をさせようとしたのである。
永楽屋とは名古屋の豪商で永楽屋東四郎のこと。当時は江戸の蔦屋、京都の井筒屋と並ぶ大店であった。
 
北斎はこのときから秋ごろまで作画生活を送る。
ある日、やってきた永楽屋が
  『こんどは先生の画帖と小説の冊子を印刻したいのです。
   ぜひ立板行の下絵を画いてください。』
と依頼した。北斎は心よく応諾し作画にかかった。それから昼も夜も分けずに画に励み
二ヶ月ほどの後には数十帖の画を完成させた。その細密な妙手は言語に及び難しとの声が聞かれた。中でも一つの岩の画が人々の目を捕らえた。その画は普通の画紙を何枚も合わせ、畳巾で十畳ぐらいもある大きな岩の画である。
助右衛門がその画を指して
  『先生、これはどういう岩なのですか?。他の風景や人物とは
   大きく違いますが…。』
と聞くと
  『これは伊勢亀山藩領内にある石大神という岩です。
 これは岩全体が尊い御神体なのです。人々はこの岩を仰いで敬虔な祈りを捧げます。こんどの旅の途中では亀山宿から東海道を少し外れ、この石大神とそして近くの椿神社に参拝しました。この地の人々は両方の御神は猿田彦命とも申されてました。
   わが日ノ本にはいろいろな神様がおられます。石や岩などを御神体としてお祭する例は多いですが、これほど大きな御神体
   は珍しいと思いますね。』
  『この岩が石大神ですか…、名前だけは知ってましたが
   実際に拝んだことはありません。この画を拝ませてください。』
と云って牧助右衛門は岩の画に手を合わせた。

この岩の画のことが人々の噂になると、牧の家に三々五々と見物人がやってきた。
なかには画を見て
  『こんな大きな画なので見る人は驚くが、普通の細画に筆を縮めてつめれば定めしつまらぬ画だろう。これは大した画ではないなあ。』
と戯れ非難して云う。隣の部屋でそれを聞いていた北斎は
  『尊い岩神様のお姿をできるだけ皆様に伝えようと大きく描いたが、
   どうも理解されないようですね。それではこの普通の紙にも描いて
   みましょう。』
と云うなり、筆と紙をとってサラサラと岩画を書き上げたのである。その画技を眼の前で見た人びとは
  『先生、大変失礼なことを申しあげました。』
と侘び、この画に合掌したのであった。また翌日には亀山藩領の川崎村出身という僧がやってきて、自慢気にこの石大神の説明をしている。
  『この石大神は野登山の手前にある鳩ケ峰という山の中腹にあります。
   高さが六百間もある大きな石灰岩の御神体なのです。
   またすぐ下は御幣川の清流が流れている聖域です。むかし第三十一代
   敏達天皇(572-586)がこの石大神に御幸されたとき、禰宜たちがこの川から鮎をとって献上したと言われます。それ以後は毎年この川の鮎は伊勢神宮に献じられるのです。』
  『この御幣川(オンベガワ)のオンベとは伊勢神宮に鮎を奉納する御贄(オニエ)
   神事のとき、まず御幣を川表に立てて神事をとり行ったことから、
   この川をオンベ川と称したのです。この川の対岸からふり仰ぐ石大神さま
   は、まことに立派で有難いお姿をされています。』

このことがあってますます北斎の画の評判が広がっていった。間もなく永楽屋などの商人たちは
 『江戸の大先生にもっと大きな画を描いてもらいましょう。』
と相談し計画を立てたのである。
十月五日、名古屋西本願寺別院境内の集会場前の広場にその席が設けられた。そこはスギ丸太で垣を結びその中に紙を貼り合わせて長さ十間、横六間の大きな紙が置かれている。周りは黒山の見物人がいまや遅しと固唾をのんで見守っている。
  『では…』
やがて北斎と手伝いの弟子たちが人々に一礼し、玉たすき掛けで絵にかかる。
米俵五個分のワラで作った大きな絵筆と中筆、小筆、そのほかの筆を使い画き始めた。
人々には何を描いているのか少しも判らない。やがて誰かが
  『ひよっとすると達磨じゃないか…』
とつぶやいた。その声の方をちらっと眺めた北斎は少し笑ってまた筆をとる。
どうやら片方の紙に頭らしき絵が描かれた。会場の左右には六間ほど隔てたてて二本のスギの柱が立てられていたが、北斎は弟子に命じて描いた紙の端を紐で結び、静かにつりあげさせた。
  『ほお…』
それを見ると人々の中から一斉にどよめきが起こった。そこにはまさに達磨の頭半分が見事に描かれていたのである。それからの北斎は大筆をふるって残りの画をつぎつぎに仕上げていく。そして吊り上げた紙を再び地上に戻し、最後に赤石丹朱などで色付けをしていった。絵が完全に仕上がったのは翌日であった。
北斎がこのとき描いた大達磨は百二十畳もの大きさがあり、画中に
  文化十四丁丑年十月五日
   東都画狂人 北斎戴斗席上
と署名している。この画は数日の間一般に公開された。
このとき葛飾北斎は五十七才、もっとも油の乗り切っている時代であった。

北斎が名古屋滞在中に描いた「大達磨画」は現存しないが、この画を見た高力種信という尾張藩士が模写を残しているので、当時の画の様子を知ることができる。
また「勢州石大神図」も原画も残っていないが、「北斎漫画」の中に小さく縮図された絵が挿入されている。

参考文献   〔九九五集〕 〔野褒野神社御由書〕 〔北斎漫画第二巻〕



現在の石大神は石灰岩の採掘で裏側から大きく削られている。
     2004年11月
小岐須渓谷鮎止滝付近より

 
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