東海道の昔の話(127)
   神木ナギの木    愛知厚顔  2005/1/20 投稿
 


 宝治元年(1247)から弘長年間(1261-63)のころまでの亀山地方は、まだ住む人や家も少なく田や畑の開墾も進んでいない。ましてや亀山の城郭はまだ館程度のものしかない。どちらかと云えば関氏が館を構えた関の與我庄(現、久我町)のほうが行政の中心である。しかし関の地は西方に偏りが大きく大変不便である。
そこでこの近在の荘園二十四郷の頭主がときの関実忠に
  『どうか亀山の城館に移ってください。』
 と懇願した。かねて鎌倉幕府からも指摘され命令されており、自身も感じていたことなので、さっそくそれを実行しこの機会に亀山に入ろうと画策を始めた。
ところがこれを聞きつけたのが同族の板淵某である。彼は烈火のように怒った。
彼の居館は野尻村(現、野尻町)の北端、上豪在にある。
  『実忠が亀山にくるとは…、約束が違うではないか!』
 彼はかって関実忠と勢力を争っていたが、同じアゲハチョウの紋所を使う同族として、
  『我ら同族同士の争いは無益なり、止めようではないか』
 と和睦を提案した経過がある。そのときの密約では
  『関実忠は関の與我を居城とし、板淵は野尻に本居にして亀山を領する』
 である。いくら幕府命令とはいえ一方的に亀山に入ることは許せない。板淵某は
  『なんとしても関実忠の亀山入りを阻止せよ!』
 と兵士たちに激をとばし、いまにも合戦が始まる気配となった。
実忠は荘園の代表と幕府から押し上げられた行動だが、事前に板淵某への説得を怠ったのが響いた。彼は数騎の家臣を伴い野尻村の手前まできて板淵某に
  『ぜひ当方の話を聞いて頂きたい』
と面談を申し入れた。しかし
  『お帰りあれ』
と門と閉ざしたままにべもない。そのうえ館の中は武装した兵士たちで充満している。
  『やむをえぬ』
実忠は山下村東方(山下町)にある東山に仮家を設け、板淵と会談できるまで滞在することにした。そして野尻村の西の端にある館殿宮に日参し、関家の繁栄を祈願するのであった。

三ヶ月ほどして彼の努力と誠意が先方に通じた。
 『同族として関の本家に協力する』
板淵某との和睦の話あいが出来、実忠が亀山の城館に入ったのは文永二年の春(1264)だった。

 関実忠がこの地方の支配者となり亀山城の開祖となった。
彼はさっそく
  『與我からこの地に無事移ることが出来たのは舘殿宮の
   神のお力にあずかることが大きい。これからもこの社を大事に
   せねばならぬ。またこの亀山の地にはまだ大きな神の御社がない。
   ぜひ紀伊の熊野権現と八幡を勧請すべし。』
と家臣に命じたのである。
 
このことがあって舘殿宮は立派に改築され境内の敷地も広げられた。
のちに皇舘大神宮と称されるようになるのである。
そして勧請を命じられた紀伊国の熊野三山の権現は大変な遠方にある。
多くの人々が伊勢参りから足を伸ばして熊野詣をするのはずっと後の時代であり、このころは熊野権現に詣でる一般人ほとんどいない。
 主から命じられた家臣たちは海路と陸路をたどり、紀伊山中にある熊野権現に詣でた。そして勧請文と多額の寄進をして御神体を勧受することができた。
そのとき熊野権現の神職が彼らに
 『せっかく遠方から来られたのだから、この神木も
  お持ちください。』
と云って二本の樹木の苗を渡した。御神体、護符を請けて旅をするにも大変なのに、彼らは
  『大切な神様の苗だ枯らしてはならぬ。』
と宿でも枕元に置いて水をやる始末である。その努力の甲斐があって彼ら
と苗は無事に帰着できた。

そして文永二年(1264)の十一月一日、亀山城の北にある葉若村(亀山市羽若町)の北ノ岡(通称、鶯ノ森のあたり?)に八幡宮、そして南野崎に熊野権現社を建立勧請したのである。
このとき熊野から持ち帰った神木は和名でナギと呼ばれるものだった。

これは漢字で竹粕と書くが、植物大図鑑の説明では以下のとおりである。
ナギはマキ科のマキ属に入り別名チカラシバ。洋名はPodocarpus Nagi。常緑の喬木で幹の高さは約15−20m、直径は50−80cmにもなる。外樹皮は平たく滑らかで紫褐色か灰黒色、大きく浅い鱗片状にはがれ、その痕跡は紅黄色になる。
葉は相対して短く生じ革質で卵形か長楕円の抜針形であり、外見では針葉樹の仲間とは思えない。
 葉は全部緑で長さ3−8cm、巾は1−3cmあり細い平行脈がある。先端は
鉈頭または鋭頭状で全緑、表面は深緑色で光沢があり裏面はやや白色をおびる。
オス、メスの株は異なる。花は5月―6月。オス花は円柱状で数個葉腋に束生し、オス芯に2個の芍室がある。メス花は葉腋に一つ生じ、数個の鱗片と1個の倒生胚珠がある。
 種子は10月に熟し、白緑色で厚く肥えた鱗片(套被)に包まれている。
球形で径10-15cmある。花托は厚肥えしていない。
ナギは暖地植物で本州では歌山県、山口県と四国、九州、沖縄、台湾に分布
している。暖地では庭木として植えられ、また神木として神社の境内にもよく
植えられる。しかし非常に生育する数も少ない貴重な樹木である。
山口県小郡町がナギ自生地北限地帯とされるが、奈良県春日神社境内にもナギ樹林があり、国の特別天然記念物指定。和歌山県新宮市の熊野速玉神社のナギも国の天然記念物として指定保護されている。
三重県では桑名城内の鎮国守国神社や天王八幡社境内、四日市市河原田町、また鈴鹿市石薬師町の佐々木信綱記念館庭などで確認された記録がある。山口県小郡市のナギが北限指定されたのは大正十一年だが、その後各地で発見が相次ぎ、愛知県蒲郡市、静岡県の清水市、森町。また千葉県鴨川市熊野神社境内にもある。
これらナギの喬木は人跡稀なる山中に自生したものは稀で、神社仏閣の境内に人の手で植栽されたものが多く、ほとんど天然記念物に指定されている。

 さて文永二年(1247)に移植された亀山のナギはどうなったか?
熊野権現社、八幡社とも年月を経るに従ってその所在も判然としなくなった。
もちろん神木のナギもどうなったか判らない。しかしこのときのナギから株分けしたと云われる樹木が、明治中期の調査で判明している。
 それは亀山城下の加毛精度、小林恒利、徳森盛という名士の邸宅に一株ずつ存在していたそうである。しかしこれらも大正十五年の再調査では枯れるか移植されており、南崎町の山中四郎治氏の庭に一本あるだけとなっている。
 平成のいま、この最期のナギはどうなっているのか…、もしあれば天然記念物級 は間違いないと思われる。地元の方々の調査に期待したいものである。
 
 この貴重な神木ナギを西洋に紹介したのはドイツの学者ツンベリーである。
彼は幕末に渡来してこのナギを発見した。そしてヤマモモすなわちミリカ
 の近親植物と誤認してミリカ・ナギと命名したが、いまは訂正されている。
文永二年(127)に熊野権現と八幡宮を勧請した関実忠、彼はすべての願いを叶えたことで満足したのか、間もなくこの年の末に亡くなった。
 その後、関氏は四代、七十年余にわたり鎌倉に仕え、本国の亀山は代官を置いて統治がなされたのである。ちなみにこの熊野権現と八幡宮が建立された時代は〔亀山天皇〕の御世なのは不思議な因縁でもある。

 参考文献、 平凡社〔原色植物大図鑑〕、 柴田厚二郎〔鈴鹿郡野史〕

 
戻る