東海道の昔の話(128)
   暴れん坊将軍の生母  愛知厚顔  2005/1/22 投稿
 


厚顔『本日は遠方よりわざわざお集まり頂き、まことに
   有難うございます。これもひとえに暴れん坊、徳川八代
   将軍吉宗公の大フアンを自認する皆様ならばこそです。
   この将軍の生母はいったい誰なのか?、またどこの出身なの
   か…当時から諸説入れ乱れてはっきりしません。
    本日はテーマをこの謎の多い吉宗公の生母だけに絞って
   大に語り合い、謎の解明に近ずけたらと思います。
   では大いに語り合おうじゃありませんか。』
尾張『私は名古屋の尾張と申します。先日は御園座で松平健の
   芝居を見たばかりです。将軍が毎夜江戸城からこっそり
   抜け出し、着流しの浪人に変装して悪人どもをやっつ
   ける…。実際には有りえない話なのに、面白いストーリ−
   展開に見ているに胸がすかーとしてくるのは不思議です。』
中津『そうなんですね。そして芝居の最後はマツケンサンバで
   踊りまくるのです。シビれましたよ。私は吉宗公の生母
   が葬られた「渓谷寺」がある和歌山県御坊市近くから来ました。
   中津と申します。どうぞよろしく。
   私の地元では吉宗の生母は紀州の農民の娘で名前は〔お由良〕
   だと云われてます。父の光貞公が領内見回りのとき見初め、
   城に上げ側室としたいうのです。その証拠につぎつぎに若死に     した二人の兄君たちと違い、吉宗公はがっちりした体格だった
   そうです。そのため側室の子でありながら、第五代の紀州藩主
   の座にを射止めたと云えます。』
玉尾『生母が紀州の農民の娘というのはいささか疑問です。
   暴れん坊将軍というのは十数年も続いた民放のテレビドラマの
   題名ですが、このドラマで私は生母〔お由利〕を演じました。
   農民どころかれっきとした身分の出ですよ。』
厚顔『あれっ、これはこれは中村さんではないですか。
   お忙しいのによくもお出でくださいました。』
蟹沢『玉尾さんのドラマはフイクションですよ。名前も本当らしく
   聞こえますが、私のほうの公共放送で平成七年の大河ドラマは
   郷土史家の考証を得、史実にもとずいた作品です。吉宗公の
   生母は父君の光貞公のお風呂係をしていた〔お紋〕という娘
   に間違いありませんよ。』
厚顔『これはこれは会長さん、ご多忙の中ありがとうございます。
   さていままの話では生母は紀州藩領内のあまり身分の高くない
   人というのが有力ですが、他にはどんな説があります?』
近江『そう早く結論ずけるのはどうかと思いますよ。
   私は滋賀の湖北の者ですが、私の育った地方では別の
   話が伝わっていますよ。吉宗公の生母は〔阿百合の方〕
   と云い、紀州候に仕える重臣の巨勢利清の娘と言われ
   ています。しかし本当は実子ではないのです。彼女は
   近江の名門、浅井家の血を引く侍の娘なのですよ。』
西陣『本当に近江の浅井長政、お市の方の血縁となれば美人の
   誉れが高いはず、男の子には血筋を引かないとか…。
   これも疑問ですね。私は京都西陣の〔もじり機織屋〕
   の娘が巨勢利清の養女に入り、のちに紀州光貞公の側室に
   召しだされたと思ってます。』
大和『そういう話はマユツバですよ。私は奈良県の者ですがね。
   彼女の父の紀州藩士で巨勢利清と云い、はもとは大和の農民
   ですよ。もちろん彼女の実父です。この父は頭脳明晰、体力
   賓力抜群で知られていました。その彼に目を止めたのが紀州藩
   家老の中井大和です。そして彼の推薦で紀伊家に仕えたのです。
   娘は光貞公の側室になったのに違いありません。
   二人の弟は巨勢丹波守、巨勢伊豆守と称され、それぞれ紀伊家
   から五千石を賜っていますね。』
難波『いやはや驚きですね。こんどは立身出世した家柄の出身に
   なりましたね。しかし私が知る限り巨勢丹波云々という
   紀州藩の重役はいませんね。また吉宗公の生母は大阪の卑賤の
   出身だとの噂もあります。なんでも巡礼の子だそうですよ。』
厚顔『だんだん話がややこしくなってきました。ところで
   今日のこの話し合いの場所を提供して下さったのは地元、
   亀山の皆様です。この亀山にも吉宗公の生母にまつわる
   伝承があると聞いています。どなたかご存知ありませんか?』
野尻『ハイ、私はこの地元の者です。
   私が子供のころから聞いている話をご披露しましょう。
   ここの鈴鹿郡野尻村(現、亀山市野尻町)に打田五平という
   大庄屋がありましたが、何らかの故があって紀州候の家臣、
   巨勢六左衛門へ養女に出されました。そして巨勢家から
   お城へ浴室付属のお女中として奉公に上がりました。
   その後、紀伊権大納言光貞公の寵愛を受け、貞享元年(1684)
   の十月に吉宗公が誕生したのです。この生母の御名前は
   阿百合(オユリ)と申され、当時の御年は三十歳でした。』
近江『野尻さん。その話は私も聞いたことがありますよ。
   ご生母は近江の名門浅井家の血筋に違いないです。
   その野尻村の大庄屋打田五平さんの家系はたぶん近江
   ですよ。くわしく聞かせてください。』
野尻『近江の名門浅井家…そういえば打田五平さんの祖父、
   打田五平次正秀さんは近江の六角家に縁があったとか、
   その後この野尻村に定着されたと言われています。』
近江『六角とは近江の名門です。近江の武将佐々木氏や
   浅井氏が将軍からこの格式に任じられ、人々の尊敬を受けて
   いました。』
野尻『この打田家にはもっとくわしい伝承があります。
   それは紀州の徳川光貞公が参勤交代でここを通過したとき、
   打田家に立ち寄り休憩したのです。そのとき娘の阿百合さま
   が、琴を弾いて公を持て成したのです。光貞公はその琴の音
   の見事さと、爪弾く容姿の美しさに大変感激されました。
    そして光貞公は紀州に帰ってからも、阿百合さまのことが
   忘れられず、人を介して和歌山のお城にお召しになったのです。
   また野尻村の打田氏はこの由緒によって紀伊家に出入りを
   許されたのです。それ故にいまでも野尻のご子孫の家には、
   三つ葉葵の紋章が入った茶碗、短刀、提燈、嚢などが伝えら
   れているそうです。』
厚顔『そうでしたか…、これでどうやら私も生母の亀山説に
   納得がいきました。
   しかしこれで話の結論とするのには早いと思います。これからも
   機会を見つけては、暴れん坊将軍にまつわる話を語り合って
   楽しもうではありませんか。
   では最後に醒めたお茶で乾杯し散会しましょう。かんぱーい』
一同『カンパーイ』

 
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