東海道の昔の話(129)
    亀山と応仁ノ乱  愛知厚顔  2005/1/24 投稿
 

【乱の前夜】

 俗にいう応仁ノ乱とは、室町時代の文正二年(1467)一月十八日から、文明十年1478)七月十日までの十一年間の戦乱の時代を指す。
この乱を要約すれば、足利将軍家の相続問題に北畠・斯波氏の相続問題が絡み、山名宗全と細川勝元の有力武将を巻き込んで、全国的な大乱となったことである。
 大乱前夜の複線として足利義視の問題がある。彼は足利義政の妾腹の弟で、早くから天台宗の浄土寺に出家しており、将軍になる気など毛頭なかった。しかし、寛正五年(1464)十一月二十六日、義政から
  『僧侶など止めてしまえ、そなたは将軍の器だ』
など猛烈に口説かれた。その結果
  『兄がそこまで勧めるならば…』
と遂にその気になった。義政は、
  『これから私に男子が生まれても、赤ん坊のうちに僧籍
   に入れて、そなたの妨げにならないようにする。』
とまで、約束したのである。義視も
  『そこまで配慮してくださるならなら…』
という事で義政の猶子となるのを決意した。そして十二月二日に還俗し、僧名である義尋を捨て足利義視と名乗ることになった。

 ところが、その一年後の寛正六年(1465)十一月、妻の日野富子が男子(のちの九代将軍、足利義尚)を産んだため、とたんに雲行きがおかしくなった。我が子を可愛く思わない親はいない。
当然、義政の気持ちはぐらつき始めた。
 それにも増して富子が我が子の義尚可愛さに夢中となり、義視を排斥しようとする。そのため幕府の内部は義尚派と義視派とに分かれ、激烈な対立抗争を剥き出しにするようになっていった。
 そのころ京では有力な武将、細川勝元ともう一方の山名宗全の対立が激化していた。彼らは全国の諸将に激を飛ばし、自分の側に味方するよう働きかけてた。諸国の武将たちも身を守るため、どちらかに味方する必要に迫られた。

 北伊勢地方を地盤とする豪族武将の世保五郎政康は、当時は京都にいたが、細川勝元が彼に
  『伊勢に戻って我が派の地盤を固めよ。』
と言い含めて地元に帰した。当時この伊勢守護職は一色義直だったが、彼は山名宗全派なので世保を対抗勢力に利用したのである。
 世保は兵を伴って自領の河曲郡栗真村(鈴鹿市、津市)に赴く途中、亀山城に立ち寄った。そして城主の関豊前守盛元に
  『この乱世を生きるには細川側に味方するのが得策です。』
と熱心にかき口説いた。緊迫した京都の情勢をつぶさに知った関豊前守盛元は、さっそく我が子の民部大輔盛昭、左近将監盛秀、孫平太郎盛建、そして関の鹿伏兎城主の宮内少将定孝ら、亀山周辺を支配する関一族の主な者を亀山城に呼び集めた。
  『京は一触即発の緊迫した世情らしい。
   この際、我らはどちらの側に味方をすべきか…。』
盛元が口火を切る。それに応じて他の人々は
  『それは細川方に決まってます。伊勢守護職の
   一色義直の傲慢な行状には腹が据えかねています。
   彼が山名の味方なら我ら関一族は世保に味方しましょう。』
かくして関一族は結束して細川勝元の派閥に属したのである。

 こんな矢先の文正元年(1466)、一方の有力な武将である細川勝元と彼の息のかかった武将たちが、伊勢貞親という男の懲罰を将軍義政に求めた。これを知った伊勢貞親は驚いて近江に逃げ出した。
これに続いて相国寺の季瓊真蘂もの後を追って、姿を眩ますという事件が起きた。季瓊は禅僧ながら一部に黒衣の宰相と呼ばれていた。
やはり室町幕政の実力者である。
 この事件の背景はいまもはっきりしないが、諸説を統合すると真相はつぎのとおりらしい。
 伊勢貞親は日野富子とは、日ごろから気脈に通じたじっ魂の間柄である。その縁から富子の生んだ義尚の養い親になっていた。従って明らかな足利義尚派でもある。季瓊禅僧の方もまた義尚派に組していた。そこで両人は足利義視の排斥を種々に画策し、義政に
  『義視が謀反を企んでいることは明白です。』
と讒言した。義政も我が子義尚を将軍にしたくてたまらなかったから
  『この機会に思い切って後の災難を除いておこう。』
  「いっそのこと義視を殺してしまおう」
という話となった。
 ところが、この密謀が義視に洩れたからたまらない。驚いた義視は山名宗全に
  『これでは命が危ない。ぜひ助けてほしい。』
と、助力を頼んだ。ついでもう一方の細川勝元にも助けを求めた。
 宗全らは日頃から伊勢貞親らとあまり仲が良くなかった。
足利義視から助力の要請をを聞き、そのあまりの陰険さに
  『なんと腹黒い奴らだ。そっちがそうなら
   こっちから討伐の兵を起こそう。』
ということになった。伊勢貞親、季瓊禅僧はその勢いに恐れをなし、そこで近江、そして伊勢の方面に姿をくらました。
 その伊勢貞親が亀山城に姿を現したのである。彼は伊勢長氏という若者を伴っていた。長氏は後の小田原城主、北条早雲である。
細川勝元に味方しようとした矢先なのに、その
  「勝元から嫌われた伊勢貞親をどう扱ったらよいのか…」
亀山城内は一波乱を覚悟した。しかし
  「窮鳥、懐に入るのことわざもある。」
と決し、城内に居遇させたのである。

 
【乱の発生】

 足利義政は将軍という位人臣を極め、その私生活は酒、女、音曲、連日の宴会と豪奢贅沢の限りを尽くした。長年の政治の腐敗と混乱、飢饉凶作で人々が、飢えや疫病で苦しんでいるのにである。
 これは取り巻きの権臣らが互いに勢力を争い、政治が意のままにならない。四十歳にもならぬうちにいや気がさし、隠退の志を抱いてしまったのも原因である。だが実子がいないので、弟である出家中の義尋を還俗させ次期将軍の座を約束したり、義視をその気にさせたのが乱を呼んだといってもよい。すでに管領職を辞職していた武将、細川勝元も執事後援者となり義視を補佐した。
 
 ところが義政と日野富子は我が子義尚をどうしても将軍職に就かせたい。そこで義尚の補佐役を山名宗全に依頼し、義弟の義視の補佐役である細川勝元の勢力と対抗させようと画策した。
 それに管領の斯波、畠山両氏の家督相続争いも、この両勢力の対立に絡みいっそう複雑化する。
 そのころ斯波家では、養の子斯波義敏、斯波義廉、畠山家でも養子、畠山政長と実子、畠山義就との間に家督相続をめぐって争いが続けられていた。
 そこで細川勝元、畠山政長、斯波義敏との間に軍事同盟が結ばれた。これが細川勝元派である。これに対し山名宗全、畠山義就、斯波義廉との間でも同盟関係が形成された。こちらが山名宗全派である。
 
 そのため諸国の守護大名や豪族達も、自分の地位を安全に保つために、そのどちらかと結託して行動を起こすことになる。
 かくて文正二年(1467)一月十八日、山名宗全と畠山義就らが、管領の畠山政長を罷免させ、自派の斯波義廉を新管領とするや、両派の関係は一段と悪化し、細川勝元と山名宗全は互いに一味同心の諸将を動員し、京都を舞台に東西に別れて睨みあった。
 勝元方は十六万一千余人、宗全方は十一万六千余人である。
両軍がいよいよ戦闘の火蓋を切って合戦に入ったのは、応仁元年と改元された五月二十六日の朝であった。

 六月、京の合戦の報が亀山に伝えられると、関豊前守盛元はすぐ
  『それッ出陣だ!』
と関一党の兵を率いて上京した。そして細川勝元を助けて関盛元と関盛昭は、かって伊勢貞親が居住していた三条殿を守り、盛秀、盛建と鹿伏兎城主の定孝は備前の勝田家や伊勢長野家(津市)と相国寺の東門の守りについた。
 十月三日になると、山名宗全の大軍五万がこの相国寺を取り囲んだ。
守る側の総大将は細川勝元の家臣で安富元綱である。彼は勇猛果敢な武人だった。群がる敵軍をものともせず寡勢の味方を
  『ものども怯むな!』
と激励し猛烈に奮戦する。その勢いに押されて一時は敵も退却したが、だんだんと味方も討たれ数が減っていく。このとき相国寺の寺僧が密かに敵方に通じ、寄せ手の山名軍を西陣の方面から寺に導いたのであった。いま京都に西陣の地名が残るが、このとき山名軍が陣を張ったのが地名で定着したのである。
 こうなるとさすがの細川方も敗色が濃厚になる。
  『無念なり!』
さすがの豪傑の安富元綱兄弟や関盛秀、関盛建たちをはじめ、亀山からはるばる参戦した士卒の多くが戦死した。
 このとき寄せ手の山名軍は土岐成頼、大内政弘たちだったが、討ち取った首級を車八両に満載して西陣に送ったという。

 三条殿を守った関盛元と盛昭たちも、細川軍の大敗で亀山から参した兵士の多数が戦死したことを知り、
  『もはやこれまで。』
再戦にはとうてい耐えられないと判断、関盛元は
  『ひとまず帰ろう』
と決断、亀山城に向け重い身体を引きずって帰国していった。
 この日の合戦で細川軍の戦死三千八百名、山名軍は四千九百余であり、これから幾年も繰り広げられた応仁ノ乱で、もっとも激しい戦闘であった。

 この応仁ノ大乱、どちらが正義か何が何かはっきりしないまま乱れた麻布のように各地で合戦が繰り広げられた。あるとき山名側に組し戦ったと思えば、つぎの合戦では細川方で戦ったり…。
守護職などの名誉を餌につられ、部下が上司を殺すなどの下克上は当たり前という時代であった。
 このあとも伊勢に入った足利義視、世保五郎政康、そして国司の北畠家、細川方の多賀高忠などが入り乱れて互いに争い。さらに関氏の衰退に乗じて亀山領に侵入したりしている。
 この乱は実に十一年の長期にわたり、花の都を焦土と化せしめたばかりか、日本全国を動乱の淵に投げ込んてしまった。
 長い長い戦乱の後、ようやく山名宗全と細川勝元の病死によって京都の戦闘が、ひとまず終わりに近づいた。だが両軍の将士達は、その領国に帰ってからも、なお戦い続ける運命にあった。
 しかし文明十年(1478)七月十日、足利義政と義弟の義視とが和解したため、戦乱はどうやら治まった。

 足利義政は幕府の将軍でありながら、政治的にも軍事的にも無能であり、この戦乱に対してほとんど傍観的な態度で過ごした。
 彼は酒と女、そして連日の連歌や茶の湯などに身をまかせていた。
この芸術趣味に生きた隠者将軍に代わり、戦乱の影の実力者となりある意味で合戦の主動をとったのが日野富子である。
 彼女は京都の七つ口に関所を設け通行税をとり、高利貸しや米の買占め相場に手を出し、豪商から賄賂を受け取った。この利益を戦費として細川方や山名方の双方に貸し付けた。このため非情な顔を持つ悪女あるい烈女だとさえ云われるが、細々ながら室町幕府を支えたのは、彼女の財政能力だったことは否めない。

画像は「京都の応仁の戦乱」


参考文献   「九九五集」「三重県史料六巻」「伊勢軍談」   

 
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