東海道の昔の話(130)
   北条早雲との対話1 愛知厚顔  2005/1/25 投稿
 


【出生の謎】

厚顔『本日は時空を越えて、わざわざ冥府からお越しくださり、
   まことに有難うございます。戦国時代の一方の名武将
   として、貴方の評判は格別のものがあります。
   しかしまだ知られない謎の多い人柄でもあります。
   こちら伊勢の人々は貴方の生涯についても、あまり
   くわしくご存知ありません。せっかくお越しくださった
   ので、本日は遠慮なく質問させて頂きますから、
   どうぞよろしく。』
早雲『早雲です。どうぞよろしく。
   はじめにお断りしますが、得度する前の私の名は
   伊勢新九郎です。在世のころからこの名で通しており、
   北条姓を名乗ったのは二代目からですね。』
厚顔『そうですか…。でも後年の歴史では北条姓で流布され
   ています。この対談では北条早雲さんと呼ばせて
   ください。』
早雲『それはかまいません。』
厚顔『貴方が小田原城主の大森藤頼を追放し、その後釜に
   座ったのはたしか明応四年(1495年)ですね。』
早雲『そうですね。後年の歴史家は私を祖とする北條を、
   鎌倉幕府の執権北條氏と間違えやすいので、
   後北條と呼んでいるようです。』
厚顔『後北條氏は五代にわたり、およそ百年間も小田原
   にあって関東の政治、経済の中心として興隆しましたが、
   その北条五代百年にわたる繋栄の基礎を築いたのは、
   いうまでもなく貴方です。けれども一代でのしあが
   ったということもあり、その前半生については謎の
   部分が多い。まず出生についても諸説あり、いまに
   いたるまでいろいろな説が出されています。』
早雲『そうですね。私も自分から出自について、在世中に
   人に語ったり記録に残したりしてません。しかし
後世の歴史家はいろいろ研究した結果を述べてい
   るようです。』
厚顔『なかで広く流布されているのは、伊勢の素浪人説
   です。貴方を主人公にした小説や映画、ドラマなど
   では、殆どが何処の馬の骨かも知れない、根っから
   の素浪人に描かれています。そのためこの説が定着
   したと思いますね。』
早雲『私は若いとき伊勢国に流れていたことがあり、そこから
   伊勢素浪人説が生まれたのでしょう。そのときは伊勢長氏
   と自称していました。』
厚顔『関氏一族の棟梁、豊前守盛元の亀山城に匿われていた
   ころですね。』
早雲『そうです。私は二十三才でした。このことは後でくわし
   く述べますが、私の出自については他に平清盛の曽祖父、
   平正衡の兄、季衡の末裔だとか。あるいは伊勢亀山城の
   関氏の関盛時の子で関宗瑞と云うのが私だとか…、
   いろいろ云われました。』
厚顔『私が知る限り、ほかにも鎌倉の北条時行の側室から出た
   北条時長の末裔だとかとも云われますね。』
早雲『ところがまた、室町幕府の政所執事を務めた名門京都
   伊勢氏の一族だという人もいます。そして戦後になって
   浮上してきたのが「備中伊勢氏説」です。
厚顔『貴方が備中国から京都にやってきた、という話はすでに
   江戸時代の小瀬甫庵の著した「大閣記」や、今川氏の
   家譜である「別本今川記」などにもあり、まったく
   の新説ではないんですね。けれど学問的に厳密な論証を
   経て発表されたのは、この大戦後になってからですね。』
早雲『この説を最初に発表されたのは、岡山大学の藤井駿先生
   です。先生は「北條早雲と備中荏原荘」という論文で、
   現:岡山県井原市の荏原荘の高越山城主の伊勢盛定の子に
   伊勢新九郎盛時という名前の武将がいたのを知り、
   「この人物こそ北條早雲」すなわち私だと確信された
   ようでした。』
厚顔『なるほど…、いま多くの歴史学者のは備中伊勢氏説を
   支持しており、もっと確実な新説が出ない限り、藤井先生
   の説で決まりそうですね。』
早雲『私としては出自を謎のまま、ロマンをロマンのままとし
   ておいてください。』
厚顔『よくわかりました。話題を変えましょう。貴方は成長する
   と京都の伊勢氏の一族、伊勢貞高の養子になり京に姿を現し
   ました。これからだんだんと歴史上にお名前が登場して
   きますね。一般には貴方を北條早雲と呼んでますが、貴方
   自身は伊勢新九郎で通し、出家して早雲庵宗瑞と号してお
   られる。』
早雲『そのとおりですね。』
画像は神奈川県の「早雲寺所蔵の北条早雲像」
           
          (続く)

 
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