東海道の昔の話(138)
  夭折の天才画家 吉澤儀造 愛知厚顔  2005/3/9 投稿
 


『こんどの子は男かヨシッ…』
関宿の中町で味噌醤油醸造の店、岩木屋の吉澤利平は喜んだ。
それは妻のチエとの間に毎年のように子供が生まれていたのに、長男のつぎはずっと女ばかり三人も続いて授かっていたからである。
 『この店を継がせるには絶対に男でないと…』
長男の喜市は生まれつき少し身体が弱く病気がちである。
 『これで安心して店を継がせるわい。』
しかし父親の利平の目論見は後年外れることになる。このとき岩木屋に生まれた男の子は画家の道に進んでしまう。夭折した天才画家、吉澤儀造が彼である。
ときは明治二年二月二十一日、世は幕末動乱の真っ只中であった。

 関宿の往還は東海道と伊勢別街道、そして伊賀大和街道が分かれる交通の要所である。この三街道から集まる旅の客や馬挽き駕籠など、いつもごったがえして大変な賑わいを見せていた。儀造が生まれたころは本陣、脇本陣がそれぞれ二軒に旅籠が四十軒以上あり、ほかにも九十軒を越える飲食屋、それに旅籠女郎の店がひしめいていた。
 関宿は細長い街道である。東から木崎、中町、新所と関の三町とも呼ばれ、岩木屋のあった中町は主だった旅籠が集まる一等地だった。
 『今年はわが家も関の町も吉事である。』
利平のいう吉事とは、二十年ごとに行われる伊勢神宮の式年遷宮のたびに、建て替えられる宇治橋南詰の内宮の古い鳥居、それを関宿の東の入り口にある東ノ追分へ、移築されてきたことを指している。 

 こうして岩木屋の期待を背負って生まれた次男の儀造だが、成長するにつれ子供どうしの遊び仲間から外れるようになる。彼はヒマをみては蔵の二階にあがり古い浮世絵や文人画に見入って時を過ごしてしまう。
 『儀造はどこにおる、また蔵の中か』
商人にしたいと思う父はいらいらするばかり、しかしこの父も少しは息子を自慢している。
 「やはり俺の血を引いてるわい」
このころ関宿では知識人や商家の主人などの間で和歌が盛んであった。
 父の利平も家業のかたわら顕忠という号を持ち、石薬師の歌人佐々木弘綱の和歌の指導を受けるほどだった。また吉澤家の蔵には古い浮世絵や文人画が残されていた。
この関という町全体が京都大阪に近いこともあり、庶民の間にも文化や芸術に親しむ風土があった。 
 
 こうして儀造は十二歳になった。相変わらず近所の子供たちとは違い、蔵の中で画を眺めたり自分でも画を描いたりの日々である。父の利平はそれとなく口に出してはいたが、本人が好きであれば別にかまわないではないか…、幕末の環境で培った人には珍しく理解があった。
 『どんなものを画いたのか見せてみな。』
父の言葉に儀造は一枚の絵をみせた。
 『ほう…、こりゃ太乙ではないか、お前の画いたのが見たいのだ。』
家に伝わる村瀬太乙の絵を見せられたと思ったのだ。しかし
 『父上よく見て、太乙の絵は手本にしたけど、私が画いた絵です。』 
よく見るとやはり太乙ではない。まだ未熟だが克明な情景と均質的に描き出そうとした努力の跡がわかる。父はうなった。
 「うまいもんだ。この子は絵の道に行かせるしかないか…」
こうして儀造は絵画への道へ進むことを決心したのである。 

 その後、儀造は親戚の吉澤彦平家に養子に出されたのち、明治十七年(1884)に津市の県立第一中学校に入学した。この学校には図画の授業に林茂久次という有能な教師が教えていた。のちには藤島武二や鹿子木孟郎、赤松麟作ら日本画壇で活躍する人も教鞭をとっている。
 林茂久次は梅溪と号し、生徒たちに洋画の初歩から木炭素描まで指導した。
この林から吉澤儀造は大きな影響を受ける。 
 『吉澤君、いちどご両親を描いてごらん』
師の言葉に発奮した儀造は懸命に実父の利平と母チエを描いた。完成した絵はまず木炭で背景を黒くぼかし、その中に人物が浮かぶような描き方をしている。
だが黒一色の中に全体の階調が隅々まで行き届き、画面に十分な立体感と人物の実在感が表現されている。この絵を見た師の林は
 『いい線までいっている。このまま努力を怠らずに描きなさい。』
林はこのとき一目で
 「彼は将来優れた画家になるだろう」
と見抜いていたのだ。それは儀造から描いた実父はすでに故人であることを
聞いており、描かれた人物は本人を眼前のモデルにしなければ表現できない
もの。それほど完成度の高いものだった。

 やがて吉澤儀造は第一中学校を卒業、いったんは法律学校に入学したが、
明治二十六年(1893)年二月に絵画の学校、不同舎へ入学する。
だがこのときまでに養父と実父を失なうという悲運に見舞われた。
 また関に帰省するたびに往年の賑わいを失っていく関宿。それはこの町に
鉄道が開通したことでいっそう加速する。もはやかっての宿場の賑わいは戻らない。実家の岩木屋も顧客が減り活気を失っていた。 
 そんな失意の儀造の心を慰めたのは絵画への研鑚と、同じ道を進む友人たちとの交流であった。
 不同舎の校舎は駒込団子坂にあった。クラスメイトに石川寅治、河合新蔵
鹿子木孟郎らの後に名を成す人々がいた。また教師には小山正太郎らが指導にあたっている。
 不同舎ではモデルを囲み、または模写などをやったり、わいわいと皆で騒ぎながら楽しく画の研鑚が行われていた。

 ある日、一休みのお茶を飲みながら小杉国太郎(放庵)が儀造に尋ねた。
 『吉澤君、君はたしか伊勢の関の出だったね。君のところには
  狩野法眼元信が描くのをあきらめた山があるそうだね。』
それを聞いて青木繁は
 『それはどういうこと?』 
と不思議な顔をする。だが隣にいた河合新蔵はこの謂れを知っていた。
 『それは筆捨山のことだろう。』
また坂本繁二郎も
 『私も知ってるが、この話は吉澤君から聞きたいね。』
そこで儀造はあらためて筆捨山の故事を皆に披瀝した。この山は奇岩怪石が
累々とし緑の松の枝が山を覆う。そのうえ鈴鹿の山の特有な気象の変化によ
り次々刻々と山容が変化する。それを画に表現しようとした元信だったが、
あまりの美しさに負け描くことが出来ず、絵筆を投げたというもの。
 『いや、狩野法眼はあそこには行ってないはず。』
中川八郎は断言したが、吉澤儀造は
 『この話は昔から関に伝わる話で、私もいつかは狩野法眼
  が諦めた筆捨山も描いてみたいと思っている。』
彼が真顔で云うので皆も黙ってしまった。

 小杉放庵は栃木県日光出身。のちに漫画、挿絵などで活躍し名を成した。
代表作に東大安田講堂の壁画や〔奥の細道画冊〕などがある。吉野儀造とは
もっとも理解しあえる親友でもある。長命で昭和三十九年(1964)まで存命
であった。
 不同舎では青木繁は年令がもっとも若かった。彼は不同舎に一年ほどしか
在籍していない。まもなく新設された東京美術学校西洋画科に移っている。
いま彼の画は
 「明治浪漫主義の旗手だ。」
と高い評価が与えられているが、明治の日本は近代化を急激に推し進めた弊害が生じ、文化の混乱を招いていた。各国の文化が混沌と渦巻く中、若い創造力を開花させた最初の画家が青木繁とされる。しかし彼の絵が理解されるにはまだ時代が成熟していない。彼は失意のうち二十八才で世を去っている。
 河合新蔵(1867-1936)は大阪出身。不同舎で洋画を学び鹿子木孟郎らと渡米
し、そこで奨学金を得てフランスへ渡る。アカデミー・コラロッシでラファエル・コランに師事。帰国後大正二年(1913)には日本水彩画会の創立会員として活躍。
文展など多くの作品を出品。昭和十一年(1936)永眠。
 坂本繁二郎は九州の旧久留米藩士の二男。小学校の同級に青木繁がいた。
上京して不同舎に入り洋画を学ぶ。のち太平洋画会研究所で研鑚。文展、
二科展で活躍。フランス留学を経て帰国後は九州の八女市に居を定め作画。
昭和四十四年(1969)満八十七才で没した。
  
 不同舎で洋画に対する熱い想いをぶっつけ合った仲間たち。
彼らもいつしかそれぞれの道を見つけて分かれていった。
 明治三十一年(1898)、上野公園の第五号館で明治美術会創立十年記念展
が開催された。吉澤儀造は〔肖像〕三点と油彩画〔山村高秋〕〔春磯〕
〔渡頭返照〕などを出品する。
 いまこれらの作品の所在は不明だが、伝えられるところでは〔山村高秋〕
は画面を上下に三分割し、中段に画面の端から端まで横断した丘が描かれ、
さらに平行して水平方向に家や樹木が配置されている。とくに末に伸びる
広い道の両側に家や木を描く、斬新な構成を目論む意識があったのでは
と評されている。 

 明治三十二年の冬、小杉放庵から
 『私の実家に遊びにこないか。』
と誘われた。この寒い時期にどうかなと少し迷いがあったが
 『日光の雪景色は素晴らしいぞ。』
との放庵の言葉につい心が動いた。
 『それじゃお世話になる。』
こうしてこの冬は日光に滞在し、作画の日々を送ることになった。
このときの成果が〔初雪之時在日光山儀造写〕の作品である。
 ほかにも日光近郊の杉並木を描いた鉛筆や墨によるスケッチも多く
描いて残した。 

 その後もたびたび小杉家の縁で日光を訪問し、水彩画や鉛筆や墨による
スケッチを描いた。それらは全部で数十点ほどになる。
 いま吉澤儀造の残された作品の中で、松阪近郊の瑞巌寺の境内を描いた
のがある。のこりは全て制作された場所も年代も不明である。
だが描き方や色使い技術の程度などを考え、さらに彼の夭折を思うと、
ほぼ同じ時代に描かれたと思われる。
 画の識者は彼の作品をこう評価している。
 「不同舎を中心とする画家たちは、特徴的な構図を基本としているが、
  点景人物として描いたモチィーフも、背負子を背負った男性や、
  米俵を積んだ馬を牽く馬子、子供をおぶった子守の少女などが多い。
  たとえば、満開の桜の下、背負子を背負った二人の男性が山道を歩い
  ている情景を描いた吉澤儀造の作品は、小山正太郎の鉛筆画とよく
  似ている。
  また柿の木のある萱葺きの農家の前の道を、馬に米俵を積んだ馬子
  が行くところを描いた水彩画、杉並木の鉛筆画なども、鹿子木孟郎
  や吉田博らに見られる、不同舎に共通した典型的な構図である。」
と…。さらに 

 「だがそのような構図上の共通点とは逆に、吉澤儀造の水彩作品
  だけに特徴的なのが、少なくとも同時代的には類を見ない。
  きわめて独創的で鮮烈な色彩、そしてすべてのモチィーフを克明
  に、かつ均質的にしかも全体の細部に至るまで整えられている。
  それから感じられるのは階調の中に描き出そうとする作画意欲で
  ある。」
 これはのちに小杉放菴も
 『先輩、吉沢儀造さんの思い出は、颯爽とした風采、美しい髯、
  そして機鋒鋭い人でした。絵も大変上手でした。
  いつか油絵を以て造物者を追っかけて見ると言い出したんです。
  月ヶ瀬の梅林を五十号程に写生する、山も川も取り入れた広い
  眺めで、梅の花は一輪一輪を数え、茶屋の掛け手拭一寸程、
  細い模様まで、池の中の緋鯉錦鯉は蟻ほど小さいが、頭も尾鰭
  もはっきりと描写した。それでいて全体の色調濃淡相当に行き
  わたるという努力、恐れ驚くべき物でした。
  惜しむらくは病院で夭折されたが、あの絵など何かの学問の
  参考になりそうなものです。今はどこにどうなっている
  やら気がかりです。』 
と語っている。

 絵画の識者の評
 「吉澤儀造の水彩画は、透明感を生かした彩色がされており、
  これが描き進む過程で全体のバランスをとるため、さまざまな
  色を塗り重ねる工夫がされている。その結果、あの色鮮やかで
  描写密度の濃い水彩画が完成したのだと理解される。
  それは彼に高度な作画の技術があり、その当時には他にあまり
  類を見ない、新しい水彩画の表現形態を会得していた。
  この頃が吉澤儀造の画家として最も充実していた時期だった
  のであろう」
 また吉澤儀造の鉛筆によるスケッチを見て
 「鉛筆で四角い枠をとり、輪郭線で形を捉えるところまでは
  他によく見られる写生図と同様であるが、そこに鉛筆の
  ハッチングで陰影をつけるのではなく、輪郭線の上に、さら
  に描線を重ねることで輪郭線の濃淡を強調し、画面全体に
  メリハリを付け、部分的な暈かしを用いて陰影を表現して
  いる。線をただ事物の輪郭をとるためだけに用いるのではな
  く、何本も重ねられて濃くなった描線を白い紙の地色と対比
  させ、むしろ線自体の表現により自律的な意味を持たせよう
  とする斬新なものである。」

 明治三十六年五月、東京上野で太平洋画会第二回展が開催された。
吉澤儀造はそれに油彩画「月が瀬」と水彩「庭園」「景色」「景色」など
を出品した。月ヶ瀬は伊賀と大和の境に近い梅の名所であり、古くから
多くの詩人や墨客が訪れて作品にしている。
 関宿からは西へ四十キロばかりなので、関西線が開通したのちは
簡単に日帰りが可能であった。たぶん関に帰ったとき月ヶ瀬を訪れて
描いていたのではないか…。 
 吉澤儀造が写生に訪れた土地ではっきりしているのは、日光と松阪、
月ヶ瀬、奈良、吉野、そして不同舎時代の写生旅行での多摩川近辺で
ある。 

〔月が瀬〕を出品した太平洋画会第二回展が終わって間もなく、
明治三十六年(1903)七月二十三日、吉澤儀造は永眠した。
享年三十四歳の若すぎる生涯であった。
 それから百年近い歳月が過ぎた。いま地元の亀山市の関の町で彼の
ことを知っている人は少ない。この夭折した天才画家の作品の多くは
ほとんど地元から離れてしまった。これら作品はいま栃木県日光市の
小杉放庵記念日光美術館が所蔵している。こちらの地元には公立美術館
もなく作品を持つ人もいない。彼の画を鑑賞しようとすればはるばる
遠方に出かけなくてはならない。亀山が絵画美術不毛の土地とは思わ
ないが、せめて【吉澤儀造】の画を少しでも収集する努力と、また
彼の業績を顕彰する姿勢がほしい。 


参考資料  田中正史〔画家、吉澤儀造について〕早稲田大学講演
      〔近代日本美術史〕

 
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