東海道の昔の話(139)
   長島一向一揆      愛知厚顔  2005/3/23 投稿
 


 永禄十二年(1569)、鹿伏兎豊前守宗心が近江の浅井長政の軍に加わり、
六月二十八日の姉川の合戦で討ち死しました。やがてこの悲しい知らせが関の鹿伏兎城にも伝えられます。かねてから覚悟をしていたとは云え、やはり
城全体が暗い空気に包まれるのは避けられません。
今なお残る鹿伏兎城の石垣(関 加太駅の北) 関 加太駅の北の小山の上にあった
 『戦国のならいだ。武人はいつでも死ねる覚悟がいる。
  そなたたちの父も浅井殿に義を尽くし、自分の進む道をまっとう
  したのだ。』
叔父の左京之進定義と祖父の坂定住は悲しみを堪え、宗心の二人の遺児を激励しました。このとき四郎は元服したばかりの十五歳、六郎はまだ十四歳です。
彼らは
 『憎い信長を討って父の無念を晴らしたい。一刻も早く合戦に
  でたい。』
と願いましたが、まだ幼い身です。
 『お前たちの思いは私たちも同じだ。しかしいま我らは織田の
  側で味方している立場だし。それにまだ若い。もう少し大きく
  なってからでも遅くはない。自重してほしい。』
叔父たちは説得しました。しかし父譲りの激しい性格の二人は
 『どうか私たちを勘当してください。それで鹿伏兎城にご迷惑
  はかかりません。あとは私たち二人の責任で行動します。』
 『いま織田は近江と比叡山、それに長島の一向宗と戦になろう
  としている。織田から亀山の関一族にも出動命令がくる
  だろう。我らにとって微妙な時でもある。いまは動いて
  はならぬ。』
それでも二人は日夜、叔父たちに訴えました。とうとう叔父たちは根負けし
ます。
 『止むを得ない。今日を限りに勘当する。これからは
鹿伏兎城とも関一族とも無縁である。二人の勝手にするがよい。』
こうして四郎と六郎は城を出たのでした。彼らに従うのはわずか五十騎余ほどです。彼らはまっすぐ木曾三川の長島を目指しました。

 いまの伊勢長島をみて昔の長島を想像することはできません。
それぐらい地形の変貌が激しいからです。この地は木曽川、長良川、揖斐川
の三川が集まって伊勢湾にそそぐ。それぞれの川の上流から運ばれた土砂は
長い年月をかけて堆積し、いくつも複雑に入り組んだ流れと州や島を造成し
ました。長島という地名はここが島だったことを証明しています。
 尾張藩が本格的にここを埋め立て、農地の造成がすすむようになるのは、
江戸幕府の基盤が安定してからのことですから、それ以前の戦国時代には
まだ本格的な輪中はありません。しかしこのデルタの肥沃な大地は豊かな
穀倉地帯であり、また海上交通や漁業の要所でもありました。
 多くの人々がそれを承知で低湿や水害などの悪条件を克服して居住しま
した。そのなかの州島の一つに願証寺という念仏寺がありました。いまも
願証寺は存在しますが、これは明治に再建されたもの、木曽三川の流域の
変化は大きく変わってしまい、昔の願証寺はいまは川の中に沈んでしまっ
ています。「一向一揆時代の長島」

織田信長も
 『長島は過酷な土地だが、軍事上も交通上も重要な土地だ。』
と認識していました。この言葉どうり、この地の土豪は低湿地の過酷な条件の中で城塞を築き、自分たちを守っていました。勢州軍記には
 『長島近辺の島々には海賊も出没する。』
との記事もあります。木曽三川が水路として海運を担なうとともに、海賊の
跋扈や豪族の利権争いなどが繰り返されています。この当時の長島の願証寺
は浄土真宗系の一向宗の拠点であるとともに、多くの門徒や流れてきた武士
や土豪たちの戦砦でもあったのです。

 この願証寺がいつ出来たのか…、ある学者は
 『蓮如上人が伊勢、尾張に伝教したとき、自分の子の連淳を
  すでに存在していた願証寺の住職にした。』
と云うし、また別の学者は
 『この連淳こそが開祖だ。』
ともいいます。
 戦国時代は大阪本願寺系統の重要な末寺に、この願証寺、三河本宗寺、
播磨の顕証寺などがありました。このうち長島願証寺は南美濃、尾張、伊勢をまとめる立場だったようです。
 
 こんな時代にあの長島一向一揆がどうして起こったのか…。
これも諸説入り乱れていますが、北伊勢四十八家の武将たちの中に一揆に加担する者はいましたし、桑名周辺の武将たちは織田信長の永禄九年から数年にわたる伊勢侵攻で苦しめられたので、中には鹿伏兎四郎、六郎らのように
 『信長憎し』
と一向一揆に加わる人がいたのは当然です。
また尾張西部の多くの人々も信長の迫害を逃れて参加したのでしょう。
 長島一向一揆の指導者、服部左京亮もその一人です。
信長公記にも
 「尾張の半分は平定に成功したが、服部左京亮の統率する長島は
  まだ反抗している」
とあります。
服部左京亮は桶狭間の戦いの時に今川義元に味方し、一千隻の舟を出し
たという武将です。そんな大量の舟が本当に出せたのか疑問ですが、
かなりな勢力を持っていたのは事実でしょう。長島一向一揆側では中心勢力
でした。

 木曽三川の周辺は多数の一向宗門徒がいました。三河一向一揆の敗残の宗徒も長島に参加していますし、尾張の立田にも拠点の西勝寺が門徒をまとめていました。
彼らも長島で一揆と聞き尾張、美濃、伊勢の門徒勢力衆と一緒に長島の応援
に駆けつけます。
 永禄十年(1567)に織田信長は美濃の斉藤氏を攻めると、稲葉城主の
斉藤龍興は長島へ逃げ込みます。そして信長はこの年に長島を攻撃しました。
斉藤氏が長島一向一揆に加わると一向宗側も勢いずきます。
斉藤龍興はその後、長島から出て間もなく亡くなりますが、斉藤氏の家臣の
日根野弘就、あるいは遺臣たちはその後も一揆衆に加わり織田信長に抵抗します。
 近江の浅井氏もたえず長島と連絡をとり、連携をとりながら戦の様子を見ています。また佐々木六角義賢も一向宗と連携をとっています。長島一向一揆は長島の願証寺砦を中心とする一揆だけではなく、尾張、美濃のなど周辺の宗教諸勢力、地侍とも連携してました。彼らは織田信長を包囲するように武田、浅井、六角とも連携しました。

 織田信長と長島一向宗徒との戦いは元亀元年(1570)に始まります。
この年に石山寺の顕如が
 「仏の敵、織田信長と戦え!」
との檄文を各地の本願寺、末寺や信徒に対し伝えたことからです。
 「もし命に従わない輩は、長く門徒たるべからず」
 「織田信長は仏敵だ!。戦わないものは堕地獄だ!」 
きつい口調で門徒衆に対し、信長を相手に戦うようけしかけたのです。
 関の鹿伏兎城の鹿伏兎四郎と六郎の遺児、彼らが僅かな手勢で長島の
応援にやってきたのは、ちょうどこの頃でした。

 この蓮如の檄文により蜂起した一向宗の門徒衆。
激しい戦が各地で起こりました。中でも尾張堀江城で織田信長の弟、
信興が門徒側に攻められ切腹しています。一向一揆の武装衆により肉親
を殺された織田信長。彼の腹は煮え繰り返りました。
 『遠慮はいらぬ。あやつらを徹底して滅ぼせ!』
彼の戦乱を終わらせようとする念願を達成するには、古い秩序や固定観念
を根底から打ち壊す必要がありました。ことに宗教勢力をどう納得させて
従わせるのか…、宗教勢力の扱いに困惑するのは昔もいまも変わりません。
施政者の命よりも宗教指導者の言葉に従う人々、これに織田信長は業を煮やして過酷な姿勢をとったのでしょう。
  
 元亀二年(1571)に第一次長島攻撃が開始されます。
尾張の津島と三方から五万の兵で攻撃をかけましたが、五月十二日には
織田信長自身も戦に参加しました。むかえ討つ宗徒側は七万といわれます。
信長は戦いのはじめのうちは
 『降伏する敵は丁重に扱え。』
と命令を出しました。これは門徒虐殺の意図が無かったことを意味します。
また五月十三日に徳川家康への手紙でも
 「詫び言を云ってきたら許すつもりである。」
と述べています。
ところが六月十六日、織田信長は一向一揆衆を赦免して岐阜へ帰ろうと
したとき、それを一向一揆衆は木曽川の西側で待ちうけ攻撃しました。
関の鹿伏兎城から参戦していた鹿伏兎四郎と六郎の兄弟、そして彼に従
う僅かな兵たち。彼らは
 『憎い仇の信長を討ち父の恨みをこの一戦で晴らしたい、』
そんな願いで戦っていましたが、乱戦混戦の中では少数の兵の働きでは
情勢が大きく変化することは無理です。けれど戦略上の作戦で織田軍が
尾張に退却していくのを見ると
 『敵は逃げ腰だぞ、それ追え!』
勝どきを上げて追尾していきます。その真っ先に鹿伏兎四郎、六郎と五十
人の配下の兵もいました。しかし損害を出しながらも織田軍は反撃の手は
ゆるみません。

 『いまこそ彼らの息の根を止めろ!』
壮絶な戦で織田方の柴田勝家が負傷し、美濃三人衆と恐れられた猛将の
氏家ト全が戦死しました。またのちの戦のときも股肱の林新次郎が討ち死
にしています。全体の戦では織田側の負けであり、一向宗側が勝利したこと
になります。しかしこの戦で鹿伏兎四郎と六郎も
 『無念なり!』
織田信長にまみえることなく、川べりで無念の死をとげたのです。
関から参加した五十余の者たちも殆ど死にました。彼らの死の様子を伝える
ものは何もありません。
 織田信長も降伏した一向宗徒を赦免し、岐阜に引き上げる途中だったのに、突然の不意打ちで思いもよらぬ敗戦となったのに腹を立てました。
 『せっかく情をかけてやったのに…。』
彼はいっそう憎悪をたぎらせました。

 天正二年(1574)四月に武田信玄が亡くなり、脅威がひとつ減ります。
七月、織田信長は思い切って第三次長島攻撃を開始します。
この時は七万の大軍をもって三方から攻撃しました。七月十三日には信長自身も津島に陣取り、前ノ島、太路渡島、市江島、鯏浦などの門徒砦を焼き払い、本格的に長島を攻撃しました。これに対し一向一揆衆は篠橋、大鳥居、屋長島、中江、長島などの城に分かれて徹底抗戦をします。
このとき信長は鳥羽の九鬼水軍の軍船で伊勢湾を海上封鎖するなどし、兵糧攻めを行ないます。ふつう兵糧攻めを
 「干し殺し、あるいは干殺し」
といわれますが、
この時の様子が信長記にあり、
 「勢州の大船数百艘を乗り入れ、海上より攻め立て大鳥居砦、篠橋砦、
  などを大鉄砲を以って塀、櫓を打ち崩して攻めた。その結果、
  両方の城から御赦免と御詫言を申し入れてきたが、とても許すと
  仰せられず、彼らを懲為干殺になされ、年内の緩怠、狼藉御鬱憤を
  散ぜられるべく…。」

 ここで信長は積もりに積もった鬱憤を散らす為、
 『彼らを絶対に許すな!。』
と云っています。同じく信長が友軍の武将に宛てた手紙でも
 「男女はことごとくなで切りにせよ!と申し付けた。」
とあります。
 第三次長島攻めは約三ヶ月に渡りました。この間兵糧攻めも行われました
が、八月には大鳥居砦から逃げ出した一向一揆衆の男女一千人余が、すべて殺されました。八月三日には大鳥居砦が陥落、十二日には篠橋砦も落城します。
 これらの城に籠城していた一揆衆は長島に追い込まれました。
そして九月二十九日に最後の決戦が行われました。
すでに一揆衆の大半が飢え死しかけていたのですが、生き残った者は降伏します。

 しかし降伏した一揆の人々を織田信長は
 『懲らしめのためだ。一人も許すな!』
といって弓や鉄砲で狙い撃ちし、ことごとく切り殺して川の中へ放り出すという徹底的殺戮、大量虐殺をしたのです。総数は二万人だったという説もあります。
一揆を撲滅をした翌日の書状で信長は
 「信長一人のために非ず、天下のためにやむを得ず行った。」
と記し、自己の行為を言い訳し正当化しています。
そして一揆の首謀者の院家ならびに下間親子・平尾坊主父子三人たちが船に
隠れていたのを探し出し、信長の目前において首を刎ねたのです。

 こうして長島の一向一揆は門徒の全滅という悲惨な結末で終焉しました。
織田信長は三河や比叡山や石山寺、伊勢伊賀など各地で宗教勢力を壊滅させ、寺院などを破壊していきました。のちに彼が本能寺の変に倒れたとき、宗教勢力の側は
 『佛罰が当たったのだ。』
といったそうです。


参考文献  「長島町史」 「信長公記」  「鈴鹿郡野史」


 
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