東海道の昔の話(141)
     秀吉の亀山攻め    愛知厚顔  2005/4/27 投稿
 


亀山城を盟主とする関一族の系統には独特の遺伝があった。
それは副乳頭である。勢陽雑記には
「関の家、代々家督は乳房四つあり云々…、乳房は高等動物
 すなわち哺乳類の特徴で人類は普通二個を有する…」
関家ではこの乳房が複数ある遺伝体質を稀に見る吉兆とし、これを大事にして永久に絶やさないようにしていた。そのため関家の家督は必ずしも長男が継承することなく、副乳頭を持つ者が継いですでに百年以上も経っていた。ところが関盛信の後継者第一候補にあたる二男の関一政には副乳頭がなかった。
重臣の岩間八左衛門は一政について
 『この人に家督を継ぐ資格はありません。副乳頭を持つ三男盛清様こそ
  関家を継ぐ人です。』
と意義を唱えていた。しかし盛信は長子にあたる二男可愛さに家憲を破り、岩間八左衛門の意見を退け
 『関一政を次ぎの関家の当主とする』
と城主に内定したのである。このことが不平不満をくすぶらせる遠因となる。

  天正十年(1582)、本能寺の変で織田信長が死ぬ。そして明智光秀も秀吉に討たれる。
こうなると羽柴秀吉の発言力が強まってきて、織田家の先輩武将たちは面白くない。
織田家中では秀吉を中心とし表面は織田信雄を主とする一群と、織田信孝を表面上の盟主と立てた、柴田勝家を首領とする一群が暗闘をはじめた。表むきは平和を装っているが、それぞれ密かに戦闘準備に着手していた。伊勢国は滝川一益が国司として治めていた。彼は柴田党の有力な武将である。
このとき亀山城主、関盛信と一政はすでに羽柴秀吉方に組していた。しかし副乳頭を持つ三男の盛清はかって柴田勝家に仕えたこともあり、父と兄に不平を抱いていた。そして不満をくすぶらせた岩間八左衛門とともに柴田の一群に心を傾けていた。
この争いは亀山城中では家督争いであったが、中央では羽柴秀吉と柴田勝家の争いに結びついていた。
 
関一族内での柴田勝家党の中心は岩間八左衛門、彼は副乳頭を持つ関盛清を立てて関一政を排斥しようと画策をはじめた。彼は一族の七郎左衛門をはじめ豊田越後、荻野某、草川某ら四十三人を結集し、柴田勝家派の滝川一益に密かに接触を試みた。
 主人の関盛信は秀吉派だから織田信孝からみると反逆者になる。岩間八左衛門たちは主の盛信に叛いても織田信孝からみれば忠義の士となる。亀山城内はこんなネジれた人間関係を形成していた。

 天正十一年一月(1583)、亀山城主、関盛信と一政は老臣の葉若藤左衛門を従え、近江安土城に居住する羽柴秀吉のもとに年賀の伺候に出発した。
 彼らが出発したのを待ち岩間八左衛門は、国府城(鈴鹿市国府町)の国府佐渡守盛邑とその子の次郎四郎盛種を誘惑し、
  『福印なき関一政に関家は任せられない。
   秀吉の傲慢傲慢の鼻を叩きつぶす機会だぞ!』
と滝川一益の手勢をたくみに峯城(亀山市川崎町)内に導き入れた。城主は岡本宗憲だったが不意を突かれて脱出し、南伊勢に逃れるのがやっとだった。
 こうして亀山城は滝川一益の家臣、佐治新助が入る。関の旧城は滝川法忠が略取し鹿伏兎城は鹿伏兎右馬介定基、林保春たちが伊賀方面の敵に備えた。

二月に入ると、羽柴秀吉は電光石火の行動を起こした。
総勢七万とも十万ともいわれる大軍を三隊に分け、一隊は時多良越え(五僧峠)、一隊を治田峠越え、秀吉は中央直轄軍の三万を自ら率いて厳冬の安楽越えに殺到した。
彼に従う武将には細川忠興、山内一豊らが…、そして三百石に取り立てられたばかりの加藤清正が加わっている。このとき石水渓の鬼ケ牙直下の険阻な峡谷を地元出身の猟師が協力して通過したことが知られている。(馬落しの項参照)
二月十日、羽柴軍は亀山城、峯城、関城の近くまで進出してきた。
 迎え撃つ滝川一益側はすでに兵力を亀山、峯、関に分散しており、とうてい攻撃に出ることは不可能である。秀吉軍は容易に城下の五里近くまで進出し、火を放って退くことができた。秀吉は
  『滝川一益は合戦にはもはや老いたる者である。
   彼らは少ない兵を分散して後悔している。この兵力で
   攻撃をするなら夜襲しかない。今夜は敵の襲撃に備えよ』
と命令をくだした。夜になるとはたして滝川軍は夜襲を仕掛けてきたが、秀吉側の強力な備えを知って後退をしていった。

二月十六日、秀吉の大軍は関城、峯城、亀山城の三城を包囲した。
そして葉若村(亀山市羽若町)の西部に戦砦を築いた。いまや鈴鹿郡内の各村々では羽柴秀吉傘下の兵士で溢れかえっている。この当時、郡内の米生産額は三万八千石ほど。
羽柴軍が一ヶ月に消費する糧米は一万三千石といわれるが、農民たちが隠匿した米もたちまち彼らに徴発されて底を尽いてしまった。
このとき関盛信に背いた岩間八左衛門は滝川法忠とともに関城にいた。
彼は
 『おそらく秀吉軍は鈴鹿峠を越えて侵攻してくるだろう。』
と予測し、この方面の防備を強化していたが、あにはからん秀吉軍が安楽越えの険を越えて侵攻した。これがつまずきの始まりであった。関城と亀山城との間は秀吉軍によって遮断され、これ以後の作戦がことごとく失敗する原因となる。
秀吉軍は原尾村までくると兵を二分し、一隊を白木村に進めてここにあった滝川の砦を攻め落とた。さらにその勢いで小川村の砦も落とし西の方から亀山に入った。
また一隊は住山村に入って亀山城にむかう。こうして亀山城はまったく秀吉側の包囲で蟻の這い出る隙間もない有様となった。
三月三日、亀山城を守る佐治新助の部下に近江新六という武将がいた。
彼は味方の危急存亡の時期を知って窮余の一策を案出した。彼は
 『鉄砲と槍に自信のある者は我れに続け!出撃するぞ!』
鉄砲と槍からなる部隊を編成して自ら率い西方に撃って出た。そして羽柴軍の追撃をかわしながら突撃をはじめた。羽柴軍はその勢いに押されて彼らの通過を許してしまった。おかげで新六は犠牲も少なくて関城を守る滝川法忠と合流ができた。

このとき近江新六は城の西の新福寺山を下り、寄せ手の細川忠興の隊中に突撃したのだが、忠興の重臣、沢村大学守宇右衛門が戦死した。細川軍はこれで浮き足立ち一時は総崩れになりそうだったが、米田是政という若者が
 『敵は僅かだぞ!いまこそ踏みとどまって戦え!』
逃げようとする兵を叱咤し、勢いを挽回させたという。のちに羽柴秀吉は厚く是政を褒めたという。このとき米田是政は二十五歳であった。このとき近江新六と共に城を出た兵の一部は、激しい邀撃にあい野村の蛇天神のそばで全滅されてしまった。
止むをえず近江新六は山の上へ退却し後続部隊を指揮して戦ったが、羽柴側の猛烈な銃撃で防御の鹿砦および竹柵も破られてしまう。このとき羽柴軍の中にいた加藤清正が槍をもって近江新六を刺し、木村十三郎が首を刎ねたという。

かくして新福寺山はことごとく羽柴軍の手に帰した。
また亀山城の東南隅の櫓は山内一豊のために打ち破られ、敵軍は各所から城内になだれ込んだ。こうして滝川側は亀山城を開き滝川一益のいる長島に退却していった。
また国府城も降伏した。
激しい合戦に勝利した羽柴秀吉は亀山城を織田信雄にまかせ、ほかの兵はまだ降伏しない関と峯城の攻撃に振り向けた。

当時の峯城は亀山城とほぼ同じ規模の備えがあった。
亀山城が落城の悲報が伝わっていたが、
 『我らはあくまで戦うぞ!』
と戦意はますます高い。峯の城は南は安楽川が流れ東および北は御幣川が流れる。
まことに天然の要害を成しており、この地形を利用して必死の防戦を繰り広げた。
当時、川崎村の南に沿った安楽川はいまのような直流ではない。また平尾村の西方にある仙ケ坂から東はところどころに蘆草が密生した沼沢地があり、いまの弥牟居神社が鎮座している丘陵は南に突出し、河川は迂曲蛇行して東の方に流れていた。

峯城の攻撃に参加した羽柴軍の陣容は近江日野城主の蒲生氏郷、甲賀衆の長谷川秀一、佐和山城主の堀秀政、ほかに峰屋頼隆、筒井順慶、森長可、池田信輝、織田上野介信包、津川義冬らの諸将である。
 羽柴軍は峯城の戦意が旺盛なのを知ると、攻撃を強行すると味方に多くの損害が出ると判断し、もっぱら持久戦を採用してあえて城に迫らない。両軍が対峙する日々であった。
やがて織田上野介信包の旗幟が川の南岸に翻る。それを見るや峯の城兵が数騎走り出て北岸に竿を立てた。
 『何ごとなるや?』
寄せ手は射撃を中止してじっと見ていると、城兵は大きな白布に狂歌を黒々と書いて竿の先に結びつけた。
     上野のやけ砥は槍にあいもせず
               醍醐の寺の剃刀をとげ
これは織田信包がかって醍醐に居住していたことがあり、それを知って攻撃を手控えたことを揶揄したものであった。信包は三宅新左衛門の従卒で中尾新太夫という狂歌の名人に命じて歌を返した。
     春雨に岸峰までも崩れ落ち
              連れて流れる滝川の水
これは当日はげしい雨が降り、安楽川が増水していたことを詠みこんだものである。

一方の関城もまだ落城しない。
いら立った秀吉は関と峯の両方の城に兵力を集中し激しい攻撃を命じた。
しかしいっこうに関、峯の両城は陥落しない。三月五日、福井北ノ庄にあった柴田勝家の先見隊が雪解けとともに行動を開始、近江の北まで進出してきたという知らせが秀吉に伝えられた。
 『それはまことか!』
秀吉は多いに驚き、三月十五日になると織田信雄ほか蒲生氏郷、関盛信、関一政、木村重慈、前野友忠、一柳直末、山岡景隆、青地四郎左衛門らに、伊勢路の滝川軍の残兵攻略を命じて自身は兵を率いて近江にはせ上った。
秀吉はその日のうちに近江佐和山に到着、翌日から長浜、柳ケ瀬、岐阜、江北と転戦する。
 そして三月二十一日、柴田勝家軍との決戦に勝利する。勝家は北ノ庄を目指して敗走していった。いっぽう伊勢路の残兵攻略を続行した秀吉軍、勢いずいて関城に総攻撃をかけた。長い戦いに疲れ兵糧や矢弾も尽き果てた城兵たち。とうとう降伏を申し出たのである。
 また織田信雄の兵と蒲生氏郷、長谷川秀一らも峯城の攻撃を繰り返していたが、峯城を守る滝川側は鉄砲の扱いに慣れているうえ、城の内外各所に竹柵を設けて鉄砲隊を配置し、その守備ははなはだ堅固であった。これをみて寄せ手は無闇に攻撃をして損害を蒙るのを恐れ、いたずらに時間の浪費を続けていた。
しかしとうとう糧食が尽きてしまう。腹が減っては戦はできない。四月十七日、城将の滝川詮益は
 『もはやこれまでだ。城を抜け出して再起をはかろう。』
と手兵三千余人を率いて滝川一益の待つ長島へ去っていった。
しかしときの勢いは止められず、六月中旬にはこの長島城も海と陸から四方を包囲されそれに耐え切れずに総大将の滝川一益は降伏してしまった。

峯城陥落の報はすぐ鹿伏兎城に伝えられた。
城主の鹿伏兎定義は亀山城の相続騒乱が起こる前から亀山城の謀反人、岩間八左衛門らに組していた。そして秀吉の亀山侵攻に際しては長男の右馬介定基を伊賀口に張り付けて防備していた。けれど亀山城陥落後は再三にわたり蒲生氏郷から
 『もはや戦をしても益なし、降伏したらどうか』
の説得があったがこれを聞き入れず、とうとう峯城の陥落を知るに至った。
ここまで形勢が不利になってくると、さすがの頑固な城主も覚悟を決めた。
 『この城を敵に明け渡す。』
そして暗夜ひそかに脱出していったのである。鹿伏兎一族はこうして離散の運命をたどった。このあと定義は京都に隠れて余命をこの地で終えたという。秀吉は定義の領地を安濃津城主、織田上野介信包領地に合併させ、城の残兵また織田の士卒として附した。こうして正平年間から二百年余年も連綿として続いた鹿伏兎家、この名家もこのときをもって遂に滅亡してしまった。
しかしときの勢いは止められず、柴田勝家とお市の方も城と運命を共にする。
伊勢長島城も海と陸との包囲に耐え切れず、六月中旬には総大将の滝川一益が降伏してしまった。
羽柴秀吉の伊勢侵攻ではこの亀山、峯、関の三城攻防戦がもっとも激戦であったという。 

参考文献    柴田厚二郎「鈴鹿郡野史」「九九五集」「鈴鹿郡郷土誌」
        「細川忠興軍功記」

 
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