東海道の昔の話(145)
     ケンペルの旅日記 愛知厚顔  2005/6/12 投稿
 


鎖国の江戸時代に西洋人で、不自由ながらわが国を旅行できたのは、長崎出島に居留していたオランダ商館の人たちである。彼らの残したもっとも古い旅日記はエンゲルベルト・ケンペルのもの。元禄四年(1691)に長崎から江戸幕府への参府のもの。この旅では同僚のヘンリッヒ・フォン・ビューテンヘムと一緒だった。二回目の参府旅行は翌元禄五年(1692)でコルネリウス・アウトホルンに随行した。この二度の日本国内旅行で、感じたこと、見聞したことを彼は克明に記録に残した。
彼らは同じ行程で長崎−江戸の間を往復し、東海道の鈴鹿峠−亀山−庄野−石薬師宿の亀山藩領を四回も通過した。一人の外国人が見た元禄時代の日本の様子、彼の日記からそれをつぶさに知ることができる。長崎出島

参府とは幕府将軍に恭順の意を示す世俗的制度、源頼朝の時代から断続しながら行われたという。旅行には代表の商館長と数名の書記、医者と一群の日本人の護衛がつく。この護衛の真の目的は道中で禁止されているキリスト教の十字架、聖画像、聖書などを、こっそり住民に手渡さないか。外国の品物を日本人に売ったりしないか、または誰かが逃亡して住民の中でキリシタン伝道をしないか…。など一行の行動を監視する役目である。ケンペルらは出発に先立ち、違法行為をしない、旅行中の見聞をすべて報告する旨、血判の誓約書を長崎奉行に提出した。
旅行には江戸の将軍、閣僚および江戸、大阪、京都の幕府高官に贈る膨大な贈答品。そして付き添いの奉行並、槍持ち、与力、町役人、大通詞と稽古通詞、護衛、荷物運搬人と馬匹。これだけで参勤交代の中級大名クラスの規模になってしまった。

そして元禄四年(1691)二月十三日、ケンペルたちは長崎を出発した。
彼らの行程は長崎−佐賀−小倉と陸路、そこから船で下関に渡り、あとは瀬戸内海を港伝いに大阪へ。大阪に上陸すると大阪城の奉行に挨拶し、陸路で天皇のおわす京都に入る。ケンペルの見た京都の印象は
「京は天皇が住むことから都と呼ばれている。町は山城国
 の平野にあり、南北の長さが四分の三ドイツマイル。東西
 の幅は約半マイルである。町は藪と湧き水の多い山に囲ま
 れ、町の東の地区には山地が迫り、そこには沢山の美しい
 神社仏閣が建っている。市内には三つの川が流れる。
 最も大きいのは大津の湖水に源を発し、ほかの二つは北の
 山岳に源を発している。町の中ほどで合流すると、そこが
 三条大橋という二百歩ほどはある長い橋が架かっている。
 町の北側には天皇の住む内裏があり、家族や廷臣と住んで
 いる。西側は石で方形に築かれた二条城がある。
 この城は内乱のとき身の安全をはかるため、将軍が京都に
 きたときにここに滞在するのが常である」
さらに商店や手工業の店が連なる中心地の賑わいの様子、神社仏閣の
建築物の数と信者の数など、実に詳細な記述がされている。

こうしてケンペルの一行は京都を出て近江に入ったのが元禄四年(1691)三月三日である。
「われわれは、今日非常に多くの男女に出会った。
 大抵は歩いていたが、馬に乗っている人も少しはあった。
 時には一頭の馬に二、三人も乗っているのを見かけた。
 これらの人はみな伊勢参りに出掛けたり、そこから帰って
 くる人々である。彼らはしつこく我われに旅費をせがんだ。
 彼らの被っている日除け笠には、自分の生国や名前、巡礼
 地が書いてあった。それは彼らが途中で万一災難に出会っ
 たときに知らせるためである。帰途にある者は、日笠の
 端に免罪の御札を付け、もう一方の端にも紙を巻いた小さ
 な藁束をつけている。…土山宿に泊まる」
元禄四年にすでに伊勢参りは庶民の間に広がっており、彼らの旅の様子がわかる。しかしケンペルに旅費をせがんだというのは、喜捨をすることで功徳を授かるという教えからの行為、だがあまりにもくどいのでうんざり、彼の誤解ももっともである。
菅笠に書かれた名前そして結ばれた御札など、つい最近までの伊勢参りの様子とかわらない。

「三月四日、日曜日。
 我われは旅館から駕籠に乗って険しい鈴鹿の山地を越えた。
 曲がりくねった骨の折れる二里の道を坂下の村まで担がれ
 ていった。この山岳地帯の所々には泥炭地の不毛の土地だ
 が、そんなところにも幾つかの貧しい小さい村がある。
 彼らは行き来する旅人相手に生活をする。」
鈴鹿の険を越える様子。八町二十七曲がりといわれる鈴鹿峠道、これは箱根越えと並ぶ東海道の険である。そして山間の貧しい村村は、陽当たりも少なく農耕地も少ない。街道の旅人相手の荷物運びや土産売り、あるいは宿食堂の手伝い、あるいは小銭をせびるなどして生計を立てている。

「廻り階段を下りるように、我われは急勾配の山峡を通り
 山地を下っていった。その途中から道が分かれ、幅の広い
 石段が近くにある高い山に続いていた。この山は旅人
 にとっていわば一種のバロメーターのような役割を果た
 す。彼らはその山頂に登っていく霧や、峰を覆った雲を
 見て天気を予測し、それによって旅行を決めるからである」

この記述は三子山のこと。旅人や伊勢の海の漁師が、この山にかかる雲や霧を見て天候判断したというが、ケンペルも土地の人から聞いてちゃんと書いている。三子山の頂に至る石段はいまも残っている。この山には古代人の磐座遺跡がある。

「山中の街道わきに寺院があり、その近くに黄金の仏像を祀
 る堂がある。二人の僧が仏前で読経していた…。山麓にあ
 るもう一つの社の前まで十五分かかったが、そこには金張
 りの獅子が置いてあり、その近くに二、三人の神官がいて、
 旅行者に何か神聖な物を授け、これに接吻させ、それで
 報酬を得ている。」
黄金の仏像の寺がはっきりしない。ケンペルの記憶違いだろうか。しかしつぎの金張りの獅子の神社は片山神社に違いない。この当時は神主が二、三人もいて賑わっている。いまは無住で火災にもあった。

「坂下村の手前に硬い岩石に刻んだ堂がある。岩屋清滝観音
 というが、そこではお祈りしている僧侶もいなかった。
 また他の人々もいなかった。坂下村は約百戸で旅館が
 沢山あり、大変豊かで伊勢国の最初の村で快適な土地
 を占めている。」
岩屋清滝観音は砂岩質の巨大な岩に三体の仏像が刻まれ、清冽な滝がいまも流れている。いつも心が洗われる自然の溢れる環境だ。宿場には百戸の家が並び、街道一と言われる大きな旅籠の本陣、大竹屋、小竹屋などがあって、非常に殷賑を極めている。
「ここに開け放しになっているお堂があり、いろんな病気
 や災難を防ぐのに用いる薄い板切れが用意されている」
このお堂もはっきりしないが、法安寺だろうと推測する学者もいる。
「沓掛という小さな村に着いた。ここでは焼栗と煮た
 トコロの根を売っていた。」
トコロはこの沓掛あたりの名物。のちに筆捨山を正面に見える鈴鹿川の対岸に藤ノ木茶屋が出来た。この茶屋のトコロ料理が名物になり、司馬江漢や太田蜀山人らも賞味している。ケンペルはまた帰途の日記に
「沓掛村では、盛んにイチジクを売っている。」
とも書いてる。トコロのほかイチジクも名産だったのか…、いまもイチジクは沓掛周辺で沢山見かけられる。

「関の地蔵に着いた。約四百戸の村。
 ほとんど至るところで皮を剥いたアシから作った松明、
 草鞋、菅笠その他が作られ、子供たちはそれを持って
 街道で売る。買ってくれとしきりにせがむので旅行者は
 迷惑である」
アシとは竹のこと。松明も火縄のことで関宿の名物の竹細工物である。
子供や女たちが旅人にうるさくつきまとって押し売りしている。
これは江戸中期−末期の旅日記にも同じ記述がある、あまりにも押し売りがひどかったらしい。
「われわれは関で昼食をとったが、まだ四里進んだだけ
 なので、六里先の四日市に日のあるうちに着くため、間
 もなくここを出発した。この関の地蔵から聖地の伊勢へ
 道が南に通じていて、ここから十三里離れている。
 一里はこの地方では一時間の行程である。なお京都か
 ら三十里ある。」
彼らは早朝に近江土山を出発、関で昼食をとりつぎの宿泊を四日市
で宿泊とした。当時としては旅人の標準的な行程、関から伊勢神宮までの距離も合っている。
 
「我われは亀山に着いた。町は平坦な丘陵の上にあり、
 私が見渡した限りでは、石垣と門と番所のある整然と
 した町である。その南側には荒く築き上げた城壁と櫓
 のある、かなり堅固な城がそびえ立っていた。
 狭い通りはこの土地の地形のために曲がりくねってい
 るので、我われが第二の番所を通って郊外の外れに行
 き着くまで、ほとんど一時間を費やしてしまった。」
彼は帰途と翌年の旅でも
「亀山は大きな豊かな町、二つの平な丘の上にあり、
 真ん中に小さな谷が通っていた。門が一つと土塁と石垣
 があったが、曲がった肘のようになった道には、郊外の
 町々の家を除き約二千戸の家があり、街道のそばには堀
 や土塁や石垣をめぐらした城がある。」
と書いている。亀山の町の入り口に当たる市ケ坂に京口門があり、番所があった。歌川広重の「東海道五十三次、亀山雪晴」にも描かれている。ケンペルもこの門を潜って町に入ったのだろう。そして池の端から見える荒い石垣の上に多門櫓。そして美しい天守閣をもつ胡蝶城と云われた亀山城が彼方に見える。この当時の城主は板倉重冬である。曲がりくねった亀山の町の通り、それはいまも基本的な町並みは同じであろう。
第二の番所とは渋倉町の江戸口門のことかも知れない。
 いまの亀山の通りとあまり変わりのない風景である。

「一里ほど進み、庄野という大きな村の少し手前の森ノ茶屋
 という小さな村で、我われは俄か雨に襲われ、一里あまり
 を家の軒にくっついて雨を避けて進んだ。ここからまた
 伊勢へ行く道が分かれているが、これは主として東国や
 北国の人々が利用する」
記述にある庄野の手前の森ノ茶屋は鈴鹿市国府町にあった。ここで雨にあい街道沿いの家々の軒先伝いに進んでいった。
「その後、我われが立ち寄った多くの村々のうち、庄野、
 石薬師、杖衝、追分、日永がおもな村で、どれも二百戸
 をくだらず、四日市の手前、半里のところにある最後の
 日永村は、戸数も二百以上あり、川の向こうにも同じ村
 の家があった。」
関宿を出発してから四日市までの街道筋の町や村、その多くが二百戸
程度の小集落だという。

「我われが今日通った旅路の大部分は、山の多い不毛の
 土地で、耕作に適した土地はわずかであったが、杖衝坂
 から四日市までの二、三里の土地は九州肥前のような
 平坦で肥沃な稲田であった」
いまは山地や丘陵地も開発され、畠や住宅地に変貌しているが、ケンペルの当時は、濃い緑に覆われた山地が多く、開拓が進んでいなかったのだろう。南国の長崎や肥前の沃野をみているので、この地は痩せて貧しい土地と思ったようだ。
杖衝坂は昔、日本武尊が伊吹山の荒ぶる神にやられ、やっと杖を衝いてこの坂を登った。また芭蕉はこの坂を下りるとき落馬した急坂。
坂の上に「坂上」という苗字の家が多く、坂を下ると「坂下」性の家が多い。不思議な坂である。坂を下りきると平野が広がる。いまは市街地になっているが、つい最近までは広い田圃だった。

「宿舎の前で、我われは内裏(京都御所)から急いで帰る
 将軍の使者が通り過ぎるのに出会った。彼は京都から
 江戸までを一週間以内に行けるよう、一日の旅程を早
 くする命令を下していた。彼は立派な人物であった。
 供揃いは二挺の乗り物、何人かの槍持ち、鞍を置いた
 一頭の愛馬、馬上の七人の家来と徒歩の従僕から成って
 いた。」
ケンペルが遭遇したのは吉良上野介義央の行列である。彼は高家筆頭の役職で公家、天皇家と接触し交渉する立場、このときも何らかの用で京都から帰る途中だった。彼が播州赤穂浪士に討たれるのはこの十年後である。

「四日市は千戸以上もある。大きな町である。
 南の海の入り江に臨み、たくさんのよい旅館があって、
 他国からの旅行者は、望み通りのもてなしを受けるこ
 とができる。それは住民たちが特に旅館業を漁業とで
 暮しを立てているからである。」
「 我われが今日道中で出会った巡礼者のうち、絹の着物
 を着飾り美しく化粧した女性がいるのを見た。珍しくま
 た不思議な気がした。彼女は盲目の老人を連れていて、
 その男のために物乞いをしていた。何人かのうら若い
 比丘尼も旅行者に物乞いし、幾つかの歌を唄って聞かせ、
 彼らを楽しませようと努めていた。また望まれれば、
 その旅人の慰みの相手もする。」
ケンペルが旅の途中で出あった美しい比丘尼、よほど印象に残ったらしく、女性の素性などを細かく聞きだして記した。
「彼女は山伏の娘である。上品で小奇麗な身形をして歩き、
 仏門の生活に身を捧げていることを示す剃った頭を、黒
 い絹の布で覆い、軽い旅行笠をかぶって太陽の暑さを避
 けている。彼女からは貧乏とか厚顔とか、軽薄さを思わ
 せるものを、何一つ認めることはできなかった。むしろ
 礼儀正しく、のびのびした女性で、容姿そのものからも、
 この地方で出合った中で、もっとも美しい女性であった。」
ケンペルの心をこれほどまで捉えたとは…。よほどすごい美人だった
のだろう。
彼らの一行は翌朝、四日市を出発、桑名七里の渡しから海路で名古屋熱田の宮の渡しに向かった。東海道を下って江戸には三月十日着、
江戸城で将軍に拝謁したのは三月十九日であった。

 このとき将軍から直接下問されたのは
「オランダはバタビヤからどれほど離れているか」
「長崎からバタビヤまではどれくらいあるか」
「内科と外科の病気のうちで何が一番重く、危険だと
 思っているか?」
「中国の医者が数百年来行ってきたように、その
 方らもまた長寿の薬を探し求めているのではいか」
「人間は高齢になるまでどうしたら健康を保てるか」
など、大変好奇心あふれる質問をしている。そして最新の西洋医学に
いても質問し、その医薬品を手に入れてほしいとも注文している。
彼らはオランダの踊りや歌も披露したり、絵を描かされたり、衣服を
脱いで説明したり。食事をしながら十一時から午後三時まで謁見が
続いた。若い将軍と幕府老中たちは、日本に一般庶民と同じくよほど知識欲に飢えていたようだと、ケンペルは書き残している。

彼らは元禄四(1691)年四月五日江戸を出発、長崎への帰途についた。

  
参考文献   東洋文庫「ケンペル江戸参府旅行日記」 

 
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