東海道の昔の話(148)
        鉄砲改め    愛知厚顔  2005/11/14 投稿
 


 宝永七年六月十一日(1710)、
 亀山藩主、板倉新十郎重治は志摩鳥羽藩主だった松平乗邑と交替した。新しい亀山藩主は亀山付近に五万石、飯南郡に四千石、近江国蒲生郡に六千石の六万石を統治にあたることになった。彼は入封するやさっそく
 「御城受け取り済み候につき、町中へ下記の趣意書を渡す」
と城主の交代が無事に済んだこと、当面はその施策を
 「先規、先格、先御代之格」「前前に不相伝」「いままでの通り」
など、前藩主の板倉氏の施策を踏襲するが、間もなく矢継ぎ早に前の領地、鳥羽で行ってきた政策に転換してくる。やがて
 「鳥羽に而之通」「この後は不差し上」
など、だんだんと松平家独自の政策が徹底されてくる。

 なかでも藩内の鉄砲の取扱いにはもっとも神経を使うことである。
六月はじめ、藩は真っ先に
  『各村人が所持する鉄砲の実態調査を行って報告せよ』
と命じた。
 その結果、六月二十八日に総百姓代、大庄屋の連名による報告書が提出された。それによると
  「鉄砲は用心用鉄砲、寄進された鉄砲、商売用鉄砲、そして
   質物鉄砲があります。このほかに在江戸のほか、諸国浪人
   が持つ稽古用ものなど六種類を、領内村々、寺社など
   吟味調査しましたが、鉄砲はありませんでした。もし鉄砲を
   隠匿し後日に発見したとき、私どもは如何ようにも処罰を
   受ける所存でございます。
      宝永七年寅六月二十八日 
             村々庄屋、肝煎  署名 印
             総百姓代 署名 印
          大庄屋 署名 印  」

 また十一月になると町方からも同じような調査結果の報告書が提出されてきた。そして十一月七日と八日に町奉行と大代官による内容の検討
が行われた。それによる分類別の鉄砲では取り上げ鉄砲(戦闘用)という種別では、本来の目的とは別に、農作物などを荒らす猪、鹿、鳥などを威嚇する目的もあり、亀山の村々の総合計で四十六挺あった。
この取り上げ銃の取り扱いは
  『四月から八月までは弾を込めてはならぬ、八月までは
   役所の倉庫に預かる、収穫期がきたら渡す』
と査定された。また純然たるケモノの威嚇用鉄砲は合計で三十六挺あり、
これは前の藩政のときに報告されていた数と符合する。この銃のは
  『大庄屋が責任を持って保管せよ。』
と決められた。また弾込めも
  『四月から八月まではまかりならぬ』
とされ、威嚇用鉄砲の試射をするときは嘆願書を提出させる。しかし
  『八月以前でも農作物の被害が多いときは、引き金の封印
   を切って使用することを認める』
と沙汰された。

 亀山藩飛び地の近江では威嚇用鉄砲は七挺。これは前々から許可を得ていたものなので、そのまま認めることにした。
 猟師用の鉄砲の総計は三十七挺。これは狩猟のほかの使用を厳禁する主旨を徹底し、証文を取ることにした。そして毎年九月には証文を差し出させ、そのうえ役所で証文を検討確認して判印、老中の決裁を必要とした。これらのほかの
  用心鉄砲(護身用)、寄進鉄砲、商売鉄砲、質物鉄砲
  在江戸の鉄砲、諸国浪人所持の鉄砲、稽古用鉄砲
などは常時の所持を許さず、大庄屋の支配権を行使して証文をとり、
管理を徹底していった。

 ところが九月の末になって、山本村の庄屋、七左衛門が持って管理していた猟師用鉄砲が紛失していたことが判明した。それもかなり以前に紛失に気がついてながら、届け出を行なっていなかった。
 これは重大な誓約違反である。藩は重役会議で七左衛門の処分をどうするか話あっていた。ちょうどそのとき落針村の四郎兵衛という男から
  『私の親が七月に死亡しました。わが家の鉄砲の管理
   を子の私にして頂けるようお願い申しあげます。』
との嘆願書が提出されてきた。藩はいったんは七左衛門の処分を軽く
すませようとしていたのだが、四郎兵衛からの嘆願書をみて会議の空気は一変した。
  『四郎兵衛の態度は殊勝である。それに比べて七左衛門
   は言語同断、重い処罰は止むをえない。』
そして
  『山本村の庄屋、七左衛門は不届き至極につき庄屋を
   解任し、亀山藩領から永久追放とする。』
と決定したのだった。

 宝永七年(1710)に亀山城主となった松平乗邑だったが、治世わずか七年、享保二年(1717)に山城国淀へ移封となった。彼はかなりの名君だったらしく、公務の余暇に「亀山訓」という著書を著している。亀山の人々は彼を讃えて和歌を詠んでいる。

   いまもなお昔の秋を偲ぶこそ
         鴫たつ沢の夕暮れの空

 江戸時代の施政者は「出女、入り鉄砲」に象徴されるように、民衆の持つ飛び道具がいつ自分たちに向けられるか知れない。そんな思いから鉄砲の管理には極端に神経をとがらせていたようである。

 
 参考文献  松平乗邑文書「亀山御入部以来、鉄砲改一巻」

 
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