東海道の昔の話(150)
   二つの長瀬神社 愛知厚顔  2005/11/23 投稿
 


厚顔『私はかねてから長瀬神社と云う名前の神社が、こんな
   近くに二つあるのが不思議でした。一つは鈴鹿市長沢町、
   もう一つは亀山市菅内町にあります。
   私はこの謎を少しでも解明できたらよいなあ…と願い、
   長瀬神社の由緒研究をテーマに、仲間とパネル.
   デイシュカッションを計画しました。本日は鈴鹿市と
   亀山市の研究者を代表して、お二人の先生をお招きして
   おります。拍手でお迎えしましょう。
   ではどうぞ(拍手)』
長沢『鈴鹿市からやってきました長沢です。未熟者ですが
   どうぞよろしくお願いします。』
菅内『亀山市を代表してまいりました菅内です。どうぞ
   よろしく。』
厚顔『ではさっそくですが、長沢さんの長瀬神社の位置を
   お尋ねします。』
長沢『ハイ、鈴鹿市長沢町は鈴鹿川の支流である御幣川の川沿い
   に当ります。いまの長瀬神社はむかし武備神社と言われた
   跡地にあたり、長沢の集落から北東約七百bのところに
   あります。』
厚顔『それは昔から同じ場所なのでしょうか。』
長沢『いいえ、もとは長沢集落の北、字北美加登中之宮
   にあったのですが、明治四十四年に移転しました。
   旧場所の畠には長瀬神社旧跡の石標が立っています。』
厚顔『では亀山の長瀬神社はどこにありますか。』
菅内『亀山市の長瀬神社は鈴鹿川のほとりにある菅内町に
   あります。ここは阿野田の東隣であり井尻町とは川を
   挟んだ対岸になります。菅内の居住地は丘陵の上
   ですが、長瀬神社は北東に鎮座されております。』
厚顔『かねて私が不思議に感じている一つに名前があります。
   この「ナガセ」の名についてどうお考えでしょうか。』
長沢『もっとも古くて確実といわれる文献の「延喜式神名帳」
   では「ナカセ」と記されています。「和名抄」の
   鈴鹿郡の項では長世郷とあります。』
菅内『そのとおりでしょう。もっとも同じ「和名抄」でも伝書に
   よっては「奈加世」とか「奈賀勢」とか記されてます。
   これは間違いなく「ナカセ」という呼び名であり
   社名も「ナカセ」からきたのでしょう。「長瀬」を
   充てたのは地名からではないでしょうか、すなわち
   川ノ瀬が長いという地形からの長瀬、これこそ鈴鹿川の
   流れで出来た地形を示しており、菅内が本家本元の
   証拠だと思っています。』
厚顔『さきほど長沢さんから強い文証を示されましたが、
   長沢さんはこれをどうお考えになりますか。』
菅内『いや私の解釈は少し違います。そもそも長瀬神社は
   菅内町にずっと存在しており、その旧跡を「長瀬沖」
   と云っていました。山田大水氏も「亀山地方郷土史」
   で紹介していますが、「菅内村本田名寄帳」の文証でも、
   その旧跡がもとの神社があった場所であり、後にいま
   の山手に移ったとあります。』
厚顔『いやあ…場所だけでもこんなにお話が別れますか。
   ではその辺をそれぞれ由緒縁起などから説明して
   頂きましょう。』
長沢『では鈴鹿市の方の長瀬神社ですが、こちらが本家本元
   であることは「勢陽雑記」、「勢陽五鈴遺響」、「大日本史」
   など、いずれの古文書も長沢町の長瀬神社説を支持され
   てます。元禄二年成立の「亀城兎園記」の長沢村の条でも
   「長瀬神社…村之北」とあり、「宝暦九年八月上進神社記」
   では「鈴鹿郡長沢村長瀬神社延喜式内」と式内社を明記
   してますね。』
厚顔『鈴鹿市の説明は大変重みがありますが、亀山さんは?』
菅内『こちらの旧地は菅内町の北西で西隣の阿野田町に接する
   境あたり、某化学製造会社の近くにある宮ノ腰という
   地名のところ云われてます。また地元の伝承でも
   菅内の天台宗長賢寺は長瀬神社の別当の長瀬寺だった
   とも云われてます。』
厚顔『どうも難しいお話になってきました。もう少しこの長瀬の
   名について論議を続けて頂きましょう。』
菅内『そうです。延喜式内社の長瀬神社の所在は鈴鹿郡七郷
   の内の長世郷にあったとするのには鈴鹿市さんも
   異論はないと存じますが、ではこの郷は何処か?、
   「熱田太神宮縁起」によるとヤマトタケルが蝦夷を
   征討した帰り道、薨去されたのがこの長瀬の土地で
   あり、長瀬は「能知瀬」が訛ったものだと説いてます。』
長沢『それは間違いないでしょうが、「延喜式諸陵寮」には
   能褒野墓はこの鈴鹿郡に存在したとあり、長瀬郷はこの
   ヤマトタケルの墓付近にあったと考えるのがごく自然
   でしょう。それならば我が長沢町だと主張できます。』
菅内『いやいやヤマトタケルのお墓も説が別れてます。
   いまは田村町名越字女ケ坂の王塚、いまの御陵が
   それだという説がもっとも有力なのは事実ですが、
   実は能褒野は鞠ケ野、鞠ケ原、大野、広瀬野などで
   呼ばれている台地の総称であって、これに御陵が
   含まれる位置は他より有力だけなのです。しかし
   同じ名越えには長瀬山東光寺という郷名を付けた
   廃寺跡もあり、古屋久吾は「布留屋双紙」で阿野田、
   菅内、和田、井尻、和泉なども長瀬郷に含まれる、
   と言っており、わが菅内も能褒野の範ちゅうになり
   ますね。』
長沢『わが鈴鹿市長沢町には深広寺がありますが、この寺の
   伝承では古には長瀬山宝蔵寺と号していた事実、また
   深広寺にある恵心僧都が刻んだという仏像には
   長瀬山白鳥院と書かれています。これらをつらつら考え
   ると、この長沢町周辺が長瀬神社の本居と思うのも
   自然だと思います。』
厚顔『いやあ、お二人のお説を伺っていますと、どちらの説も
   正しく両方につい賛同してしまいます。』
長沢『さきほども指摘しましたが、ヤマトタケルのお墓の
   所在と長瀬とは密接な関係があると思われます。
   こちらの長瀬神社には本殿の後ろにヤマトタケルの
   お墓と伝承される武備塚、また境内の奥には車塚が
   あります。この塚の上には建部綾足が詠んだ歌も
   あります。彼を含めて多くの研究者もこの長沢説を
   とっていることを思うと、こちらの社のほうが古くから
   存在したと考えます。』
厚顔『たしかに享保年間の西田栄欣や亀山城主の板倉勝澄も
   武備塚に注目し、塚を整備したり参詣の道標べを
   造ったりしていますね。しかしここでヤマトタケルを
   含めて論議をしますと、内容が多岐に渡ってしまいます
   から、ヤマトタケルのお墓については、改めて一つの
   独立したテ−マとしてとり挙げてみたいと思います。』
長沢『そうしてください。ではこの機会に私のほうの祭祀を
   説明しましょう。こちらの祭神はヤマトタケルと」と
   住吉三神のほか二十四柱を祭っています。
   例祭は十月十五日、氏子は長沢町を中心に約二百五十
   世帯です。神職は昔は金森氏、田上氏と長い間世襲で
   したが、いまは神宮本庁によっています。』
菅内『こちらは古くは神明社と呼ばれたようです。
   祭神は天照大神、瀬織津比売命、菊理毘売命の三柱
   です。例祭は十月十五日でこれは長沢さんと同じ、
   氏子は菅内町の約百世帯、宮司は他社と兼務されて
   います。
    また菅内は鈴鹿川の流れに面し、古代の国府があった
   とされる、鈴鹿市国府町にも近いことから、早くから
   人々が住み着き開発が進んだと思われます。』
厚顔『それも東阿野田の古墳群や遺跡、あるいは西樺野古墳群
   東樺野古墳群があることを思うと納得できそうですね。』
菅内『そして古い東海道もこの鈴鹿川の南岸に沿って道が設
   けられ、菅内を通って国府に通じていたとも思われます
   から、この地に式内神社があったとしても不思議で
   はないと思います。』
長沢『わたしのほうも宝暦九年の記録、明治四年と八年の
   記録でも式内長瀬神社とはっきりしていますが、
   この二つの長瀬神社をどちらが本家か元祖か、などと
   議論し探求することは愚かなことと考えます。お宮は
   その地に居住する人々が、人知で計り得ないことを
   神様として尊崇した象徴だと思いますから、それを深く
   探求しても仕方がないと思います。』
菅内『まったくそのとおりですね。いつの頃からか長沢と菅内に
   社が生まれた。そしてそれは偶然にも同じ名前だったと…、
   これでいいではありませんか。』 
厚顔『よくわかりました。このテーマについては別に結論付け
   をしなくてもよい、これまでどおりでいきましょう。
    これからも学問の世界で多いに切磋琢磨し、ますます
   研究に精進して頂くことにしましょう。
    本日は大変ありがとうございました。(拍手)』


参考文献
   「勢陽五鈴遺響」「布留屋双紙」「亀山地方郷土史」
    国學館大學「式内社調査録」
   

 
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