東海道の昔の話(152
林羅山と山鹿素行 2 愛知厚顔  2005/12/2 投稿
 


 元和丙辰二年(1682)春の終わり。
数人の供侍を引き連れて馬に乗っ一人の男、それが周囲を景色を見回し想を練っている。彼は漢詩の構想に思いをめぐらせているとみえた。
 彼の名は林羅山、いま飛ぶ鳥を射落とす勢いの徳川政権の側近中の側近である。侍上がりではない。もともと学者である。
 彼は天正十一年(1616)の八月生まれだから、いまは三十三才である。
彼は生まれながらに秀偉の人だった。幼いときから学問を心差し八才のとき、甲斐の学者が父のために「太平記」を朗読したことがあった。
彼は一度この朗読を聞いてこれを筆記し、数十冊に綴じて暗誦したという。
 また別の学者が「論語」の集註を講義していたとき、途中で一ページを飛ばしてしまったことがあった。羅山はすぐに筆をとって諳んじて書き写し補写した。それも一字も間違いがなかったという。
 その博識は広く世間の人の知るところであった。
彼が十八歳になったとき、はじめて朱子学の集註を読んで感激し心服した。そしてついに人々を集めて朱子学の講義をするようになった。
 知識ある人、あるいは心ある人たちは
  『お上からお許しないのに講義はしてはまずいので?』
と忠告したが、彼は
  『昔から新しい学説を唱えるときは罪を覚悟でやるものだ』
と自説を通した。
 この話を聞いた徳川家康は
  『いまどきなかなか腹が据わった男だ。』
と、見所があると思ってそのまま許したようである。

 そのころ藤原惺窩がわが国の儒学、ことに朱子学の第一人者の評判であった。羅山はすぐに彼に入門して懸命に学業を重ねる。その甲斐あって間もなく、二十三才のときに徳川家康のお目見えを得ることができた。
慶長十二年三月、ところは駿府城内である。そのとき家康は
  『中国の光武帝の系譜を答えてみよ』
とか
  『孝武の反魂香の出典は?』
  『離騒に載せられている蘭は?』
などいくつか下問をされたが、いずれもすらすら即答したので、大いに家康の心を掴んだようである。

 これをきっかけに羅山は幕政の重要な部分にかかわる。家康は合戦に明け暮れた武将だったので、学問の道には弱かった。彼は羅山のほか、崇伝和尚や南禅寺の霊三、円光寺の元吉和尚など、多くの有名な学僧を政権に招き、文事秘書官とした。
 慶長十九年(1614)には日本国中に存在した旧記録類を写本し収集させた。この責任者には林羅山と崇伝和尚に当たらせた。
 また御所や公家寺院などに秘蔵している諸記録、古文書類を借りて写させた。このとき収集された写本は実の多かった。今日伝えられる歴史文書の材料の多くはこのときの成果である。そしてこの古史、旧記録はやがて翌年から発せられる「禁中条目」「武家法度」の二大法令に結実する。

 これより先、慶長十七年六月、大阪城の豊臣秀頼は家康との約束から京都東山方広寺の梵鐘を鋳造し、この鐘に銘を南禅寺の高僧に入れさせたのだが、これが禍を招く。家康の政治顧問だった天海和尚が家康に
  『この鐘の銘に国家安康、君臣豊楽、云々の句あり。
   これは家康を讒言し豊臣家を讃えるものだ。』
と告げたことから、大阪冬の陣、夏の陣の合戦に結びつき、豊臣家の滅亡に?がるのだが、このとき天海と一緒になって林羅山も
  『この銘文こそ徳川家を呪詛するものです』
と訴えたという。この時期は羅山はまだ徳川政権の中枢に携わっていないと思うが、後に彼の果たした役割から推察すると、そういうこともあっただろうとも受け取られている。

 淀君、豊臣秀頼らが炎の大阪城と運命を共にしたころ、慶長十九年の四月、羅山は江戸において二代将軍の秀忠公に書を講義し、また駿府城では朝鮮通信使に謁見する重要な立場を得ている。
 まもなく彼は家康の命令で剃髪し「道春」と号した。以来これが侍講号となり、寛永元年四月からは江戸でも将軍秀忠の侍講を勤めた。
 彼は一介の学者でありながら、大名並みの破格な待遇と権勢を得る。他人ならば得意満面になるところだが、彼はもとよりそんなことに頓着はしていない。
  『あくまで私は法の学者であり、道徳を説く者である。』
との姿勢を貫いていた。

 元和二年(1616)の旅でも、その出発前に関東八州を行政と司法の中心におき、勘定奉行初判、八州以外の大名領は寺社奉行支配など位置ずける答申を行ってきたばかりである。
 次いで将軍家からは、また酒井忠勝を通じて羅山と息子の林春斎に、今後の徳川政権の長期安定案の原案作成を命じられている。これは徳川政権を磐石にするため、全国諸侯の配置を考えた重要な内容である。
 腹案として将軍は江戸城にあって政事を行ない、家康公は駿府で後見とし健康なときは江戸え御座あるべし。京都は所司代を置き、伏見城番を廃止し城を壊す。大阪には城代を置いて伏見城代の内藤氏を当てる。そして近畿の重要な拠点の淀、郡山、膳所、亀山には譜代大名を配置する、などの構想である。

 さらに東海道など諸道の川に橋梁を架けず、関を置いて固める。
 大阪の陣の戦後は戦功のあった東海の諸候と云えども、すべて関西、山陽、南海、北陸に移す。そしてその跡には譜代を充てる。などであった。

 林羅山とその一行は桑名領から四日市那古浦をすぎる。石薬師宿は高飛から名前が変更されたばかり、そして庄野では
  「石薬師の西、亀山の東に庄野有り、此の所の民家に
   焼き米を小さき俵に入れて、毎戸ならべて置く、
   其の俵の大き拳のごとく、また槌のごとく…」
と感心して観察し旅日記に書き入れた。焼き米は携行食として便利なもの、むかしの旅行者は重宝していたようである。
 亀山城は前年に三河挙母(豊田市)から三宅越後守康信が入ったばかり。伊勢に五千石と三河に五千石の一万石を領している。

      亀山   権大納言、烏丸光広卿
   亀山を背中において春の日の
       あたたけさに甲をこそ干せ

 この和歌は大阪冬と夏の陣の戦乱が終わった元和のころに詠まれたもの。歌の内容も戦と縁のない平和なものになっている。
 羅山一行は亀山城の天主を遠く眺めて細い街並みを通りすぎた。
  『この町の通りは細長くて曲がり角の近くは門が
   ある。』
関宿ではあまり休息せずに過ぎる。坂ノ下を経て間もなく鈴鹿山の険の登りである。
  『これが八町二十七曲がりの険だ。いつきても
   険しい坂だな…』
つぶやきながら、額にかかる春の風を楽しんでいる。やがて坂の勾配もゆるんできた。そろそろ近江との境に近いのだろうか…。
  『あそこの茶店で少し休もうか』
彼は供侍に声をかけると馬を下りた。そして床机に腰を下すと懐から紙と筆をとりだした。
  『どこへ行ってもこのクセは治らないな』
一人ほくそ笑みながらゆっくり筆を走らせる。

    鈴鹿 林羅山   鈴鹿峠にて詠む  林羅山
   九折盤紆鈴鹿坂 九折、盤宇す鈴鹿の坂
   行人征馬恐蹉? 行く人も馬もつまずきを恐る
   今日四海恩風遍 きょう四海は風も穏やか
   八十瀬河無白波  八十瀬河(鈴鹿川)に白波も無し
                   (元和丙辰紀行)     

 『京へ入ったらゆっくりこんな詩も詠めないだろうな。
   せめてこの旅だけでも楽しみにしたいものだなあ…』
主人が運んだ茶をすすり団子をほおばる。そのとき近江側から一組の行列が差し掛かった。
  「どうやら黒田候らしい、ここで顔を合わすのはやめよう」
彼は下僕に目配せすると、皆と同じように道路脇へ平伏したのである。

 江戸の城中で林羅山は将軍家に講義を行っている身分だが、ときには諸候の求めに応じて朱子学の講義もしている。彼は説く
  『ソレ天地ヒラケザルサキモ、開ケテ後モ、イツモ常ニアル
   理ヲ大極ト名付ク、コノ大極ハ動イテ陽ヲ生ジ、静ニシテ
   陰ヲ生ズ。コノ陰陽ハ元ハ一気ナレドモ、分カレテ二ツ
   トナル。五行トハ木火土金水ナリ』(理気弁)
  『其ノ理スナハチ人ノ形ニソナハリテ、心ニアルモノヲ
   天命ノ性ト名付ク、コノ性ハ道理ノ異名ニテ、兎ノ毛
   ノ先ホドも悪シキコトナシ』(人性論)
  『人ノ性ハ元ヨリ善ナルニ、何トテ又悪ハアルゾト云ウニ、
   例ヘバ性ハ水ノゴトシ、清キタルモノナリ。綺麗ナルモ
   ニ入レバスナハチ清シ。汚レタルモノに入レバスナハチ
   汚シ…、気ハ性ノ入れ物ナリ…故ニ性モ気ノウチヨウニ
   ヨリテ、根本善ナレドモ、形ニ覆ワレ欲ニ隔テラレテ心
   ヲ曇ラセルナリ 』
また政治の基本については
  『それ政事を為すに徳をもってすれば即ち云う
   ことなくして四海化して行なわる。』
  『政事と云い徳と云う。あに外に求めんや、
   これを駒臆に求めて万国服す。』
 すべて政治に携わる大名たるものは、徳の心を基本にすべきだと説いた。

 こんどの旅でも各地で諸大名の行列に遭遇したが、相手が家臣を従えて通行しているとき、羅山が出しゃばって挨拶をすれば、彼を師と仰ぐ大名は家臣の手前、妙な立場になってしまう。彼はそれを考慮してなるべく挨拶も遠慮している。
 あと数日で京都に入るが、二条城ではまた別の繁多な仕事が待っている。林羅山はそれを思うとうんざりする。気がつけば彼は道徳学者よりは重要な政治を動かすプレーンの立場に立っている。徳川政権が彼に寄せる絶大な信頼を考えると、なんとしてもそれに応えなければならない。
 彼は複雑な気持ちで駒を西に進めていった。
               (続く)

 
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