東海道の昔の話(157
能褒野陵としての武備塚      愛知厚顔  2006/4/4 投稿
 

 古代の英雄ヤマトタケルノミコトの終焉の地は能褒野だと、紀記にはっきりと記載されていますが、それが能褒野一帯のどこなのか…、研究者はいまもって謎だとしています。いまでこそ亀山市田村町の王塚が宮内庁指定の能褒野陵とされてますが、これも明治十二年以前は、鈴鹿市加佐登神社境内にある白鳥塚(円塚)が能褒野陵とされていたのですから、地元も学者も宮内庁も相当困惑したことでしょう。それが突如として田村町名越の王塚だと云うのです。
 そういう私は鈴鹿市長沢町に代々居住する男です。
別に名乗るほどのものではありませんが、ここでは仮に伊船太郎としておきましょう。私は故郷贔屓の贔屓倒しで、能褒野陵は白鳥塚でも王塚でもなく、この長沢地区にある長瀬神社境内の武備塚であると思っております。

 ヤマトタケルノミコトは古事記、日本書紀によれば、東征の帰り道に伊吹山の荒ぶる神に立ち向かうとき、草薙剣も持たずに伊吹山に登りました。一番の不覚は雨具を持っていかなかったことです。それを知った荒ぶる神は氷雨を降らせて追い返してします。冷たい雨に身体をうたれ高熱と極度の疲労、ミコトは山中で道に迷いながらも、ようやく麓の泉の傍まで下りてきました。そしてその湧き水を飲んで蘇生し、冷えて疲れ切った身体を癒しました。このことから泉を居醒泉(イサメノイズミ)、すなわち醒ヶ井(サメガイ)と呼ばれることになりました。いまも醒ヶ井には清冽な水が湧き出ており、豊富な水中には美しい水にしか住まない、天然記念物の魚ハリヨが生息しています。そしてミコトは養老の山裾をめぐり、伊勢の地に入りました。養老地方にはミコトの足跡を辿ってみますと、白鳥の名を冠した神社がつぎつぎに出てきます。

 そして病みつかれた身体を引きずり、朝明川あたりまできたとき夜が明けます。アサケ川の名はこれが由来ですね。また三重の名は苦しむ自分の身体が三重に曲がったと嘆き悲しんだ言葉から、また四日市の杖突坂では、杖を突いてやっと坂を越えられました。こうして能褒野まできたのですが、もうここから先に進む気力はありません。死を自覚されたミコトは有名な辞世の歌ほか二首のヤマトの国を偲ばれる歌を歌われました。そして病が急変して危篤となり、いよいよ最期というときに
 『お嬢子の、床に我が置きし剣の太刀その太刀はや』
と歌い終わるや、お亡くなりになられたのです。
 ミコトの死を知ると、ヤマトにおられた妃たちや御子たちは、
みな能褒野に下ってきて、御陵を造営しその地のなずき田を這い廻わり、声をたててお泣きになったのでした。
 このようにして、ミコトが葬られた「のぼの墓」は、十世紀の初めに
成立した「延喜式」の諸陵寮の中に、天皇陵と並らび都から離れた「遠暮」として

   能褒野墓   日本武尊。在伊勢国鈴鹿郡。兆域
          東西二町。守戸三烟

と出ています。間違いなく平安初期までは、鈴鹿郡のどこかに実在していたのです。二町といえば二百二十メートル四方もの境域があります。墓守も三軒あったと云いますから、かなり大規模な陵墓です。 
 
 ところが戦乱や何やらの時代を経るうち、いつしか所在が判らなくなってしまいました。そして徳川政権が安定すると、幕府の事業で天皇陵や皇后陵を調査、研究、修復するようになります。これはおりからの尊皇思想の台頭と相まり、幕府の公的な動きと純粋な民間の国学者、儒学者、神官、僧侶など、いろいろな人々が、異なった立場や考えから取り組んでいます。そういう人の一人が京都の医者、松下見林です。彼は人々が山陵研究に着目するずっと以前から研究を重ねた先駆者です。彼が上梓した「前王廟陵記」は、後に続く研究者に大きな影響を与えたようです。

 徳川幕府による公的な陵墓修復では、京都所司代、松平紀伊守信庸が担当した詳細な調査記録がいまも残っていますし、寺社奉行柳沢吉保の部下の細井某が作成した記録も残っています。それには能褒野のヤマトタケル陵墓についても記載があります。
 幕府が行った享保年間の山陵調査でいまに残る記録「山陵志」は、いまも学者の間で高い評価を得ています。京都の所司代や町奉行所には、この方面に造詣の深い役人が揃っていたらしく、役職を離れてからも個人の資格で山陵調査を続行する人がいました。

 この幕府系の役人学者たちは
 『能褒野陵は高宮村、すなわち加佐登神社の白鳥塚である』
といってますし、三国地志を著した藤堂元甫や松坂の国学者、本居宣長も同じ意見でした。そのほか安岡親毅、板倉茂樹ほかの学者も、
 『御陵は白鳥塚だろう、』
とか
 『いや長沢村の双子塚、または丁子塚かも知れない』
と、迷いながらもいろいろな学説を述べています。

 そんな中で亀山藩では長沢の武備塚説をいち早く支持し、ミコトの御陵として正式に認定したのです。そのとき何を根拠にして決めたのか、誰の説を重視したのか、よく判っていませんが、たぶん国学者、建部綾足の働きと地元の学者、西田某の研究が大変影響したことは間違いないようです。
 もう一人、京都在住の神道家で占部兼敬がいました。彼もこのころに伊勢鈴鹿の能褒野陵について研究を重ね、ヤマトタケルノミコトの御臨終の様子を
 『能褒野武備山陵に葬め奉る。』
と記述、さらにミコトの御魂が白鳥となったあと、
 『山陵を自ら出て東南に向かって飛び立った。』
と、武備塚こそがミコトの御陵だと主張しています。また
 『この山陵を武備陵と号し、この野を武備の大野と名付け
  られたのは、ミコトが薨御のとき剣の柄を握り、雄叫び
  されたためである。』
と詳しく説明しています。また彼は父景行天皇がミコトの足跡を訪ね歩いたときのことから、武備神社(現、長瀬神社)を
 『ヤマトタケルノミコト現神の社』
と称されるようになったこと。またあの坂上田村麻呂将軍が東国へ遠征されるとき、必ずこの武備塚に戦勝祈願されたこと。これは足利義満や義輝
のころまで続いていたといいます。これを見ると長沢地区の武備塚が能褒野陵墓として認められていたことがわかります。
 地元白子の学者、坂倉茂樹は少し違った印象だったようです。彼は幾度も武備塚にやってきて調査し、それを師の本居宣長に報告しました。
 『私の考えでは、この武備塚はヤマトタケルノミコトの
  従者、吉備津彦もしくは大伴武日連の墓ではないかと
  思います。』
 本居宣長は後に自分も実地見聞し、
 『これはミコトの墓にしては小さすぎる。』
と否定的でした。
 けれども亀山藩主の板倉周防守勝澄はこの武備塚を真の能褒陵墓と認めたのです。それで享保十四年(1729)十一月、板倉杢右衛門の名をもって、武備塚のある武備神社に能褒野山陵社地境内として、二町四方、陪塚の宝冠塚に八間四方、宝裳塚に十間四方の土地を寄進しました。
以来、歴代の亀山藩主の崇敬も厚く、関係者の献納による灯籠も残っています。また境内のはずれには例大祭のとき、藩主の前で行われた相撲の土俵場の跡もあります。

 この塚について
 『この塚こそ能褒野陵墓に違いない』
と断定し、精力的に世間に訴えた学者が建部綾足です。
 彼は陸奥弘前藩の家老、喜多村家に1717年に生まれました。俳諧の世界で成功したのち片歌の道へ入り、ヤマトタケルノミコトを片歌の始祖として慕い、自分の性も武備(タケビ)にあやかり「建部」と改めました。これはミコトの御あとを継ぐという強い意志の現れでもあります。
 明和七年(1770)には車塚二号墳の上に碑を建立しました。その建設の
様子は
 「…五月十まり六日、かの千引の石を多くの人して川の辺より
  引き上げて、此の荒野を持て来るに、夜にもなれば、松灯し
  連つれてたちとよみ、御前に引き寄せて侍りける時は、大い
  なる篝火を幾所にも焚きて、百まりよその人ら広前におりて、
  御酒とうべて此の陵を伏し仰ぐ様などぞ、昔此のミコト、
  ここに隠れませし折りなども、かかる様なりけむなど思ひ続け
  侍りて、比べなき有様に覚えける。…』
 建立には大勢の人々が集まり、碑石を川の岸辺から引き上げて運んでいるうち、夜になってしまい松明や篝火を焚いて行った。そして完成のときは御陵に御神酒を捧げ伏し拝んだとあります。

 このときの奉納文は彼の心情をよく顕わしています。
 「この御社は人皇十二代景行天皇の太子、ヤマトタケルノミコトの
  御陵です。ミコトは能褒野にて御病につかれ給うたとき、読まれた
  御歌が三首あります。その中に
   愛 哉 吾家  方従   雲立
   はしけやしわぎへのかたゆくりいたちくも
  このたび、この御歌を石に刻みつけて、この御社の広前に建立
  を発心しました。これは私、綾足の大きな願いでもあります。
  (云々)。ヤマトタケルノミコトの御霊を讃え奉るとき、ただ
  勇ましい御光の当たるところだけ注目されますが、古代に
  数多くの御製が詠まれているなか、ミコトの御歌は勇ましくも
  大変悲しみに満ちています。
   そこでこの御神の荒魂をなごませ奉りたい、このはかない願
  いを柔魂(ニギタマ)に祈り奉りたいと思い立ちました。
  いま日本中には歌を詠んで歌道を尊びたいと願う人は、この
  ミコトの御精神を仰ぎ敬ってほしいのです。この私の願いを国中
  の人々に知って頂こうと、おなじ心におわす人々を代表し、
  この御社に納め祀りたいと思いました。(云々)』「建部綾足」  
 平成十年十月十日の例大祭の佳き日。
名古屋の作曲家が組曲「倭建命」を作曲し、長瀬神社のミコトの御霊の御前で奉納演奏されました。これは記紀の記述をテーマにしたものですが、あまりにもすばらしい曲なので一部をご紹介します。

 「組曲」 
 
   天翻る白鳥  倭建命(ヤマトタケルノミコト) 

 今、われ汝の人となりを察るに、丈高く
 容姿美わし、力能くかなへを挙げ、猛きこと雷電の如し
 向う所敵無く、攻むる所必ず勝つ。
 形は我が子にして、実は神人なること。
 是れまことに神の、わがおさなく、国の乱れたるを哀
 れみ給いて、天業をおさめととのえ、国と家を回興し給
 うか。
 この天下は、即ち汝の天下なり。この位は汝の位ない。
 願わくば深く謀り、遠く慮りて、
 これを示すに勢いをもってし、これをなずくるに徳を
 以って、自ずからに毎従わしめよ。
  と天皇はのりましき。

       懐旧の歌
   思いては昔も更になけれども
     又返らぬぞ あわれなりけり   詠人不知
   
   いま過ぎ去った昔の事と、あれこれを思い浮かべて
   懐かしんでいるけれど、それもこれも既に夢の如く
   過ぎ去って再び巡り来るものはない。ああ…。

       祝歌
   君ケ代は千代ともささし天の戸や
     出る月日の 限りなければ    詠人不知

   天皇命の時代は、天壌無窮で千年も万年も続く。
   その有様は、天の戸を開けて昼に太陽の輝く如く、
   夜に月が照り渡るごとく永久に限りないものです。

 倭建命は東へ、東へと進まれ、走水海を渡られることになった。
 そのとき、海峡の神が大波を起こし、船を翻弄して、くるく
 るとめぐらせ、進むことがお出来になれなかった。
  そのとき、命と共に、この旅について来ておられた后の、
 名は弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)がいわれた。
  「これは、海神の怒りに触れたのですわ。わたくしが、
   御子の代わりに海に入って、海神の怒りをなだめ
   ましょう。」
 そうして、弟橘比売命はこう歌われた。

   さねさし相武の小野に燃ゆる火の
       火中に立ちて問はす君はも

 相模の野原に燃える火のあの炎の中、あなたは私を気ずかって
 抱きしめて下さった。
  「大丈夫だよ」と、「心配するな」と。
 ああ、あの時のあなたを忘れません。わたくしは…。

 そうして、海神の花嫁として、美しくよそおって海に入られた。
 すると、荒波がおのずと静まり、船は無事に対岸へ進むことができた。
    (注:オトタチバナヒメノミコトは亀山市野村の出身)

 やっとこのことで、伊勢国の尾津前(桑名市多度町)の、一本松
 のもとにたどり着かれた。
 そこはかって東国遠征におもむかれる途次、とどまってお食事を
 とられた場所であった。そのときお忘れになったお刀が、失くな
 らないでそのままあった。まるで一本松がお守りしていたよう
 に…。命は感動して歌われた。

   尾張りに 直に向へる 尾津の崎なる
   一つ松 あせを
   一つ松 人にありせば
   太刀はけましを 衣着せましを
   一つ松 あせを

  尾張の国に向いた尾津の岬の一本松よ。
  なあ、お前よ、この一本松よ、人であればなあ。
  太刀をはかそうものを、着物を着せようものを。
  なあ、お前、一本松よ。

 そこからさらに進まれ、三重の村にたどり着かれたとき、
 いわれた。
  「わたしの足は、三重に曲がったように、たいそう疲れて
   しまった。」
 そこでその地を、三重という。
 そこからさらに進まれて、能褒野に、やっとお着きになった
 とき、もう一歩もお進みになれなかった。なつかしい大和は
 目前であるのに、たどり着くことがおできになれない。
  故郷をしのんで、倭建命は歌われた。

  倭は 国のまほろば たたなずく
  青垣 山隠る 倭し 美し

  大和の国は、国々の中ですぐれて美しい国。幾重にも重なった、
  青々とした山に囲まれ、その中にこっぽりとこもる大和は、
  おお、なんと美しい国。

  また、もう一つの歌。

  命の 全けむ人は
  畳薦(タタミコモ) 平群(ヘグリ)の山の 熊白樫(クマガシ)が葉を
  髪華(ウズ)に挿せ その子    

 命つつがなく無事に大和へ帰る人は、幾重にも重なりあった
  平群の山の大きな樫の木の葉を髪に飾って人生を楽しめよ。
  ああ、無事にふるさとへ帰れる子に祝福あれ。

 そう歌われた。この歌は故郷をしのんで歌う、「国偲歌」である。

 また、次ぎにお歌いになったのは、
 
  愛(ハ)しけやし 吾家の方ゆ
  雲居立ち来も

  おお、いとしくもなつかしき、我が家のあたりから
  雲が湧き起こってくるではないか。
 
  このとき、命のご病気は。にわかにあらたまり、
  危篤になられた。そのとき、歌われた歌

  嬢子(イヤツネ)の 床の辺に 我が置きし
  つるぎの大刀 その大刀はや

  乙女の床のあたりに、私が置いてきた、あの太刀。
  ああ、あの太刀よ。
 
  そうして歌い終えられるや、亡くなられた。
  従者たちは、命のご急逝を伝える早馬の使者を
  朝廷へ送った。
  大和にいられた命の妃たちや、御子たちは、
  どんなに悲しまれたか。みなそろって、命の御臨終の地、
  能褒野に下り、御陵を作り、そのそばの田を這いまわって、
  声をあげて泣きつつ、歌われた歌は、

  なずき田の 稲幹に 稲幹に
  匍い廻ろふ 野老蔓(トコロズラ)

  お墓のそばの田の稲の茎に、その稲の茎に這い
  まつわっている。山芋の蔓のように、私たちは、
  死者を惜しんで這いまつわり泣くのです。

  そのとき、倭建命の魂は(白鳥)となって天高く翔り、
  浜に向かって飛んでいった。これを見て、妃や御子たちは、
  小竹の切り株で素足を傷つけながら、その痛さも忘れて、
  泣いて追っていかれた。そのとき歌われた歌は、

  浅小竹原(アサシノハラ) 腰なずむ
  空は行かず 足よ行くな

  丈の低い小竹の原を、行こうとしても、小竹が腰に
  まつわって前へ進めません。
  白鳥のあなたは、空を飛んでいかれるけれど、私たちは
  足で歩いていくのですもの。

  白鳥のあとを慕い、海に入り、ゆきなやんでお歌いになった歌

  海処行けば 腰なずむ 大河原の
  植え草 海処は いさよふ

  海を行けば、腰もゆらゆら広い川の面に生えた水草の
  ゆらゆらするように、海を行けば、ただゆらゆら。

  白鳥は、追いついて捉えようとすると、また飛び立ち、
  磯にとまるのであった。そのとき歌われた歌は

  浜つ千鳥 浜よ行かず 磯伝ふ

  浜千鳥のいる浜は行かないで、白鳥は、人の追いつけない
  岩だけの、けわしい磯を伝って飛ぶのです。

  この四つの歌はみな、倭建命のご葬儀に歌ったのだった。
それゆえ、いまでもこれらの歌は、天皇のご大葬の折りに歌うのである。

   皇神の見晴かす四方国は、天の壁立つ極
   国の退ぎ立つ限り、青雲たなびく極
   青海原は、棹柁干さず、大海原に舟満ち続けて
   陸より往く道は、荷緒結い固め
   磐根木根 履みさくみ、狭き国は広く
   峻しき国は平けく
   遠き国は、八十綱掛けて引き寄せるが如く
   皇孫命の御世を、手長の御世と、堅磐に常磐に祝い奉り
   いかし御世に幸え奉る故に、皇孫命の珍のみてぐらを
   称へごと おえまつらくと宣る。
  「組曲、終」

 江戸時代、武備塚のある社は武備神社と称されてましたが、明治四十二年の合祀によって長瀬神社になりました。祭神は主神の倭建命ほか二十七神柱です。境内地は享保十四年(1729)亀山藩主より御陵地として、二町四方を寄進されました。明治初年に無税地として五町二反八脊余が認められました。明治四年にはそのうち四反一畝余が境内地として残され、その後の地租改正のとき国有地になりました。そして昭和二十四年に国から無償譲渡され神社所有地となっています。残りの四町八反余は神社所有地として鎮守の森を形成しております。

 能褒野陵墓がどこにあるのか…、この謎解きは江戸時代から盛んに研究されてきましたが、いまだに江戸期の研究を越える成果に至っていないようです。その最大の要因は陵墓の発掘が宮内庁から許可されない、この一言につきます。これはどの天皇陵でも同じです。
 だが私、伊船太郎は故郷をこよなく愛する男として、あくまで能褒野陵墓は長瀬神社境内にある武備塚、これこそヤマトタケルノミコトの御墓だと信じております。
「建部綾足建立の武備塚歌碑」


参考文献  亀山歴史博物館「近世のぼの考」
      三重郷土会「論集、三重の古文化」
      長瀬神社「組曲、倭建命」
長瀬神社「沿革」 四日市市「泗水」

 
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