東海道の昔の話(158
鈴鹿ノ関所と駅家      愛知厚顔  2006/4/10 投稿
 


 我が国に律令制が敷かれて、ようやく中国や朝鮮半島の先進国家から、まとまった国として認められます。だが交通や通信の整備はこれからの状況でした。なかでも重要な地方の国基盤、これに中央政府の勢威が行き届かなくては治世がとれない。これを整理して国の基幹とする必要に迫られる。これが五畿七道でした。

 五畿とは畿内ともいわれ山城、大和、河内、摂津、和泉のことでいわゆる中央部分です。これに対して東の国を東海と東山、北は北陸、西は南海、山陽、山陰、西海と分類しました。この中で鈴鹿山系の峠は畿内を守護する天然の要害となるし、いくつもの主要街道が交差する関、それはまさに国の血脈を左右する場所です。誰が考えてもここに関所が設けられたのは納得ができます。

 奈良や畿内で転々としていた都と政権。それには東国との交通路や情報伝達に重要な道路、これが安全に確保されないと困ります。徴課税をはじめ重要な政治運営に支障を来たします。そこで関所は大和から伊賀越えして伊勢路に入った場所にしたのでしょう。このほか関ヶ原の不破ノ関、北陸道の愛発ノ関の三カ所でした。設置の年代ははっきりしませんが、「一代要記」には
 『不破ノ関は白鳳元年(672)に創設された。』
とありますから、おそらく鈴鹿ノ関もそのころです。
 壬申の乱のとき大海人皇子が吉野山中を出て挙兵、大和、伊賀を経てこの地に進撃したとき、天武六百七十三年六月二十五日付で、
 『三重郡家に在った大海人皇子の下へ、
  鈴鹿関司が使いを派遣、山部王と石川王
  を押縛して関所に置いた。』
と報告されてますから、このときにはすでに設置されています。

 関所の役目としては不審な通行人の取り締まり、盗賊や浮浪者らを排除し、交通安全をはかるなどは勿論ですが、とくに遠い地方の大和朝廷に信服しない有力勢力に備え、軍事的な防衛拠点としての役割が重要でした。そのために関が廃止になってからも、国家有事のときには「固関使」が急遽派遣され、臨時に関所を固めております。これは「大宝律令」や「養老律令」でも
 『おおよそ、関を置いて守固す…
  兵士を置き…分番して上下せよ
  其の三関には鼓吹の軍器を設け、
  国司は兵を分ち守固すべし。』
と明記し、鈴鹿、不破、愛発(アツラ)の三関を国司の軍兵に守らせています。
 愛発の関はのちに都が山城に移ると近江の逢坂ノ関に変わりました。
 この鈴鹿ノ関所が設置された場所や規模など、いまでもはっきりしませんが、平成十八年三月にはそれと推定される遺跡の発掘に成功した、と報道されました。「続日本紀」の記録では
 『鈴鹿関西内城、太鼓一鳴。』
 (宝亀十一年六月二十八日)
 『鈴鹿関西中城門太鼓自鳴三声。』
 (天応元年三月二十六日)
 『城門並守屋四間、始十四日至十五日
  自響不止、其声如以木衝之』
    (天応元年五月)
とあり、守護警備の役人や兵に時を知らせるか、あるいは何らかの合図なのか太鼓を鳴らしていたようです。これから推定すると関所は内城と外城の二重構造であり、また西城と東城の二つがある相当大きな規模だったようです。

観音山公園の関所跡 観音山公園内に発見された
関所跡付近
(発掘中)

これをみても他の二つの関と同様、軍事的な役目色彩が色濃いものと納得できます。記録をみても養老五年十二月の元明太上天皇崩御のとき、天平元年二月に起こった長屋王の謀反事件、また天平勝宝八年五月の聖武天皇崩御のときなど、とくに固関使が派遣されてます。
 この関も東国の政情が安定し安定してくると、軍事的な目的は必要がありません。また街道の治安も安定して交通量が増大してくる。また都が北に遷都されていくと、かえって関所があることが交通に支障をきたします。また多数の役人や兵を常駐させると莫大な費用もかかります。
 『関所をなんとか廃止したらどうか…』
この民の声に応じ、桓武天皇の延暦八年七月十四日(789)に関所は廃止されました。関所として二百年にも満たない短い命だったようです。
 
 廃止後も有事のときには臨時に関が設けられ、役人や兵を派遣して守りを固めました。記録では大同元年三月十七日、桓武天皇の崩御のとき、あるいは弘仁元年九月の藤原薬子の追放、仁和二年の近江新道の開通、寛平三年の関白藤原基経の薨去のときなどです。
 さて関所の場所は学者によっていろいろ云われてます。なかでも有力なのが、仁和二年(886)に東海道が阿須破道、すなわち鈴鹿峠越えのルートをとるようになるまでは、大和伊賀から加太越えの道。このとき関はおそらく鈴鹿川南岸の古厩あたりだと云われます。それが都が吉野や大和から奈良など北に遷都されると鈴鹿峠越えがメインになり、鈴鹿川北岸の関町新所のあたりに移設されたという説です。ある学者は鈴鹿峠にあったと主張してますが、それは絶対にありえません。関所の廃止は鈴鹿峠道の開通より百年も前のことだからです。

 仁和二年の藤原基経の薨去以後を最期に関を固めた記録はありません。けれど後三条天皇の延久六年(1073)「経信卿記」には
 『鈴鹿駅、件駅於関戸四五町許、所造
  借屋三十宇許也』
とあり、また時代が下がる貞応二年(1223)四月に源光行がここを通過し、
 『薄暮に鈴鹿の関屋にとまる。』
と「海道記」に記しています。これをみると十三世紀には、残っているのは建物だけのようです。また藤原定家が
 『えぞすぎぬこれや鈴鹿の関ならむ
   ふり捨てがたき花の影かな』(新後撰集)
と詠んだり、鴨長明も
 『鈴鹿山と出て関屋を見れば
  人も居ず荒れにけり』  (長明家集)
と記して、はっきりと関所が無かったと云ってます。ましてや戦国動乱期の永禄十年(1567)、歌人の紹巴が富士方面の旅を終え、関地蔵堂の裏にある桜の古木をみて
 『是や鈴鹿の関ならむ、定家卿の
  歌故に名ると…』
と記したのを見ると、関の痕跡すらもまったく不明になっていたと思います。

 関所の寿命は短いものでしたが、その名は地名として残りました。なんといっても京都近江道、大和伊賀道、伊勢参宮道、そして東海道の四つの街道が交差する拠点です。そのため奈良、京都の中央政府から政治的、交通通信情報ルート、そして軍事的にも重要な位置ずけで見られました。関所の周囲にはだんだんと人家も増えて賑わってきます。
 やがて駅家が設けられます。万葉集にも
 『鈴音の駅亭の包み井の
   水をたまへな 妹が直手よ 』
         (万葉集14巻3439)
と出ています。この駅家は近江勢多の甲賀駅、伊勢国の関駅、そして壱志駅(一志駅)などでした。この駅家は勅使が伊勢神宮に下向するとき、よく利用したと多くの公家の記録にあります。鈴鹿駅家は「延喜式」に
 『駅馬二十曳を置く』
とあり、駅ごとに馬も用意されていたようです。

 ところが荘園制が発達し律令制がだんだんと崩壊しはじめます。そこで朝廷は勢力挽回のために都を平城京に遷都します。都が吉野や大和地方から北に移るころ、関所も廃止の運命をたどりました。これによって常設されていた駅家亭もなくなり、勅使下向にときは臨時の仮屋が設けられます。
 それでも伊勢神宮への勅使派遣は院政期にもっとも盛んに行われました。

 まず一条天皇の寛弘二年十二月(1005)には、参議の藤原行成が奉幣使として鈴鹿駅亭に宿泊し、翌日に壱志駅に出立しています。彼の祖父は摂政藤原伊伊であり、良い家系に恵まれて三十才で参議、ついで権中納言、権大納言と階段を上りつめ五十六才で没してます。彼は筆まめな人であり、二十才ごろから没するまで克明な日記「権記」に残しました。この鈴鹿ノ関駅に一泊したした様子も「権記」にくわしく記されてます。

 また長元四年九月(1031)には藤原経頼が帰路に壱志駅を立ち、この駅に真っ暗になって到着してます。かれは天皇の血筋につながる家系の出なので、立身出世は約束されていたのですが、藤原道長、父子の専横政権のため出世コースから外れていました。彼は心の中で反発しながらも、太政官政治の実務を完璧にこなして認められ、勅使などにも任命されたようです。

 気の毒なのは源経信の下向です。彼は延久六年(1073)六月三十日、鈴鹿駅に到着したのですが、関戸から四、五町ほど離れたところに仮の駅屋を三十棟ほど建てられていました。それはまあいいのですが、その警護役人の姿がありません。
 『ここの警護役人の姿がないが
  いったいどうなってるのだ!』
経信がむっとしてなじると、
 『国司さまの命がないので動けません。』
との返事。また饗応の担当も
 『諸荘園からの賦課に応じないので、
  国司は勅使の面倒をみる余裕があり
  ません。』
という。国司や荘園を持つ有力者が勅使をないがしろにする。すでに律令制が破綻していた証拠です。これははじめから予測されていました。友人の前駿河守惟盛からも
 『私が個人的に饗応など提供しましょう。』
との申し出がありましたが、
 『宇治殿(頼通)御庄がすでに準備されて
  いるので…』
と丁重に断っています。これは前の備中国司が荘預図書頭資任に命じて準備させたといいます。もう
 『駅家の雑事が繁多なので…』
というくだらない理由で、どの駅でも国司が動かず、勅使が友人や親戚の助力で任務を果たしていたようです。

 後一条天皇の長治二年(1105)八月十六日の源雅実の場合、険しい鈴鹿峠や八十瀬川の渡渉で難渋し、
 『山路之嶮難、人馬共疲屡』
といった疲労困憊の有様で、ようやく関駅家に到着したのですが、あてがわれた仮屋があまりにも粗末でした。
 『仮屋之体粗略』
であり、食事の賄いではただ一膳という具合。さすがの雅実も頭にきて
 『国司ノ奇怪、不可勝計』
この国司の接待態度は奇怪千万、けしからんと非難しています。翌日は大雨で鈴鹿川が氾濫する恐れがあり、雨の中を朝早くに出発し壱志駅にむかいました。
 そして無事に参宮を終えての帰途、八月二十一日に午後に関駅に着いたのですが、またもや国司から
 『国司如前為無音』
国司は往路と同じように顔も見せず音沙汰がない。けれど神祇の小副兼政が忠節を尽くし、心のこもった接待をしました。この豪勢な饗応に彼は感激し 『この国司と違い、彼はまことの信義の人だ。』
と褒めちぎりました。ところが彼が都に帰ってまたすぐ、嘉承二年(1107)二月にふたたび勅使を命じられます。二月十三日に近江石部駅を出発します。今度は国司が鈴鹿峠まで出迎え、山中で酒宴をひらいて勅使一行を接待しました。そうして鈴鹿駅家に到着したのですが、国司の接待はやはり
 『如形』
形だけのもので
 『仮屋又以粗略』
宿泊する家屋も前と同じように粗末なものでした。このときも国司に代わって心から接待したのが神祇の兼政でした。その宴も
 『海陸之珍 丁寧之勤』
山海の珍味を膳にしつらえ、忠節の心からの饗応接待でした。このあとの伊勢参宮からの帰途、二月十八日も関駅に泊まっていますが、やはり国司は一行を粗略に扱ういっぽうで兼政は
 『殊以丁寧』
まことにもって丁寧な饗応に満足気でした。

 つぎの勅使、藤原宗忠が永久二年一月に宿泊したときも、また治承元年九月の藤原実房の場合も、国司にほとんど無視されてしまい、友人や知人の有力者の口添えを得、賄いや接待を提供してもらっています。
 寛喜三年(1231)十月の藤原隆親の場合、関駅家の仮屋建設は国司の担当とし、供給は往路が祭主、帰路は国司の負担、そして勅使の守護は守護所の左衛門尉忠家が担当。これに必要な人夫は祭主、守護がそれぞれ五十人、駅の伝馬も祭主と守護がそれぞれ三十匹と定めました。またさらに国司所轄の駅家雑事は、拒桿使二人が伊勢国の各荘園に割り当て課税徴収しました。
 このように平安期とちがって守護が重要な役目に変化しています。
だがこれも後醍醐天皇の嘉暦三年九月(1318)、万里小路宣房卿が派遣されたのを最期、ずっと後年まで途絶しました。またときどき政変や国事多難なとき、臨時に復活していた関所も、後醍醐天皇の元亨元年(1321)に勅命でもって廃止されました。

この春、発見された関所跡についても、調査が進むうちいろいろな新事実が判明してくるでしょう。 私たちはそれに大きな期待を持ち、わくわくしながら見守っております。


参考文献  角川版「日本地名大辞典」
      大川吉崇「鈴鹿山系の伝承と歴史」
      「権記」「左経記」「続日本記」
    「雅実公記」「大神宮諸雑事記」「玉葉」

 
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