東海道の昔の話(16)
  能古茶屋と布気神社  愛知厚顔   元会社員  2003/9/10投稿
 
 野村一里塚をすぎ、しばらく歩くと能古茶屋跡の前を通る。
この能古茶屋は芭蕉の友人だった俳人が経営していたという。むかし街道を歩く人で賑わっていたころ、この茶屋からの大展望は有名だった。参勤交代の大名、公家、侍、商人。はては芭蕉もこの景色を楽しんでいる。

 枯れ枝に鳥とまりたるや秋の暮   芭蕉

店先の縁台から見えた風景を昔の記録では
  『納古茶店、その店のさま自然の風流にしていと綺麗なり。
   西北には(西南より北にかけて)錫杖ケ嶽、鈴鹿山、関山、
   関の馬屋、いつはの森、明星嶽、羽黒山、峨峨たる岩山、
   鶏足山、仙ケ嶽、飯森ケ嶽、鎌ケ嶽、連峰悠々たり』
ずらっと素晴らしい山々が立ち並んでいる。
 またあのシーボルトも江戸への参府旅行のとき、三月廿八日の日記には、
  『雪におおわれたKamagasaki(鎌ケ岳)Gosansju(御在所岳)がここからよく見えた』
と書いている。

 納古茶屋の名物も有名だったらしい。土御門泰邦という公家の旅日記には
  『納古茶屋、名物にて出すを見ればハッタイ粉の如し、糠味噌なり』
とあり、期待したほどでもなかったと評している。

 錫杖ケ嶽(676m)は、山容が錫杖を持った修験者に似ているので、この名があるそうだが、ここから眺める姿は別名の雀頭嶽でも雀の頭そっくりなのには驚きである。加太からの登山道は急峻であり、登ってみると結構きつい。しかし山頂からの展望は抜群である。また小雀ノ頭を通って加太の上在家に下る尾根は、まるで鋸の歯のようにギザギザとして急峻な様相である。むかしはいたずら子供に親が
  『あの山から天に竜が昇った。親の言うこと聞かぬならあの竜に食われるぞ』
と脅してしつけたものだ。
 上古は修験者の修練の山だったのもうなずける。江戸期の画家、谷文兆の〔日本名山図会〕には、この山がかなり険しく誇張されて描かれている。

    蝉に声あり錫杖嶽経ケ峰        中島秋挙
  
刈谷藩の医者だった秋挙も、この茶屋からこれらの山々を見て満足したらしい。経ケ峰は堂々とした姿を左端に見せている。山頂の右に三角の形のピークがあるが、これは近年登山者が訪れるようになった嘉嶺である。
 鈴鹿山は鈴鹿峠の古い呼び方である。鈴鹿の主山系で一番低い部分がこの峠であり、茶屋からはっきりと指摘は難しいが、そのあたりとは判断できる。
 関山は関宿の背後にある山々のことであり、これらは容易に望むことができる。

   君をとふ道の中では越えがたみ
          関の雄山のなからましかは   よみ人知らず 

 茶屋から見えたという関ノ馬屋は関宿の南にあり、むかし天照大神の御魂が五十鈴川の上へ遷座のとき、神馬を繋いだと云われる村だが、一般的には宿場のことを馬屋とも呼んでいたので、関の宿場町を指しているのかも知れない。それにしても納古茶屋から低い場所になるのにはたして見えたのか…少し首をひねる。
 
  道ほそき関の馬屋の鈴鹿山
      ふりはえ過ぎる友よばふなり      為家

また、いつはの森(出羽ノ森)も茶屋から見えたとあるが、これは亀山市小野町の北にある鎮守の森だといわれ、すぐ近いところである。
                  
川上のゆずはの山の薄紅葉
      下草かけて露や染むらん        家隆

  蚊遣り火の煙は立つや里遠き
      ゆずはの村に日は暮れにけり      監阿

 明星岳、羽黒山、野登山(鶏足山)仙ケ岳、鎌ケ岳などの鈴鹿の山々は姿形もはっきりしているので、いまも昔も変わらなく見えている。
 明星ケ岳は中腹に弘法大師が開創したといわれる国分寺がある。
標高は五百米台なのだが、能古茶屋から近距離にあるので山容が大きくどっしりとして見えたのだろう。
 山麓の集落に白木一色とか白木という名が多いが、これは弘法大師がこの山で修行中に空から明星(金星)が傍らの柏の木を照射した。そこで柏の木を二つに割って本尊の虚空蔵菩薩像を彫られたという。また白木は柏の文字を二つに割ると、柏=白と木の文字に別れる。だから里は白木の名前になるし、山は明星の名前がついているのだという話。昔の人は実に機知に富んだ話をつくるものである。

 羽黒山は全体が砂岩である。街道筋から見ると大きな岩がニョキニョキと突き出ており、自然の造物にしてはあまりにもよく出来ている。
宇宙人が作ったとか、神様の造作だとか言う人もいる。
 江戸時代の昔の絵図には亀石、天守岩、花瓶石、とか酒盛岩、馬士岩、布袋岩などの名が見えている。夫婦岩は大小二岩が相対していること、天守岩はまるで天守閣のように屹立している岩のことだろう。JR関駅構内には地元の画家が描いた岩絵があるが、その岩の名は自分で名前を付けたといっていた。たかが岩の名前といえ貴重な文化遺産である。自分勝手に命名云々に疑問を抱いてしまった。
 山中の羽黒権現は源義経の家臣、佐藤次信、忠信兄弟が出羽国から勘請したものという。

   年々に巣かへる鷲の山とてや
      おとす羽黒の余波成ならん          宗長

 連歌師の島田宗長が関氏の山荘に招かれて滞在したときの歌である。

 野登山、仙ケ岳はいずれも野登寺開創、仙朝上人ゆかりの伝承にあふれている。あまりにも有名なのでここでは歌だけにとどめる。

   野をのぼり寺こそこれよ鶏の
        あしたの声は法の言の葉       縁起

   この寺も御室の枝か庭さくら            芭蕉

 鎌ケ岳の元の名前は冠ケ岳。能古茶屋から見る姿に限らず、伊勢平野のどの地点からみても、この山は烏帽子冠の形に似ている。カンムリが鎌(カマ)に訛っていったのだろう。
 昭和十九年の南海大地震で頂上の冠部分の南側が崩落し、双眼鏡で覗いてみると、いまも白茶けた肌をさらけ出している。山頂にあった祠の残骸がいまも谷底に転がっている。

       鎌ケ嶽先ず立ちおこり露の天        鶏二

  冠山     鎌ケ岳   伊藤冠峰     
 暁來登冠峰  暁來冠峰に登る   朝がたから鎌ケ岳に登った
 眺望至日午  眺望して日午に至る 遠くを眺め正午にもなった
 嶺上一片雲  嶺上一片の雲    峰の上にかかった一ひらの雲が
 散作五瀬雨  散じてなる五瀬の雨 散って伊勢の方で雨となる   

 この冠山(鎌ケ岳)の漢詩を詠じたのは安永年間(1700)、菰野出身の詩人、伊藤冠峰である。彼は名古屋の学塾で米沢藩顧問の細井平州や南宮大湫と比べられる大学者でもあった。

 布気神社は能古茶屋の後にある森の中に鎮座まします。
 雄略天皇のころ、豊受大神宮が伊勢国に遷座されたとき、鈴鹿郡で一宿した行宮の旧跡とされる。いまこの社は布気皇舘太神社と称される。
江戸時代には高野大神宮、高宮、神戸神社などいくつも名があった。
それが享保八年(1723)から、いまの皇舘大神宮と呼ばれるようになった。
中世に土地の豪族、板淵氏や地頭の関氏が守護した。江戸期では亀山藩から手厚い保護を受けている。
 明治になってから村社に列し近在の鎮守社を合祀している。
祭神は天照大神、豊受大神、伊吹戸主神の三神だったが、明治の合祀でいまでは廿三神を奉り、むかしから水の恵みの神様として知られている。

 東海道の街道が旅人で溢れていた時代、この社の獅子舞は有名だった。
ことに丑辰未戌の閏年には、正月十四日から三月三日までのおよそ五十日間も、亀山藩の領分と野尻、落針、大綱寺、山下、小野など在郷を回り、また街道を歩く旅人の眼を楽しませていた。 
 いま参道入り口にある二基の石燈篭には布気神社前の説明版  クリックで説明文へ
  「皇舘太神 廣前 寛保四年甲子正月十四日」
と、この閏年の獅子舞の始まりを表す刻銘がある。
古い記録では
  「布気神社は野村忍山のあたりにあったが、疲弊したので舘の森(いま皇舘という場所)に遷し、その跡は田圃となった。その故にいま布気林の名が残っている」
とあり、フケの意味が湿地帯とか田圃を指すことを考えると、いまの野村の忍山神社のほうが鈴鹿川に近い沼沢地であり、布気神社にふさわしいと考える学者もいる。しかし私たち街道を歩いて楽しむ者にとっては、遠いむかしのロマンを求めるだけで満足であり、神社がどっちかということはどうでもよいと思っている。


参考資料  「式内社調査報告」「三国地志」「江戸参府旅行日記」
        「亀山地方郷土史」「東行話説」「緑竹園詩集」
 
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