東海道の昔の話(160
 赤坂頓宮           愛知厚顔  2006/4/16 投稿
 


 私がこの頓宮(トングウ)という名前を耳にしたとき、何のことやら判りませんでした。これが
 「仮にかまえた宮、かりみや行宮」
の事だと知ると急に興味が出てきました。それはこの頓宮が亀山の関宿地域にあることが判ったことからです。もっとも文献にある古い記録は続日本記のもの、聖武天皇の天平十二年十一月十四日に赤坂の地に頓宮を営んだとあります。

 歴代天皇のなかでもこの天平の時代ほど、多くの都を建設したり放棄したりした時代はありません。天平十二年、山背国に恭仁京の造営にとりかかるけど、それが完成しないうちに近江紫香楽宮を造営。だが数年後には難波宮に移り、その翌年には平城京に入られるという。
 それと云うのも、天皇は神尾元年(724)即位と同時に、毎年のように落雷火災、干魃飢饉、疫病、あるいは大地震などに見舞われます。天平九年には宮廷内に勤務する役人も疫病にかかり、とうとう朝廷内の執務がとれなくなる有様です。こんなあげくの果て、忠実な中臣東人が殺害されたり、長田王や藤原広嗣などの臣下の謀反など。つぎつぎに不運な出来事が起こりました。そのため災いを払い除くため仏の教えにすがり、それに基づいた都換えだと理解できます。

 天平十二年(740)六月、天皇は法華経十部の写経を全国に命じ、また七重塔の建立や十尺の高さもある観音像を造らせました。そんなとき九月三日、九州太宰府の少弐、藤原広嗣が反乱を起こしたのです。 その原因は天平七年に遣唐使の吉備真備と一緒に唐から帰国した僧、玄眩にありました。玄眩は長い間、病に苦しんでおられた天皇の生母の宮子后を看病し、めでたく快復させたのです。それがきっかけで玄眩は政治にも口を出しはじめます。また政治の世界でも藤原一族の勢威がだんたんと落ち目になって、広嗣は自分は疎まれていると思ったのでしょう。とうとうこれらの不満が爆発したようです。挙兵のはじめは広嗣に勢いがありましたが、朝廷は従五位下、中務少輔の阿部虫麻呂と佐伯宿禰常人をに命じ、軍兵を率いて九州に向かわせます。

 こうした緊急事態の最中、十月二十六日になって天皇は側近の大将軍、大野朝臣東人を呼び
 『朕は縁あって思うところあり、
  今月の末に関東に往かんと欲す。』
将軍は大変驚き
 『いまはそんなときでは御座いません。
  どうか思い止まってください。』
と奏上したけど、天皇の意思は固く
 「もはや止むをえず。」
と諦めて行幸を供にしたのです。
 関東行幸といってもいまと違い、都からみて関の東の地方へ行幸することです。御一行は伊勢を目指すことにします。 

十月二十日、兵部卿の鈴鹿王と中衛大将の藤原朝臣豊成を留守役に置き都を出発、この夜は山辺郡竹峪村堀越頓宮に宿泊。
十月三十日、伊賀国名張郡に至る。
十一月一日、伊賀郡安保頓宮にて宿泊。大雨の為
泥まみれとなり、人馬とも疲弊困憊となる。
十一月二日、伊勢国壱志郡の河口頓宮に至り宿泊。
ここは関ノ宮とも云う。
十一月三日、この関ノ宮で十日間ほど滞在。この滞在中に九州に派遣された官軍が、豊前国板柩河の合戦で大勝利し、反乱軍の首魁藤原広嗣を肥前国松浦郡値嘉嶋長野村で捕らえ、すでに処刑したとの知らせがもたらさた。
十一月十二日、行幸御一行は車駕で川口頓宮を出発し壱志頓宮に至る。

十一月十四日、天皇御一行は鈴鹿郡赤坂頓宮に至る。この日から二十四日まで赤坂頓宮に滞在し、随行した陪臣や功臣供養者に叙位がされた。たとえば側近の大将軍、大野朝臣東人は従四位下から従四位上、副将軍の紀朝臣飯麻呂も従五位下から従五位上へ、橘宿禰は従二位から正二位、智務王は従四位上から従四位上、側近の大伴宿禰古慈悲は従五位上に叙勲された。ほか石川王、守部王、道祖王、安宿王、黄文王なども。そして反乱鎮圧にもっとも戦功のあった阿部虫麻呂には、本人不在のまま従五位下から従五位上。同じく戦功のある佐伯宿禰常人も従五位上に叙せられた。この叙勲は文官武官、騎兵、子弟にまで手厚い爵位であった。

十一月二十四日、赤坂を発して朝明郡に至る。
十一月二十五日、桑名郡石占ノ頓宮に至る
十一月二十六日、美濃国当伎郡に至る。
十一月二十七日、民百姓など八十才ー百才の高齢者を褒賞される。
十二月一日、不破郡不破頓宮に至る。
十二月二日、宮処寺と曳常ノ泉に行幸
十二月六日、不破頓宮から近江坂田郡横川頓宮へ
その後、都に帰られた。

 聖武天皇がどうして急に関東行幸をされたのか、どうして赤坂頓宮で多数の陪臣を叙位されたのか…、学者は
 「九州の反乱に天皇が驚き恐れられ
  じっとしておれずに、逃げ出された」
云う人もいますが、これは大変失礼な言い方です。私には判りませんが憶測しますと、やはりたびたびの天災、疫病と反乱という世情不安、このため地方の民を見舞い人心を鎮める。併せて天下太平、国土安穏、息災を神仏に祈念するための行幸だったと思っています。そして反乱が鎮圧された喜びを、すぐ叙位で報いられたのだと思います。

 聖武天皇は全国に大寺を建立したり、大きな事業をつぎつぎに行われましたが、天平勝宝八年(756)に薨去されました。いま関町の赤坂頓宮は国史跡として比定されてますが、学者の中には旧国府があったいわれる鈴鹿市国府町付近が正しいと云う人もいます。これらも研究が進んではっきりしてくることを期待したいものです。
 
 このほか亀山関の地域には「鈴鹿頓宮」があったとの記録があります。これは斉宮群行のとき斉王一行が宿泊された頓宮ですが、これが赤坂頓宮と同じ場所のものか、あるいはまったく別の場所に造られたものなのか…、いまでもまったくはっきりしていません。この斉宮群行の鈴鹿頓宮にも私は興味があります。
関宿にある「赤坂頓宮跡」

参考文献、 「続日本記」

 
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