東海道の昔の話(161
 斉宮群行と鈴鹿頓宮   愛知厚顔  2006/4/17 投稿
 

 鈴鹿頓宮の名がみえるのは、平安時代の斎王または斉宮の群行の記録です。斎王とは新しく天皇が即位されると、伊勢大神宮に仕えるため選ばれて伊勢に派遣された未婚の皇女、または女王のこと。この姫君は斉王として占いで決められ任命されます。姫君が神意に叶うと確かめられると、京の北の紫野の東にある斉院で、一定期間の精進潔斎の神に仕える日々を送り、身を清められます。これは一年間にも及んだといいます。

 この初斉院生活のあと、つぎは加茂神社に参詣し、野々宮での精進潔斎に入ります。伊勢大神宮が天皇家の氏神であるのに対し、加茂神社は天皇の産土神と考えられた為と思われます。野々宮は京都西嵯峨有栖川近くにあり、姫はここでも二年間の精進潔斎の日々を送られます。こうして三年間の心身を浄める生活を送ったのち、何もなければ三年目の秋に野々宮を出発、桂川で身を清めて平安宮に入り、天皇に出発の御挨拶をされます。天皇からは別れの小櫛と御言葉を賜り、いよいよ伊勢へと向かわれます。

 斉王は輿に乗り旅の途中では、頓宮と呼ばれる仮の行宮に宿泊されながら進みます。これが五泊六日もかかり、伊勢神宮の手前にある斉宮御殿まで続きます。この行列は斉王に付き従う高級官吏、武官、文官、身の回りを世話する女官など。五百人もの大行列だったと云われ、斉王群行とも呼ばれました。斉宮群行の往路は時代によって若干異なるようですが、一番多いのが京→勢多(近江)→甲賀→垂水(近江)→鈴鹿(伊勢)→壱志→斉宮。そして帰路は斉宮→壱志→河口→阿保(伊賀)→都介(大和)→相楽(山城)→河陽宮→京の順だったようです。 

 この斉王は古代の倭姫命を含め相当な数ですが、はっきりしているのは天武天皇のころから南北朝時代の後醍醐天皇のころまで、約六百六十年もの間続き、その間に六十四人の姫君が派遣されたことです。鈴鹿頓宮は伊勢国鈴鹿郡内、ここに群行のたびに仮の行宮が設けられたのですが、それが関宿の赤坂頓宮と同じ場所なのか…、それとも関所に近いところか、または旧国府のあった鈴鹿市国府町字長ノ城あたりか、いや近年に礎石群や文字入り平瓦が出土している、鈴鹿市広瀬町の軍団跡すなわち長者屋敷跡だと、人によって違う場所を云います。 

 また景行天皇の行幸のときの頓宮「綺宮」、これは鈴鹿市加佐登町小字綺宮崎だそうですし、また倭姫命が天照大神の御杖代(ミツエシロ)として、河曲(鈴鹿市カワノ)から「鈴鹿小宮山」に至ったときの頓宮、これは鈴鹿市平田町あたりですから、斉宮群行の鈴鹿頓宮もこの平田辺だという人もいます。だが斉宮群行が険難な鈴鹿峠や八十瀬川を越え、やっとたどり着き、次の宿営地が壱志郡の頓宮だとすれば、鈴鹿市のこんなところまで大きく遠回りしたとは思えない。これはまっすぐ直行して椋本から津までいき、久居の壱志頓宮までいったと考えたい。私は鈴鹿頓宮はいまの関町に違いないと思っています。

 他の頓宮跡、たとへば近江土山の垂水頓宮跡などは立派な標柱などが建てられ、近くには頓宮という名前の町もあります。いま見ても野洲川の近くのこの場所は、頓宮としてもっとも適当だなと思います。ここも六百六十余年の間、数年おきか十数年おきの、天皇の即位のたびに行われた群行だけの臨時の仮宮ですから、本格的な耐久建築ではなく、既存の建物を借り上げたか、あるいは一時的な仮建築だったと思います。それは後鳥羽天皇の文治三年九月(1187)斉王、潔子内親王の群行のとき、郡司が命令に従わず鈴鹿頓宮御所を建設しないという。驚いた政権の実力者、九条兼実や一条能保行事左少弁親雅が奔走し、なんとか打開した事実など考えると、やはり群行のための臨時の建物とみたほうが正しいようです。

 六十四人の斉宮たち…。その多くが天下の険難路たる鈴鹿峠を越え、八十瀬川で袖を濡らして鈴鹿頓宮に到着されたのすが、困難な旅の様子は後朱雀天皇の長暦二年(1038)に斉宮、良子内親王に同行した藤原資房の手記「春記」でも、くわくしく述べられています。また朱雀天皇の斉宮、徽子内親王も和歌を詠まれています。

  世に経れば又も越えけり鈴鹿山
    昔のいまになるにやあるらん 
          (古来風来抄)

楽々と越えられるような峠なら、こんな歌は詠まれないでしょう。

  鈴鹿山しずのおだまきもろともに
    降るにはまさることなかりけり
(規子内親王)

つぎの歌はどなたが詠まれたのか、よくわかりません。

  鈴鹿やま音に音に聞きける君よりも
     心の闇にまどひにしかな    
           (斉宮女御)

  止めがたき人の行き交う鈴鹿山
     別れぬ関とはいまはならなむ
           (斉宮女御)

  音に聞く伊勢の鈴鹿の山川の
    早くより我れ恋ひ渡るかな
           (斉宮女御)

やはりこの道が嶮しいことを、ずっと以前からご存じでした。

  すずか河八十瀬の波はわけもせで
    わたらぬ袖のぬるる頃かな
           (弊子内親王) 

  ふりはへて問はんものとは思わねど
    耳のみ止まる鈴鹿山かな
     (祐子内親王)

斉王を退下され仏門に入られた方の歌

  鈴鹿川ふりにし波に袖ぬれて
    仏の道には入りぞわずらふ 
           (風に紅葉集)

  思うことなるとなけれど鈴鹿山
    八十瀬の浪に濡れつつぞ行く
  (かくれみのの前斉宮、風葉和歌集) 

つぎの歌は斉王に付き添われた女官が詠まれたもの。別当とは蔵人所に所属する中堅役人です。
 
  思ふことなるとなけれど鈴鹿川
    八十瀬の浪に濡れつつぞゆく
             (斉宮女別当)

微子内親王は詠み人女御として

  鈴鹿山ふるの中道君よりも
    聞きならすこそおくれざりけり
             (夫木集)

なかでも有名なのが紫式部の源氏物語の中に登場する話です。十七才の光源氏は年上の未亡人、六条御息所と相思相愛になります。しかし御息所は身を引くことを決意し、一人娘が斎王として伊勢に赴任するのに同行します。その出発のとき源氏に与えた決別の和歌が

  振り捨ててきょうは行くとも鈴鹿川
     八十瀬の浪に袖は濡れじや
(源氏物語、賢木)

紫式部もちゃんと鈴鹿越えの困難さを承知していたのです。

 延暦十三年、この年に平安京に遷都。そして仁和二年(886)五月に鈴鹿峠越えが、伊勢への最短ルートとして新しく開通しました。このとき光孝天皇の皇女、繁子内親王が二十三代斉王に任じられました。この斉宮は非常に不運がつきまといます。この年の五月に伊勢に赴任するのがわかり、随行に正五位下行の神祇大副中臣朝臣束本、左近衛少将正五位下兼守、左中弁行備前権介藤原朝臣有穂など六人が任命されます。八月に入っていよいよ出発も近い。精進潔斎して身を清めている秋です。だが毎日のように風雨ひどく落雷がある。また晴れるとこんどは砂や石、粉土が舞い上がり、山野や田圃畑に二三寸も積もる。作物や草木も枯れてしまい、牛や馬の餌にも困る。いたるところに彼らの死骸が累々と横たわる始末。そこで宮中で陰陽師に占ってもらったところ

 『これは鬼気や霊が満ちているせいです。
  この憤怒が祟りとなっています。
  やがて疫病が流行し、国の東南で
  賊の乱も起こります。充分に厳戒さ
  れることです。』
という宣託がありました。そこで朝廷は河内国、摂津、山城、紀伊などの土地を神社に寄進し、神に祈願し静まらせ給いました。けれど各地でよくないことが起ってきます。

八月十四日、宮中から斉宮繁子内親王に、
 『禊ぎが終わり次第、伊勢に赴く
  準備に入るように』
との命が出ます。そして親王奉送使として従五位上守左少弁兼行、式部少輔藤原朝臣佐世、御前長官式部大丞正六位上藤原朝臣興範ら八人と、禊陪従奉送臣使として正三位行中納言兼民部卿の在原行平ら四人が任じられる。ところがまたもや大雨や地震があって、日程も伸び伸びになります。九月三日に斉宮内親王の禊も終了、ところが翌日にはまたも雷雨があり、葛野の川べりに建てた宮の幟も風雨で破れる始末。
 『ゴロッ!、ドドッー!』
落雷で大地が裂けると思わるほどでした。随行の役人たちは検討の結果、
 『これでは出発は無理か…』
と悩みます。ところがつぎは中務省で犬の死骸が見つかります。こんな不吉なことは忌み嫌われます。七日になるとこんどは斉宮ご本人が生理になります。この時代の女性の生理は穢れと見られていたのです。あれこれ吉日を待っているうち、日はどんどん過ぎます。

 『いつが佳い日なのか…』
占いの結果、二十四日が吉日とでました。前二十三日に斉王に詔勅があり
 『すべての禊を終るように。』
その二十四日朝、紫宸殿の前に沢山のウグイスが集まりました。これは大変吉兆です。そして紫宸殿で天皇からお言葉を賜り、繁子内親王は伊勢へと出発されたのです。斉宮群行が下向されて数日がたちました。その間にも加茂神社あたりでオオカミが多数出没して人を襲い、駆除されるという騒ぎが起こる。宮中では
 「群行に何もなければよいが…」
と心配していると、随行の奉送使、中納言藤原朝臣山陰から書状があり。それによれば斉王は輿にて二十八日の午前十時ごろ近江国垂水頓宮を出発、鈴鹿峠を越えて同日午後六時に伊勢国鈴鹿頓宮に入ったとのこと。

 ところが午後八時を過ぎたころ
 『バリバリッ!』
もの凄い音で眠りを醒まされます。驚いた人々の目に映ったのは紅蓮の炎です。そして一軒の仮屋から出火あり、斉宮内親王は更衣の滋野朝臣直子の車に乗って頓宮を脱出され、西垣の外へ避難されました。火災はおりからの西風に煽られ、火の勢いが激しく遂に神殿や厨殿など四軒が延焼しました。垣外の仮屋の寝殿に責任者の寮司を呼び、出火の場所原因を問いただしたところ
 「舎人長磯部豊滝の宿舎から火が出た」
と判明したことが書状に書かれてました。これを読んだ天皇は
 『もはや七ケ日も過ぎている。これ
  以上遅れることのないように…』
と仰せになりました。その後は天皇が体調を少し崩されましたが、諸寺で加持や祈祷あるいは邪気払いが行われ、人々が心配した大事には至らず、病気も回復されました。斉宮の群行も無事に到着しました。天皇は大変喜ばれ、斉宮内親王が伊勢大神宮に参詣された十月二十六日、伊勢国正税穀三千を新居に遣わされた由です。
繁子内親王は在任四年、父の光孝天皇崩御のとき斉宮を退下され、延喜十六年(916)薨去されました。

 もう一人、群行の途中で鈴鹿頓宮で不幸に逢った斉王がおられます。それは平安中期の後朱雀天皇の寛徳三年(1046)です。斉王嘉子内親王の一行は中臣祭主従五位上行神祇大副永保輔朝臣、寮頭正五位下平朝臣雅康、斉宮覆勘使伴兼国らが随行しました。斉宮一行が都を出られてから、九月八日に栗田口に到着したのですが、そのとき一行の馬が犬を踏み殺してしまいます。血を見るのは穢れですから幸先が悪い。案じながら甲賀頓宮まで進むと、こんどは長奉送使の侍従、中納言藤原朝臣信長の馬が倒れました。みんながますます暗い気持ちになります。ようやく鈴鹿の険を越えて鈴鹿頓宮に到着。ここでは女別当雑色と寮頭雑色とが輿にて打ち合いになり、とうとう血を見てしまいました。またつぎの壱志頓宮では使部など随身の駄馬が俄に倒れて死亡します。こうしてさんざんな目にあいながら、斉宮御殿に到着したのが九月十三日でした。

 斉王はもう十五日には神宮の御祭神事に出向かれる決意で祭主に
 『定めどおり祭事をしたい。』
と仰せでしたが、祭主や検非違使右衛門尉惟宗たちは
 『この穢れをすべて禊ぎで祓い落と
  されてからがよいのでは…』
と進言しますが、斉宮は
 『早くしたい』
と。かくて斉王ご一行は参宮に出向かれます。ところが竹河で御祓い禊ぎのあと、斉王はにわかにひどい汗をおかきになり、砂利の上に座ってしまい動けません。西鳥居の傍でしばらく休まれてしまいます。陪臣の中納言や弁左、少弁近江守藤原朝臣泰憲らは心配して、
 「この御汗はまったく非常事態であり、
  明日あらためて御殿に遷座された
  ほうがよいのでは…」
それが正しい選択だったようです。その夜に検非違使忠方の随身の駄馬が突然死し、驚いた忠方は呆然として馬を垣外に引き出す騒ぎとなりました。その騒ぎが収まった早朝、斉宮内親王はすっかりお元気になり、御祭参宮を無事に果たされた由です。

 斉王の群行にともなう鈴鹿峠越え、八十瀬川、鈴鹿頓宮の困難な旅の途中の出来事が記録に出てくるのですが、精進潔斎をモットーとする斉王の旅なので、日記や記録類も穢れ事や事件だけが記されてます。ほかにももっと沢山な出来事があったはずですが、いまに残されてないのでわかりません。
 斉宮御殿に到着の後、斉宮の日々は六月と十二月の月次祭、そして九月の神嘗祭に伊勢大神宮へ参拝すること。これが最重要な役目でした。ほか斉宮御殿では毎月、忌火祭、庭火祭などが行われ、斉宮を清浄に保ち清める祭祀が行われていました。いま明和町の斉宮跡は国指定の史跡となり、立派な斉宮歴史博物館も完成し、広大な敷地ではいまも発掘が行われています。


参考文献、 「三代実録」「太神宮諸事記」
      角川版「日本地名大辞典」
      「源氏物語」「国歌大鑑」
      「玉葉」

 
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