東海道の昔の話(166
 三宅康盛の思い出話   愛知厚顔  2007/3/6 投稿
 


 そうですか…、伊勢の亀山からわざわざ私の話を聞きにこられたとは…それは何ともご苦労さまなことです。
 私は慶長5年(1600)に三河挙母藩三代藩主の三宅康信の子として生まれました。この年は関ヶ原合戦がありました。この戦に先立って西軍に味方した亀山城主の岡本宗憲、彼は西軍の長宗我部、鍋島、龍胆寺、毛利などの軍と合同で安濃津城を攻略し、関ヶ原に進軍しました。
 ところがご存知のとおり、わずか1日で東軍の勝利となりました。この敗戦で行く末を悲観した岡本宗憲は桑名で自害したとも、あるいは近江に逃れたあと自害したとも云われます。このとき亀山城を守っていた留守番の兵士は、城にあった多額の黄金を拐帯して城を捨て逃げ去ったそうです。 
 
 また西軍に加わっていた薩摩の島津義弘の一隊は、美濃上石津村の時山から鈴鹿の山を越えて多賀大社へ脱出に成功したのですが、恩賞目当ての野武士や夜盗に追われ、鈴鹿峠から鈴鹿郡の西に侵入し、関の久我村、鹿伏兎村に入ったのち伊賀へ逃げました。薩摩勢はその後、堺から瀬戸内海を船で渡り、郷里の薩摩にたどりついたのですが、関ヶ原合戦に参加した兵士は1500人、無事に薩摩に戻ったのは僅か80人程度だったそうです。そのころ亀山城はじめ鹿伏兎城などの兵士は四散して不在になっており、はなはだ治安も悪くなっておりました。

 私の祖父、三宅康貞が家康から亀山城主に任命され、治安の安定につくしたのはこのころです。祖父は忠実に領内を治め僅かの間に治安も回復させました。ところが間もなく以前の亀山城主だった関長門守一政が美濃土岐多羅か移封して亀山城に入り、この地で五万石を賜わりました。 祖父は三河挙母(豊田市)に領地を給わり挙母の初代藩主となりました。この城で永禄6年(1563)には父、康信が生まれました。天正18年(1590)小田原攻めでは祖父と父は徳川家康の一陣として参加。また秀吉の朝鮮出兵では肥前名護屋まで出向き、後方支援活動をしました。関ヶ原合戦や大阪冬、夏の陣では祖父に代わり、父と子の私、三宅康盛が駿府城や淀城の守備を任されました。元和3年の12月に父、康信は伏見で従五位下越後守に任じられます。

 そして元和5年(1620)、父は伊勢の亀山に領地が移封されたのです。亀山では初代の岡本宗憲以来4代目の城主です。その領地は伊勢の鈴鹿郡亀山、大綱寺、野尻村、野村、和田などに4千石、三重郡の赤堀村で千石の合計5千石でした。また三河挙母の5千石はそのままの領有だったので合計1万石です。もともと5千石の小大名ですから、家臣団もわずかしかいません。その中から父は三河に家臣の増田金輝を城代として配置し、寛永5年(1628)からは毛馬内太郎兵衛安一を城代にあてました。
だから亀山には100人程度しかつれてこられませんでした。

 私はすでに28才になっていました。新しい伊勢の地は三河とは何もかも違っています。まず言葉ですが、かの地では農民商人の間で知り合いに話しかけるときは「よーほい」とか「あのよー」ですが、亀山では「あのなー」とトーンダウンしています。これ一つとってもはるかな遠い国にきたな…と故郷を恋いたものです。またかの地は同じ三河でも家康の出身の地、高冷地の松平郷と違い、割り合いに平坦な地形で肥沃な農地に恵まれてます。挙母はこの中心にあり、商業や手工業も盛んでした。祖父と父はこの挙母の町の住民を8軒ずつ、7組に編成して隣組として治政にあたりました。住民も比較的裕福で田畑屋敷をもつ者が多く、最高で25石余、平均が10石余です。なかには鍛冶屋、桶細工の者や、乾物屋、油屋などの商売人と農業を兼業する者もけっこういました。

 ところがこちら亀山では鈴鹿川、安楽川にはさまれた丘陵地です。
城も町並も丘の上にあり軍事上からは重要な拠点になり易いのですが、農業生産を主要産業とするこの当時では、石高収入の少ない貧乏な小大名です。それに挙母に5千石を置いたまま、亀山で新に5千石が加増したものですから、これを治める役人や領地を見回る侍が圧倒的に不足します。父も私も頭をかかえて悩みました。三河で行ったような隣組組織を編成しようと、取り掛かったのですが、土地の有力者などの反対などもあって、なかなか思うようになりません。そこで父、康信は領地の一部の小岐須、小社、津賀、広瀬、木下、汲河原、上田の7ケ村これはいまの鈴鹿市の村ですが、これを一括して幕府に返上し、代わりに小川、白木、鷲山、安楽、池山、坂本、平尾、住山、椿世などの比較的に城から近い村を預かることになりました。
 このころ有名な歌人の権大納言、烏丸光廣が亀山城下で詠じた歌があります。
    亀山
 亀山をせなかにおいて春の日の
       あたたけさに甲をこそ干せ
戦国の時代が終わり元和の名のとおり、平和がやってきたことがこの歌からもよくわかりますね。

 そして元和6年6月18日、徳川和子が入内しました。この晴れの儀式に父、三宅越後守康信は白丁4人、舎人2人、鞭持ち1人、烏帽子侍6人、沓持ち1人を従え、前列右側の第5番目に参列しました。この年の8月には多年の功績が認められ、さらに2千石が加増になりました。禄高が増えたのは名誉なことですが、実際のところ大歓迎とはいきません。亀山の治世はまだ緒についたばかり、禄高収入が少ないところに三河と亀山の離れた土地に1万2千石。けれどこれで亀山を本拠とする藩が成立し、挙母藩は廃藩となりました。でも離れた二つの土地を少ない藩士たちで機能的な領地運営はできません。父を補佐する私もまったく頭を悩ませる毎日でした。

 父や私や三河から引き連れてきた藩士たちも、折につれ父祖の地の三河が恋しく、いつもかの地のことを思い出しては懐かしんでいました。このころから京と江戸の東海道の往来が盛んになり、宿駅などの整備が進みます。幕命で亀山藩でも関駅を整備したり、坂ノ下駅を大改修しました。一里塚の本格設置も終わりました。いまに残る野村一里塚も本来は道路の西側は椋の木、東側に榎が植えられたのですが、明治の中期に東側が開墾して畑にしたので、平成のいま西側のみ残っていますね。

 こうして12年がすぎました。私は32才になりました。ようやく三河のことも思い出すことも少なくなりました。「この亀山が終焉の地になるのか…」。それが現実になりました。寛永9年(1632)9月27日父の三宅康信が永眠しました。享年70才、法名は「法栄院源心宗黄」、生前からの強い遺言で遺骨は三河挙母の梅坪村にある霊厳寺に葬りました。
 私、三宅大膳亮康盛は二代将軍秀忠に可愛いがられ、寛永3年の彼の上洛に随行して京都で従五位下大膳亮に叙任されました。26才のときです。そして父の没後は亀山の第二代藩主に任じられたのです。
 
 私は父の存命中から三河への転封を強く望んでいました。正式に書面で幕府に幾度も陳情も行いましたが、それが聞き届けられることはありません。そんなとき幕府の命を受けた堀尾山城守忠明が亀山にきました。役目は亀山城の修復ですが、これにもかなり経費を支出してうんざりしてました。そんな寛永13年、幕府は突如として亀山の所領を三河7千石と常陸国新治(ニイハル)での5千石と交換し、「知行せよ」との命を出したのです。かねて私どもが幕府に陳情していたことが、こんな形で実現しました。幕府の記録「新修寛政重修諸家譜」にも「かねてから乞う旨あるにより」とはっきり書かれています。内心はうんざりととまどいが交錯しましたが、命令には逆らえません。

 こうして私は亀山城を去ることになったのです。私は三河で再び挙母藩を立てました。後任は三河西尾から本多下総守俊次が5万石を与えられて入りました。慶安元年(1648)には懐かしい三河を離れ常陸国下館で幕府直轄の城番をつとめたりしましたが、明暦3年(1657)12月29日に江戸藩邸で没したのです。享年58才、父の康信よりも若い命でした。法名は「清厳院源室義曹」、三河挙母の梅坪村の霊厳寺に葬ってもらいました。
 私の話はこんなところです、よく聞いてくださいました。機会があればまた懐かしい亀山の地も行ってみたいですね。みなさまによろしく。

参考文献  「豊田市史」 柴田厚ニ郎「鈴鹿郡野史」
「七州城沿革小史」 「挙母記」

 
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