東海道の昔の話(167
       亀山鍔                                          愛知厚顔  2007/3/6 投稿
 


 松平和泉守乗邑が前の城主、板倉重冬と交代して新しく亀山城主となったのは宝永7年6月11日である。またこの年に江戸幕府からの巡見使が藩内を視察にやってきた。巡見使とは領内の治世に問題がないか、実際に領内を見て調査する役目である。今回の役人は梶四郎兵衛、田中市兵衛、川口茂右衛門の三人である。彼らは北の菰野藩の巡察を終えて鈴鹿郡に入った。この巡見使の通行した道はいまも巡見街道として名が残る。亀山藩は彼らを丁重に迎えいれるとともに、翌日からの領内の巡検にも出来る限りの協力を惜しまなかった。彼らの幕府に提出する報告がどの藩主も心配である。その巡見も問題なく終わり、巡見使と重臣たちが打ちそろった会食の席上、酒も入ったのと役目が無事に終わったこともあって、お互いの腰の物の自慢が始まった。そのとき巡見使の梶四郎兵衛が我が刀を引き寄せ
 『この刀の鍔は勢州亀山の国友貞栄の銘がありますが、
  この御城下の職人が造ったものではありませんか?』
それを見た重役の一人が
 『これは見事な金工鍔でございますね。わが亀山城下
  で鍔職人などがいるかどうか…どなたか御存知か?』
問いかけられた亀山側の同席者たち、誰一人として国友貞栄の名を知らなかった。ほかの二人の巡見使も
 『ほんとに見事だ。拙者のは無銘の四方蕨手桜透き鍔だが、
  梶さまに比べると貧弱なものです。』
 『拙者のは無銘の坪井ものの牡丹文鍔です。そんな見事な
  亀山鍔が造られているなら、旅の記念にひとつ購ないたい
  ものです。』
 『お城からご手配りをお願いできますまいか?』

〔蕪、大根の図鍔〕
 勢州亀山住国友貞栄作 
  宝永六年青陽之吉
 木瓜形鉄地高彫砂張象嵌
 縦85.0 横80.0 厚5.5

世間から高い評価を受けた金工鍔が膝元で製作されている…。
この事実に驚いた亀山藩はさっそく城下の鍔の金工職人を探した。まもなく彼らは探し出され、お城に招かれて藩主の松平乗邑お目見えに叶うことになった。彼らは鍔職人群の頭で国友正栄と国友貞栄の親子である。城主からねぎらいの言葉を頂いたあと、城の控えで重役から質問攻めにあう。
 『その方は刀の亀山鍔を造っている者だそうだが、どう
  して国友の性か?国友とは近江の鉄砲鍛冶ではないのか?』
それに子の貞栄は
 『そのとおりでございます。私ども国友一族は鉄砲師集団
  として伊吹山の麓、近江国坂田郡国友村(長浜市国友町)の
  出身です。もともとは刀鍛冶で栄えた村でしたが、
  天文13年(1544)、将軍足利義晴さまの命令で鉄砲
  鍛冶に転換しました。のちに織田信長さまが元亀元年
  (1570)、姉川の合戦で朝倉義景さまを打ち破り、
  国友村を占領なさいました。そして臣下の秀吉さまに
  国友鉄砲鍛冶の育成を命じられたのです。』
 『はやり国友鉄砲師の正当な系列なのだな、それから?』
 『はい。国友の鉄砲は性能がよく評判も高いこともあって
  各地の殿様から注文が参りました。とくに信長さまの天下
  取りには国友鉄砲は大きく貢献しました。大阪冬夏の陣の
  最盛期には国友村の職人だけでは手が不足し、全国から
  職人を集めて500人を越える有様でした。このあとの
  徳川家康さまも国友鉄砲鍛冶師を大事にされ、鉄砲師が
  他国に出ていって鉄砲を製作することを固く禁止され
  ました。それを私どもは「国友惣鍛冶の事」という連判状
  にまとめて提出して誓ったのです。このことはこの父の
  ほうから説明させます。』
その父、国友正栄はもうかなりな歳の老人だったが、まだ耳も達者で矍鑠としている。
 『はい、あれは私の父の時代でした。元和元年の大阪夏の陣
  が終わり、世間が平和が戻ってきますと、国友鉄砲の需要が
  激減しました。各地の大名さまもお上の許可なくして、
  勝手に鉄砲を大量に所有できません。国友の総鍛冶という
  組織は四人方と十人方という職人組織がありましたが、
  これからの行方をどうするかの方針を巡って意見が対立、
  四人方が指導権を握ったため、私ども十人方は結局、村を
  出ることになりました。』
 『多くの職人は近江の村を出て各地に散っていきましたが、
  もう鉄砲製作はできません。そこで父祖伝来のお家芸だった
  刀や金工細工、花火の生産などに従事するようになったも
  のです。』
 『そうだったのか、それでこの亀山にやってきて鍔を製作する
  ようになったのだな?』
 『はい。この地は東海道沿いでもあり、多くのお侍さまや殿様
  の行列も透ります。さらに関の奥では良質な鉄材も採れ
  ますから大変地の利が良いところです。』
重役は先の巡見使に依頼されたことを思い出し
 『さきの巡見使さまの所望された金工鍔は持参したか?』
そこで子の国友貞栄は傍らの桐箱の蓋を開け
 『これが出来上がったばかりの私どもの鍔でございます。
  世間では砂張(サハリ)流込み象嵌鍔、別名を亀山鍔とも
  間(ハザマ)鍔とも呼んでいるようです。』
 『ほう。これが亀山鍔か…、見事な出来栄えである。この象嵌
  技術はその方たち独特のものか?』
 『はい。鍔には透かし鍔と金工鍔がありますが、私ども国友は
  金工鍔を得意としています。これは鋳金、鍛金、彫金と鍍金
  の技法を組み合わせます。亀山鍔のサハリは響張とも砂張と
  も云われ、銅に錫、鉛を加えた合金を用い、非常に硬度を
  高くとっております。』
 『刀の鍔もこのような見事な装飾が施される。やはり戦乱の時代
  が昔になった証拠か、細工鍔では正阿彌や伊予、阿波、会津、
  江戸、庄内、秋田などで見事な鍔が製作されているが、この
  亀山にもその方たちの努力で、ほかの鍔に勝るものが出来て
  いることは、殿も大変お喜びである。のちほど何らかの恩賞が
  下されるであろうぞ。』

藩邸ではこんな問答があったと思われる。このときの鍔を城主、松平和泉守乗邑が見て
 『これは一見地味に見えるが、よく見ると独特の虹彩を放ち、
  枯淡なおもむきにも深みがある。大変すばらしいものである』
との言葉を賜った。その後、殿の意向で亀山鍔は藩主から強い支援を受けることになった。そして松平乗邑の転封にともなって藩主とともにその地に移住した。いまに残る記録でも
銘:勢州亀山     作:国友正栄 城主:松平乗邑
銘:勢州亀山     作:国友貞栄 城主:松平乗邑
銘:城州淀(京都府) 作:国友貞栄 城主:松平乗邑
銘:総州佐倉(千葉県)作:国友命明 城主:松平乗邑
                   及び松平乗祐
銘:羽州山形(山形県)作:国友正命 城主:松平乗祐
銘:三州西尾(愛知県)作:国友正命 城主:松平乗祐
銘:三州西尾     作:国友正幸 城主:松平乗祐
銘:三州西尾     作:国友重貞
銘:三州西尾     作:国友正重          


参孝文献: 宇田川武久「鉄砲伝来」 飯田一雄「鍔刀装具100選」
      小笠原信夫「鍔」

 
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