東海道の昔の話(169
     陶芸家、高橋道八の話        愛知厚顔  2009/12/4 投稿
 

私は亀山藩士、高橋八郎太夫の次男として、元文四年(1740)に備中で生まれました。
名前を高橋周平光重と申します。重く光れとの願いは、父がよくも付けた名だと思います。四歳のころ藩主の石川主殿守総慶さまが備中松山から伊勢亀山に移封となり、家臣と家族の約三千人も亀山の地へ移動になりました。徒士並侍待遇の父も藩主に従って移りました。亀山の家は長屋で南野にありました。南野は台地の上にあり、南方の崖の向こうには大きな鈴鹿川が流れ、その先には田圃が広がっていました。近くには鬱蒼とした林に囲まれた大きな寺があり、子供たちの恰好な遊び場になっていました。また西には仙ケ岳や野登山の峰峰が屹立し、子供心にも美しい自然に囲まれ、素晴らしい環境だったと思っています。
 
 我が家は裕福ではないが極端に貧乏でもなく、ほどほどの生活でした。我が家は両親と兄が一人と弟、下働きの老婆がいました。この南野の長屋は十九棟ほど。同じような下級の徒士侍が住んでいて、どの家にも同じ年ごろの遊び仲間がいました。藩の重役たちは西丸、東丸、東台、江ケ室などに屋敷を構えており、その一家や子供たちとは殆ど行き来がありません。
 やがて兄が元服をむかえます。そして大人になると父は引退し、兄が父の跡を継いでお城勤めをする。そんな約束が出来上がっています。しかし居候の次男の私には満足な養子の口もない。かと云ってこのまま家にも居られず、自分の生き様は自分で見つける…。それが当時の二男三男の宿命でした。

 寛延四年(1752)十一才のころ、幕府から藩に命令がくだりました。
  『近江守山宿にて朝鮮通信史の接待と案内をすべし』
 亀山藩にとっては驚天動地の出来事です。この通信使接待ほど冗費を強いるももはありません。
京都〜江戸間の往来だけでも、一行は三百人以上と津島の宗家の従属士卒が同数です。これだけで千石以上の米穀を消耗します。通信使は文人もいて道中ではゆっくり滞在して詩を詠む。実にのんびりした行程です。父もこのとき接待役の一員として近江守山宿へ出張りました。この接待案内の諸藩は莫大な費用の負担です。このときを境に藩の財政はますます逼迫し、父の扶持も減らされ一家も経済も逼迫していきます。こんな大変な状況をもたらす通信使接待、それが私が亀山を去ったあと、明和元年の朝鮮通信使の接待も仰せ付けられたのです。ただでさえ財政が逼迫している藩、とうとうこれが引き金になり、過酷な税の負担を農民に強いたのですから、明和五年(1768)の農民一揆を招いたのも納得できます。
 そんなとき東海道を江戸へくだる旅人から京の話を聞きました。
 『京都では焼き物作りが盛んだ。作陶はこれからもっと盛んになるだろう』
どの旅人も異口同音です。それを聞き
 『自分も京都で陶器作りをしよう』
と決めたのです。

 私が亀山を出て京都に出たのは宝暦のはじめでした。
京都の陶器は天平年間(729〜49)に僧、行基が東山の清閑寺に窯を築いたのが始まりです。江戸時代の始め本格的な陶器作りとなり、まず三文屋九右衛門が粟田口に窯を作り、「粟田口焼」を創始しました。彼の三人の子、庄左衛門と助左衛門、徳右衛門らが引き継ぐ。その後、東山一帯の音羽、清閑寺、清水などに築かれた窯が「清水焼」の起源です。
 粟田口の窯にはじまる焼き物。こちらは金森宗和(1584〜1656)の指導のもと、御室仁和寺前で窯を開いた野々村仁斎によって大きく開花しました。彼は先進地の尾張瀬戸で茶器制作の伝統技法や陶法を学び、京に帰るとそれを発展させ独自の色絵陶器を完成したのです。
 のち宝永年間(1624〜44)に入ると、赤褐色の絵が多かった初期の「清水焼」、「音羽焼」などは、仁清風を学んで華やかな色絵となります。これがのちに「古清水」呼ばれるものです。それまで大名や有名寺社など、富裕層に買い取られていた粟田口焼などの京都の焼き物。それがだんだんと一般庶民の間にも広がります。それが万治(1658〜61)から勃興してきた「町売り」です。

 やがてあの尾形乾山(1663〜1743)が出現。彼と兄の尾形光琳によって京都の焼き物は絶頂期をむかえます。尾形乾山は窯を二条丁字屋町に設け、焼き物商売をしました。斬新なデザインの食器類は「乾山焼」として世上に持てはやされました。けれどこの乾山焼も一般大衆庶民のものでなく、公家や豪商の間での商売でした。私が京都へ出たころはこの「町売り」がようやく盛んになるころ、主流になりつつあるころです。粟田口や清水坂、五条坂付近の町内では、ほとんどの者が陶業に関わるようになり、陶工たちが「焼屋中」という団体を組織し、本格的な量産体制に入ろうとする時代でした。

 京都へ出たあと、五条坂や粟田口で本格的な陶器作りの技法を学ぶ修業に入りました。この時代ほど自分の才能の無さ、無為に過ごした時間を呪ってことはありません。工房では薪割り庭掃除など下働きからスタート。来る日も来る日も作陶などさせてくれません。
 熟練した先輩の陶工や親方の技法をじっと見て覚えます。焼き物の工程は採土→乾燥→粉砕→飾通→調合→成土→貯蔵→成形と続き、ここで初めて手作り、ロクロ、型作り、鋳込みをします。そして次の加工で自掛け、刷毛目、象嵌、掻落とし、櫛目、蝋抜き、彫刻と、手の込む工程。つぎは初めて素焼に入り七百度〜九百度で焼く。つぎは施薬→上絵付と本焼きは陶器と磁器で焼く温度も千二百度と千三百度と異なります。こんな複雑な工程を経てようやく完成するのです。そんな苦しい修業の歳月が続いたあと、だんだんと焼き物技法を学びとり、陶工仲間にも名前が知られてくる。こうしてようやく独立して私も念願の窯を粟田口に開くことが出来ました。宝暦十三年(1763)のことでした。

 私が窯を開いたころの粟田口、隣近所はほとんど陶業でした。当時の粟田口東町家屋敷三十六軒のうち、陶業に従事するもの廿一人もいました。やがて長年の研究苦労がぼつぼつ認められます。焼いたものもだんだんと売れていきました。号も松風亭空中を名乗りました。作品も茶器、酒器、花瓶の類、香炉などの家具装飾類でしたが、もっとも得意としたのが煎茶器です。このころ煎茶興隆期にあたり、沢山の人々が煎茶道具を求めていました。私の評価が高まり知識文化人も出入りして頂くようになります。あの文人画の大家、池大雅からは余技として南画も習いました。あるとき東山麓の庵で仲間と富士山の話をしていて盛り上がり、
 『ならば登ろうではないか』
と、池大雅はいきなり旅支度をして富士山に赴き、旅めぐりを一ヶ月以上もかけて帰ってきました。人々はこれを知って
 『これこそ雅談だ』
と称えたものでした。

 また名作「雨月物語」の作者、上田秋成は煎茶道の宗匠と呼ばれており、私の焼いた茶器に深い理解を頂戴しました。
 茶売翁はもと肥前の名刹、竜津寺の住職でしたが、五十七才のとき肥前を出て京都に入った。元の名は月海昭元(1675〜1763)。のちに煎茶道の始祖と呼ばれますが、私が知り合ったころは路頭で一杯半の煎茶を売っていました。
彼は
 『ただ心静かなるを得れば随所に楽なり。朝市と雲山とを論ず』
心にゆとりがあれば、雑踏でも寺院でも同じように悟りは得られる。
 『要は心の持ちようだ。一杯の煎茶をすするとき、その何とも云えない静かな心境。
  そこにも禅の境地がある』
彼の言葉に私はいつも感心しました。
 
 幸いにも私は後継者に恵まれました。二男の光時とその下の三男、光吉(のち尾形周平)、この二人が幼少のころから親の焼き物作りに非常に興味をしめし、いつも窯に出入りしていました。成人前にも陶工としてはかなりの技法を身につけたようです。ある日、光時が親の私に
 『焼き物を本格的にやりたい、ぜひ弟子として教えてほしい』
と云います。私は内心うれしくなりましたが顔には出さず
 『それではつい親子の情が入って気持ちが緩む。一度は他人の所で修業しなさい』
と諭し、友人の奥田頴川に頼み込んで弟子入りさせたのです。一緒に弟と青木木米も入門しました。
 生まれつきの天性と焼き物好きという組み合わせが良かったのか、親の贔屓目を差し引いても、かなりの天分に恵まれた素質があったようです。彼の廻りの友人も和気亀亭、清水七兵衛、清水六兵衛、清風与平、間清水蔵六。磁器では乾山伝七、丸屋佐兵衛、亀屋文平など。当時の新進気鋭の陶芸家が互いに競い合って技を磨いていました。

 後継者が育ってくれたし作品の評価も高い。だが焼き物には終わりはありません。一生が修業の連続です。まだまだ作陶を続けたい。そんな願いを持って頑張っていても、老いには勝てません。
 文化元年(1804)四月廿六日、初代、高橋道八こと私は永眠しました。亀山を出てから幾星霜、窯を開いてから41年も経っていました。
 墓は息子の仁阿彌道八の墓ともども、京都市下京区高倉通五条下ル堺町の宗仙寺にあります。

◎初代高橋道八は元文四年出生説と寛延元年出生説がありますが、ここでは元文四年説
   としました。
   
 現在、亀山市指定文化財があります。
     @初代道八左馬之図朱茶碗    個人

初代道八作 初代道八作2
粟田焼発祥地 初代高橋道八生誕の地

                                                     A初代高橋道八宅跡  亀山市南野町
 (終り)

参考文献: 日本書画骨董大辞典(歴史図書社)、陶器作り方事典(光芸出版)、
      書画骨董人名大辞典(常石英明著、金国社)、 鈴鹿郡野史    

 
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