東海道の昔の話(170
     陶芸家、仁阿彌道八の話    愛知厚顔  2009/12/4 投稿
 


 私は初代、高橋道八の二男として天明二年(1782)に生まれました。
名を光時といいます。幼少のころから周囲はすべて陶器作り家ばかり、友だちも親たちも皆この仕事に従事する人ばかりでした。そんな環境に育っていると、焼き物は見るのもイヤという気持ち、これは面白いやって見るか…という気持ち。この二つに別れるようです。上の兄は焼き物の世界を徹底して嫌います。私と弟は子供のころから窯に出入りし、親や陶工の仕事を見よう見まねで手伝いました。そんなことから焼き物が生涯の伴侶になりました。それも父が伊勢亀山を出て京に出、大変な修業の末いまの作陶技法を確立した。これを初代の一代だけで終わらせない。父を尊敬する思いもあったのでしょう。

 弟や青木木米らと奥田頴川先生に入門修業し、また実家の隣家にいた齊山文造先生の指導も受けました。そんなとき文化元年(1804)父が亡くなります。修業途中の私にとって大きな痛手です。もう焼き物の道は止めようかとも思いましたが、生前の父の焼き物に対する情熱と執念を思い、友人やお得意さまの暖かい励ましで立ち直りました。そしてだんだんと私の作品も認められます。号は松風亭、華中亭、法螺山人です。当時私は中国の陶磁器に傾倒し研究をしており、その流れの中で「華中亭」としたのです。中国の古陶器類だけでなく、我が国の古陶器も楽旦入、永楽保全、了全らの若い仲間と熱心に研究したものです。
 文化五年(1810)粟田口の家をたたみ、京都五条坂に移りました。心のどこかに
 『早く父を越えて一人前になりたい』
そんな気持ちがあったのは間違いありません。そして白磁、青華、磁器にわたり、作品も花瓶、香炉などの家具装飾品類です。また琳派の画風「雲錦手」や、人物、動物を写実的に模した彫塑も試みました。得意として多かったのはやはり煎茶器、酒器類です。

 文政七年(1824)には西本願寺の本如上人からお声がかかり、焼き物作りの指導をさせて頂きました。これが「露山焼」を開窯するきっかけとなりました。こんなことが世間の話題となり、評判が高まったようです。文政八年(1825)には仁和寺宮さまから、もったいなくも法橋と「仁」の一字を許されました。また同時に醍醐三宝院さまからも「阿彌」の号を授与されました。このとき正直いって
 『これでようやく父と並んだ』
と内心は思いましたが、いつも父が私に教えてくれた言葉
 『焼き物作りに終わりはない。慢心することなく一生修業に励め』
を遺言と思い、なおいっそう努力を重ねると誓ったのでした。それからは人々は私を「仁阿彌道八」と呼ぶようになり、高橋道八の息子と知らない人も出るようになりました。

 文政十年(1827)には紀州徳川家からお声をたまわり、弟の尾形周平、楽旦入、永楽保全、了全ら仲間と一緒に紀伊へ赴きました。そこで「お庭焼」や偕楽園内に窯を築き、焼き物の指導をさせて頂きました。これが「偕楽園焼」の始まりです。これが成功すると間もなく、薩摩の殿様からお声がかかり、文政十一年(1828)に薩摩へ出張しました。そしてかの地の陶芸家、重久元阿彌らに京の技法の金焼付けなど教えました。煎茶道が隆盛期をむかえ、公家や豪商たちから武士や庶民の間にも広がります。それにつれて茶器、花器の需要も増えます。地方の大名や有力者たちも自力で焼き物を始めます。天保三年(1831)になると、今度は四国高松城主の松平頼恕候から、
 『ぜひ当地で窯の指導をお願いしたい』
と招かれました。私も老境に入り体力も衰えはじめていましたが、仲間とともに讃岐に赴きました。それが「讃窯」と称される作品を産むことになります。ほかにも嵯峨角倉家「一万堂焼」も協力しました。

 天保十二年(1841)、私は隠居する決心をしました。息子は光英道三と云い、のちに号を華中亭、法橘道八で知られます。そして道八の名跡を息子に譲り終えると、すぐに京都桃山に移りました。隠居してもただ無為に遊んでいるわけではありません。初代道八の教えに従って生涯修業を貫く。このため桃山でもすぐに築窯しました。幸いにも桃山では各種の彩料を用い、釉上薬下に浅深のぼかしと抜き画を出すことに成功しました。これに世間の皆様から
 『これはまことに比類のないものだ』
と絶賛され珍重されました。まことに身に余る評価を頂いたと恐れ入るばかりです。このあとも京都「岡崎焼」に参画しました。嬉しいことは重なるもの、弘化元年(1844)二月には、のちに四代目になる孫の光頼の誕生がありました。

 まだまだ元気でがんばれる、そう思って作陶に励む日々でしたが、やはり人生の終末は必ずやってきます。安政二年(1855)五月廿六日、私にもお迎えがやってきました。七十三歳でした。
 高橋道八の名跡は三代、光英(ミチフサ)道三の号、華中亭、法橘道八。この三代目は明治を迎え九州鍋島藩から招かれ、肥前有田に赴いて京窯を築き彩画の技法を伝授。この縁で道八家で使用する陶土は肥前や天草ものも使用しています。青磁、雲鶴、三島、刷毛目が得意。青花白抜き画の釉の上下に濃淡のボカシを出す技法を発明しました。四代目の光頼からは代々の号を華中亭を名乗っています。彼も青花磁、彫刻、白磁が得意。京都府勧業場の御用掛でした。五代目の雄之助は明治二十六年シカゴ万博に出品して顕彰されました。あと六代、七代と続き、いま八代目道八は光春ですが、昭和五十八年に八代目道八を襲名、現代の名陶芸家として高い評価を得ているようです。

 最後に私の弟、尾形周平ですが、幼名を熊蔵、名を光吉といいます。彼も奥川頴川先生に入門して修業し、 のちに私の元でも若干の修業に励みました。その後、独立して尊敬する尾形乾山先生にあやかり、尾形の姓を名乗りました。青華、色絵、青磁を得意とし、煎茶器の特に急須や湯飲み茶碗に名品を残しています。彼もまた文政年間に淡路の賀集a平を指導し、「a平焼」の創始を手伝いました。ほかにも京都島木町の「国焼」では清水寛造に教えたり、紀州徳川候の招きによる「偕楽園焼」創始には私と一緒に参加しました。 こうして初代から高橋道八の作陶の系統が絶えることなく、平成の今日まで続いてこられたのは、ひとえに皆さまのご支援とご協力あってのことです。今後とも慢心することなく、修業に励むよう心がけるよう、代々の子孫にも申し伝えてまいる所存でございます。

 ながい間、私の話をお聞きくださり、まことに有り難うございました。
 
亀山市にある指定文化財につぎのものがあります。
   @仁阿彌道八藍染付山水之図耳付置花入    個人
   A仁阿彌道八布袋炉蓋            個人
   B仁阿彌道八藤崩透蓋手焙          個人
   C仁阿彌道八自蔵主炉蓋           個人
   D仁阿彌道八茶釉松尽長耳付         個人
   E仁阿彌道八青花白磁梅花之図耳付置花入   個人
   F三代道八茶釉寿老人摘蓋香炉        個人
仁阿彌道八宅跡

仁阿弥道八作品(東京国立博物館蔵) 仁阿弥道八作(文化庁所蔵) 仁阿弥道八作(京都国立博物館蔵)

       (終り)

参考文献:  日本書画骨董大辞典(歴史図書社s54)
       陶器作り方事典  (光芸出版s57)
       書画骨董人名大辞典(常石英明編、金国社s50)
       粟田焼(粟田焼保存研究会) 
       三重県指定文化財、鈴鹿郡史 

 
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