東海道の昔の話(176-2
 地誌に記された仙鶏の山域(2) 愛知厚顔  2012/6/13 投稿
 
【仙ケ岳の周辺】
 仙ケ岳965mは亀山市の最高峰である。鎌ケ岳の山頂から見るとすぐ隣の仙ノ石峰と見事な双耳峰である。

 「是ヨリ一里半山中ニ仙ケ嶽ト云アリ仙朝上人人定入石高三丈余面七尺余ノ磐石ナリ此磐下ニ入定シテ寂スト云」
 野登山から仙鶏尾根を西へたどると仙ノ石につく。この大きな石の下に仙朝上人が入寂されていると伝承がある。
                    寛永年間に成立した野登寺の「野登寺縁起」は伝える。
 「いつのころか、人々はこの石を金石と呼ぶようになった。戦国乱世の時代、近江側の村人たちが、このことを聞いて数十人がかりで山に登り、石の横脇の方をニ尺ばかり削り取って自分たちの村へ持ちかえろうとした。尾根を越え谷を渡って重い石を担いでいったところ、思ったよりくたびれてしまった。
草むらに何度となく腰を下ろし、痛んだ肩をさすり、足腰をもみほぐす始末。食欲もほとんどなくなり、へとへとになって村に帰りついた。やれやれホッとしたのを幸い、石を戸外に放り出したまま、各々の家に引き上げたところ、その夜になってかの石は光を発しその明かりは真昼のように輝いて、近隣の村々まで照らすほどであった。それを見た村人は大いに恐れおののいて、まんじりともせず朝を迎えると、早々に元の場所に戻してしまった。切り取った跡の石も、いま厳然としてかの石の上にある。」

 山の上の大岩が光を放って四方を明るく照らすという話は全国各地にあるが、崇高で偉大な自然に対する人々の尊敬、それは山に宿り自然をコントロールする神への畏敬につながる。山の恵みに頼った農耕の民の自然の成り行きでもある。 仙の石の伝承は戦国時代なので比較的新しいが、成立したのはもっと古い時代と想像される。しかもあまりよい話ではないので、石を削り取ったのは山向こうの近江側の村としているのが面白い。  

        【矢原川滝谷周辺】
 仙ケ岳には照空上人が刻んだ仏像が沢山存在する。なかでも矢原川滝谷本谷には法印のコバ、定穴、滝谷不動尊などが集中しているが、これはたぶん修験者の修行のためあえて険しい滝谷を選んだと想像している。
 いまも沢沿いに古い道跡が残っているが、一部は崩壊しているので安易に歩くのは困難である。だが沢登りの登山者は忠実に沢芯を遡行して楽しむ。この谷は鈴鹿山系第一の下不動滝100mがあり、雨季には亀山の北山や亀山公園からも白い滝身が肉眼で見える。上不動滝40mは豪壮で美しい。滝の両側に不動明王を安置したと思われる小さな穴があいている。

          〔下不動滝100m〕                 〔上不動滝40m〕

 上不動滝の上方右岸には小さな広場があるが、これは照空上人が桑名から連れてきた石工が寝泊りした場所である。いま石仏が数体並んでいる。ここは「法印のコバ」と呼ばれている。ここから尾根へ登りクサリ場を過ぎると花崗岩を彫った不動明王像が東向きに安置されている。その上部には大日、不動、地蔵の3体の石仏が並んで仙ノ石の方角を向いている。石仏の背後の突き出した岩の上は丸く、一人が座禅を組めるよう適当な大きさである。
 岩から見下ろす景色は最高だ。照空上人はじめ野登寺関係の僧侶、修験者たちはたぶんこの岩で座禅を組んだのだろう。 法印のコバから矢原川右岸を高巻いて下る道は坂本からくる古道だが、ところどころ崩れているので注意がいる。すぐ上不動滝へ下る道があり、これをくだっていくと下不動滝も一部見える。道は枝谷をいくつか渡っている。
しばらくして小さな鞍部を越え尾根を右にとると「定穴」がある。岩穴に錫をもった行者像が安置されている。







 

   

                                    【滝谷不動】





                         

 


                                   【法印コバ】


                 

仙の石からいったん鞍部にくだり登り返すと仙ケ岳の山頂である。野登山の展望もよいが、仙ケ岳の眺望は実に すばらしい。身体の疲れも一気に吹き飛んでしまう。
この山は野登山の奥駆コースとされていたと思われる。
三国地誌では「仙家岳は鶏足山の背に続く。甚幽陰の地なり俗奥院と称す。開山仙朝上人定の処とす」
仙ケ岳の双耳峰は北と南から遠望すると、はっきり特徴がわかる。入道ケ岳からみると一段とはっきりする。

 

    【仙ケ岳山頂】      また仙ケ岳の山稜は狭く痩せていて高度感も充分ある。まさしく修験道の荘厳な舞台として奥の院としてふさわしい峰であり、天と地のまじわるところ、天宙に舞い登らんとする場所なのである。                               
                         
    【石水渓と安楽越え】
 いま安楽川沿いに車道が通じ、それが東海自然歩道になっている。池山から望仙荘の前を過ぎキャンプ場を過ぎると、渓谷は白い花崗岩に青い淵と水がほとばしる。豪壮な景観は深山幽谷のおもむきを備える。岸辺には二次林が濃い緑の影を作り、カサコソと木の実を求めるリス、春にはピンクのシャクナゲの花、透きとおる空と燃えるような紅葉。いまはアスファルト道なので面白くもないが、私が知っている安楽古道は実に素晴らしい道だった。
最近、地元の人が熱心に古道の復元活動に取りくみ、安楽越までなんとか歩けるようになっている。

 天正11年(1583)、羽柴秀吉は伊勢国司だった滝川一益を撃つため、3万5千の兵を指揮して安楽越から伊勢国へ攻め込んだ。迎え撃つ滝川勢は平野での戦が不利とみて、鈴鹿の山の険しい地形を利用した決戦体制をとった。
滝川勢は安楽川渓谷を挟んで鬼ケ牙、そしてすぐ前の岩山に逆落としの柵を造り、大石、丸太、ヤグラを設けて待ち受ける。攻める側は大軍でしかも武器、兵糧、鎧兜に身を固めた軍馬。しかも土地不案内ときている。
 悪いことに渓谷の滝や淵沿いでは、道巾も馬の爪がやっとかかる狭さである。ここを雑兵が馬の轡をとってソロソロと先導して渡り、もう一人が馬の尻尾をもって押して渡ろうとしたが、馬は尻りごみして渡ろうとしない。それを見た滝川勢はいっせいに弓矢を射掛け、大石や丸太をゴロゴと崖の上から投げ落とす。これで多くの兵や馬が犠牲になった。そんな攻撃を何度も繰り返したが、犠牲者が増えるばかりである。
 『何かよい方法はないものか…』
秀吉も困ってしまった。そこで呼び出されたのが土地の若者だった。若者は意見を求められると即座に答えた。
 『そんなの簡単です。私のやるとおりにすればこんな道は通れます』
若者は一人だけで長い紐を結んで馬の轡をとり、ハイハイ、ドウドウと、掛け声をかけながら難なく険しい場所を通貨してしまった。これを見た他の雑兵も一人だけで声をかけ、ハイドウ、ハイドウとつぎつぎに渡ったのである。なまじ人間は頭がよすぎるばかりに、余分なおせっかいをしていたわけであり、馬は馬なりの本能を信じてやればよいということだった。
 この難所も「駒おとし」と呼ばれていたが、だんだんと忘れ去られてしまった。おそらく鬼ケ牙の壮絶な岩場を見上げる三ツ淵のあたりだろう。滝川勢が櫓を組んで待ち受けたのも鬼ケ牙の岩場と思う。いまは太閤の腰掛岩だけが当時を偲ばせるのみである。

                                   【石水渓の三ツ淵】

        【鬼ケ牙】                【太閤腰掛石】


 ほかにも雨引山、明星ケ岳、三子山、関、坂下の界隈についても知りたいことが多いが、なにぶんにも高齢のため体力が衰えてしまい、自由に山を歩けなくなったのが残念でならない。
 
     【参考資料】
            
     @  勢陽五鈴遺響     安岡親毅    天保5年
     A  三国地誌       藤堂元甫    宝暦10年
     B  勢陽雑記       山中為綱    明暦2年
     C  鈴鹿郡郷土史     鈴鹿郡教育会  大正4年
     D  パンフレット「かめやま」 亀山市商工観光課 平成元年
     E  亀山地方郷土史    山田大水    昭和45年
     F  鈴鹿第13号     亀山高校郷土史部会 昭和33年
     G  野登寺縁起      野登寺伝    寛永年間
     H  布留屋双紙      古屋久語    寛政2年
     I  日本合戦譚      菊池 寛    昭和14年
     J  鈴鹿の山と谷第5巻  西尾寿一    平成元年 
     K  1/2万5千分地形図  国土地理院   平成20年度改定版   

                          
                       〔2012年6月12日 脱稿〕

 
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