東海道の昔の話(177
  伊藤百川を語る会               愛知厚顔  2012/6/19 投稿
   世の中には実に不思議な縁で結ばれた話がある。
亀山市亀田町出身の日本画家、伊藤百川がそれだった。2012年5月に私の所属する名古屋の山岳会で写真と絵画展があった。作品搬入のとき旧知のT、Aさんが
 『私は子供のころから絵を描くのが好きでしたが、いつか母方の伯母が我が家の系統では貴女だけが絵を描くけど、これは亀山の亀田の画家、伊藤百川の血を引いているのかもしれないね…と言ったのを覚えてます。貴方は亀山のこと詳しいから、この百川さんのこと教えてもらえません?』
 たしかに私は子供のころ亀山に住んだことがあり、亀田の花火屋の息子とは大の仲良しだった。
だが絵の世界はまったく素人で判らない。知らないと答えるのは簡単だが、このT、Aさんは日本や外国の山などの美しい風景を多く描いており、昨年は豊田市美術館でのGAM展で外務大臣賞、また東京新国立美術館でのアジア創造美術展では優秀賞を受賞した新進の女流画家である。
彼女の頼みを無下には断れない。困ったと思ったが運よく“ネット「きらめき亀山21」でお世話頂いているI.Kさん、たしか彼は亀田の人だ”と思い出した。さっそくI.Kさんに聞いてみるとすぐに返事があった。
 『その人の名前は聞いたことがありますが、もう少し詳しく調べますから時間ください』
 これで少し燭光が見えた。そこでつぎは江ケ室の郷土史研究家Y.A先生にもお尋ねした。
先生は亀山市芸術文化協会に郷土歴史の研究成果を発表されおられる方、先生からも
 『亀山西小学校125年史の作成に関わったことがあり、思い出しました。明治
  38年から当時の亀山高等小学校図画科で教鞭をとった佐久間準三先生の師が
  伊藤百川です。ここまでは判りますが、この先はわかりません』
数日して「きらめき亀山21」の.I.Kさんから電話があり
 『我が家の家系戸籍謄本を調べたところ、伊藤百川は私の曽祖父でした。私は曾孫にあたります。また我が家にも百川の掛け軸がありました』

 なんとみじかな人が百川につながるとは…、だんだん百川の人となりが判明した。もうひとり歴史博物館の学芸員K、Hさんにも聞いてみると、
 『平成19年8月1日の広報かめやま号に“伊藤百川と田中玉園”で掲載されてます』
さっそく亀山市広報誌をみると、つぎの記事があった。
 “…伊藤百川。 伊藤家は江戸時代、武士の家であり、百川で6代目、現在の当主で8代目となる。百川の本名は武一で慶応元年(1865)生まれ、昭和24年(1949)84才で亡くなる。
  若いころから絵を描き、京都の日本画家、今尾景年に師事した。彼の作品は植物や動物が描かれたものが多い。晩年には「日の出」の画を多く残した。何度も失敗してやっと作品が出来上がったとき、彼は子息に“とうとう日の出ができた”と喜んだそうである。  
   田中玉園。 本名を志げといい、明治44年に父、武一(百川)の娘として亀田村で生まれ、平成12年に89才で亡くなられた。15才のころあの上村松園に師事、ただ1人の女弟子として絵の修行をした。昭和50年ごろ亀山に帰り、少女、婦人像など美人画を描く。晩年まで作品に情熱を傾け意欲を注いだ…“
 戸籍系譜によると、亀田村五十番屋敷に百川(伊藤武一)、こま夫妻が住み、3男の義一郎、ぬい夫妻の4男の巌さんがI.Kさんの御父上にあたる。まさに正真正銘の曽祖父と曾孫の関係である。
 また祖父、義一郎の次男、覚が従兄弟のI、Mさんの父であり、この人が百川作品を多数所蔵しているとのこと。

私の知人女流画家Tさん家にある戸籍系譜をみると、母さか枝の母親の父すなわちT.Aさんの祖父が伊藤喜八郎さん。その父、正雄も改名して喜八郎、その父は亀田五十番屋敷に住む伊藤喜代松と判明したが、伊藤百川との接点は調べても判らなかった。
こんなやりとりをしているとき、ふっと思い出した。25年前に亡くなった母親が
 “我が家にも亀田の有名な絵かきに描いてもらった掛け軸がある”
 と云っていたことを…。そうだ数年前にそれを天井裏で見つけたが、古い新聞紙に包まれた2本の軸、あまりにも古ぼけていたので捨てるつもりだったが、思い直して保存してあった。
 70年ぶりに天井裏から取り出し広げてみると、1本は紅葉の絵、もう1本は枯れ枝に鳥が止まった図柄である。そして落款はまさに百川であった。そのことをI.Kさんに伝えると、
 『これを機に百川の画を眺めて語る会を開きましょう』
すぐに日程や会場を決め、出席して頂ける方々に連絡をとってしまった。
 その記念すべき日は6月12日。

うっとうしい梅雨空、人々は亀山市市民協働センターに集まった。午後1時半からの出席者は亀田の側がI、Kさん。従兄弟のI.Mさん、それに亀田のI.Mさんと奥様。
 愛知県側が私とT.Aさん。それに亀山市郷土歴史研究家のY.A先生。
 高名な日本画家のM.K先生、この先生に画を習っているMさんとFさん。  合計10名、自己紹介からすぐT.Aさんとの母方の血筋、そして百川との接点を地元亀田の方々の話や謄本を検討していった。

 結局、T.Aさんの母方と百川とのつながり、これは不明で今後の課題となった。
この日、I.Mさん所蔵の掛け軸8本、I.Kさんが1本、そして私の2本を吊り下げ、全員で鑑賞した。素人の私が見てもどれもが繊細な筆致と色彩と力の入った作品に思われた。
 わざわざご出席を給った高名な画家、M.K先生、この先生は鶏足山荘を標榜され、地元の亀山市や四日市、名古屋などに絵画教室を開いておられる。いま名古屋市内の寺院に金箔蓮壁画の大修理をされている。
 『和紙にこの繊細な筆使いで一気に描き上げる技量は大したものです。私にはこうは
  描けません』
高名な先生がおっしゃる話…。それにも大変驚いた。先生は言葉を継ぎ
 『百川の師匠が今尾景年とありますが、この師匠の名前を知るといっそう画の価値が
  上がります』
 そこでこの師を調べると
 “今尾景年(1845〜1924)、明治大正期の日本画家。鈴木百年に入門し修行。明治前期の京都画壇での実力者。明治37年、帝室美術館技芸員。大正8年には帝国美術員会員となる。明治26年のシカゴ万博では名誉賞杯を受賞、33年のパリ万博では銀杯、37年セントルイス万博では金杯に輝いた。精緻で写実的な花鳥画は海外でも高い評価を得ている“
 これを知って弟子の百川の作品を見直すと、どれも精緻で写実的であり、色調もすばらしい。
これは我が家の家宝になるぞ!。すぐに下司な考えが浮かぶ。一緒に持参した百川の書と我が家に言い伝わる書の掛け軸、これもM.K先生の鑑定では別人の筆跡だろうとのことだった。
 そして私が持参した4本の最後の掛け軸は大正12年の日付と竹浦の落款がある。
 『この時代に亀山に竹浦の号の日本画家がいたか知りませんが、芸濃町に谷口竹浦
  という画家がいたと聞いてます。だけど、どんな画家か判りません』

 あとで家に帰って調べてみると、この掛け軸を収集した私の父は大正12年ごろ、大分県大分市の職場で働いている。ひよっとすると大分の画家かもしれないと思いネットで検索すると、
  “佐久間竹浦、本名は資夫、号は竹浦、ほかに菌浦、五谿の号、明治9年に大分竹田町に生まれ大正14年没。幼くして父と死に別れたが、父の遺産が豊かだったので大切に育てられた。
5〜6才のときから画をはじめ、9才で元岡藩絵師の川合石舟に師事、後に京都の田能村直八や竹邨に南画を学ぶ。同門に草刈椎谷がいた。小学校時代に滝廉太郎と親友だった。我が家の竹浦作品をよく見ると南画である。どうも佐久間竹浦らしい。私は自分勝手に決め付けて断定した。
 またM.K先生は関宿の著名な西村観山先生の第一弟子とのこと、不思議なことに私はこの西村先生と言葉を交わしたことがある。それは20年ほど前、関の筆捨山、観音山、関富士、羽黒山などに登り、JR関駅に戻ったとき、羽黒山のゴツゴツした大岩の画を描いた作品、それを駅の壁にご自身で飾っておられたのだ。画に描かれた岩の名前をこの先生に聞いたのを思い出し、M.K先生に尋ねると、
 『それは西村先生に間違いないでしょう』
とのことだった。

 伊藤百川の話から懐かしい亀田や羽若のこと、亀山中学や小学校のこと、そして亀田から参加されたI.Mさんご夫妻、この方が私やT.Aさんと同じNTTに在職したこともあり、その話にも花が咲いた。従兄弟のI.Mさんは“近いうちに画をはじめたい”と云っておられた。
 どんどん時間も過ぎてゆく。まだまだ話は尽きなかったが、はじめての伊藤百川を語る会は賑やかに終了したのであった。

 

 
  【後日談】                           愛知厚顔  2012/7/13 投稿 

 伊藤百川を語る会、その後6月12日、亀山市市民協働センターで開催された「百川を語る会」では、名古屋在住の新進画家T,Aさん、「きらめき亀山21」主宰されているI,Kさん、そして従兄弟のI,Mさん。これらの方々が伊藤百川、田中玉園親子の画家に、お互いに不思議な縁で結ばれていた事実。そして我が家の屋根裏から発見した2本の百川の掛け軸。つぎからつぎへと新事実が出てきて驚いたのだが、その後T,Aさんからまたも新しい事実が判明したとの報せがあった。
以下にT,Aさんからの手紙を紹介する。
「6月17日、I,Kさんにお願いして亀山市役所に出向き戸籍謄本を取って頂きました。
 その結果、私と伊藤百川への系統が判明しました。

その後、7月8日には亀山のI,Mさん宅にお邪魔して百川の絵を2本お譲りして頂きました。
またそのとき奥様のI,Tさんと私が鈴鹿市国府小学校の同級生だったことが判明したのです。
主人も驚いていました。I,Mさん宅で古い写真をカメラで撮影させてもらい、家に帰ってから拡大コピーして眺めています。たった一枚、三年生の終わりに担任の先生に写して頂いたのです。
二人の同級生の名前を覚えていたのが幸いでした。平井いせ子先生にはお目に掛かってお礼を申し上げたい気持ちです。 
 今回、不思議な縁で伊藤百川にたどりつくまで、ただただ驚きの連続でした。皆様のご協力に感謝申し上げます。ありがとうございました。

    7月11日                    T,A 拝  
 
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