東海道の昔の話(178
  亀山あるこうかい 加佐登白鳥塚〜能褒野陵  
                                                     
愛知厚顔  2012/6/19 投稿
   2012年6月17日、[亀山あるこうかい]がJR加佐登駅から白鳥塚、荒神山そして
能褒野陵をウオークするという。このルートは古代の英雄ヤマトタケルゆかりの史跡に満ちている。主宰者からアドバイザーを依頼されたのを幸い、自分でも楽しみたいと期待をして参加した。心配された雨も朝起きると上がっている。これは有難い。
 午前10時、JR加佐登駅前に続々と集合した人々、なんと約70名大勢である。
これでは持参したメガホンが小さくて役に立たない。主宰側の大きなメガホンが頼りとなる。時間どおり出発、坂を登って近くの高台に移動する。ここからは鈴鹿市の大半が見渡せる。ここは鈴鹿川の河川段丘の上になる。

 『伊勢平野の特徴は鈴鹿川、安楽川、椋川、朝明川などの河川が数百万年の年月を
  かけ、一雨ごとに台地を削り取って出来たのです』
関、亀山はもちろん、この鈴鹿市流域でも丘と川の流域との間は断崖がある。どんな小さな支流も川面との間は断崖になっている。また目前の鈴鹿川のむこう、大きな工場群が見えるところは戦時中は海軍工廠だった。 全国から1万人が勤労動員され、内2千人は学生。工廠の敷地は約3.6km平方あり、工作機械が2000台、月産460万発の機関銃薬莢を生産していた。戦争が激しくなると疎開が盛ん、亀山中学校でも3年生以上の教室の床板を剥がし、旋盤、ボール盤、フライス盤など機械を取り付けた。そして半数の生徒の授業は午前中だけで午後は武器の生産をする。残り半数の生徒は午前に生産、午後は授業と交代して受けていた。

 三河の豊川海軍工廠は米軍機の爆撃を受け、犠牲者を多数出したが、幸いにも鈴鹿海軍工廠は大きな被害はなかった。亀山神社の裏に私たちが入る予定の疎開第二工場が出来たが、終戦になったので武器生産に従事しなくて済んだ。
 いま海軍工廠跡にホンダや旭化成など大企業の工場、鈴鹿高専や企業研修所などが入っている。 目前の鈴鹿川左岸の家並みは庄野宿。あの歌川広重の描いた東海道53次の傑作「庄野白雨」の舞台がここである。

 加佐登の坂の町を登る。浄安寺の三門が素晴らしい。青蓮寺の横をすぎる。旧亀山陸軍病院はいま国立病院機構として再生した。車の交通量が増えた。交差点から加佐登神社へむかう。すぐ左に椎山川を堰止めた加佐登調整池(白鳥湖)の堤防がある。
 加佐登神社は急階段を避けて右の緩い勾配道を登る。高齢者にはこちらが最適である。このお宮はヤマトタケルの笠を祀る。“御笠殿”と呼ばれたのが訛って“加佐登”になったという。この一帯は白鳥か加佐登の名が溢れている。

 白鳥塚に詣でる。
 『ここは明治12年以前はヤマトタケルの御陵とされてきました。それを明治政府は突如として亀山の能褒野陵が本物だと指定したのです。だからいまこの白鳥塚はたんなる古墳です』

 10世紀はじめに編纂された「延喜式」にあるヤマトタケル御陵、それは2町平方米の土地に墓守が3戸あったと記されている。それが中世戦乱時代に場所がはっきりしなくなった。江戸時代の国学者、本居宣長や平田篤胤らはこの白鳥塚が本物だろうと言っているが、建部綾足や神戸藩主、亀山藩主は鈴鹿市長沢町にある武備塚(鈴鹿市長沢町)が本物だと言う。ほかに二子塚(鈴鹿市長沢町)が本物という学者もいた。だが明治12年までは現、能褒野陵の王塚を本物と主張する人はなかった。当時もいまも学者たちは戸惑っている。加佐登白鳥塚は当初は円塚とされたが、近年の発掘で帆立貝型古墳であることが判明した。 ヤマトタケルは架空の人物という学者もいるが、私は実在を信じる。
東国遠征の帰途、伊吹山の荒れ神に破れて醒ヶ井の水を飲み蘇生、やっと朝明川にたどりつき朝を迎えたので川の名がある。杖衝坂では身体が三つに曲がるほど苦しみ、三重県の名になった。

 歩を進めてフラワーパークに至る。この地方最大の花公園、いまも美しい花が沢山咲いていて遊戯用具も完備している。今日も子供ずれの家族が大勢きている。私たちは横目で見ながら通りすぎる。
 すぐ隣りが荒神山、人は山名だと誤解するが、実は観音寺の山号である。寺は真言宗御室派、本尊は21面観世音菩薩。境内には徳川家光の乳母、春日局がこの観音に祈願し、義弟の盲目が治癒した功徳に感謝の寄進をした歌碑と梵鐘がある。
    さと遠きかうじが山の紅葉に 
             観音大悲ひかりどどまる
 ここは映画、ドラマで有名な「血煙り荒神山」。荒神山観音寺の一帯は神戸藩、亀山藩、幕府直轄地に挟まれ治安が悪かった。観音寺の縁日には相当の人出があり、大きな賭場も開かれた。このシマをしきったのが神戸の長吉。子分は少ないがバクチ塲からの上がりが1日1500両と莫大。これを子分の数で勝る桑名穴太の中野徳次郎という博徒、通称アノトクが横取りしたのだ。神戸長吉は義兄弟の三河に住む吉良仁吉に助けを求める。
 仁吉の恋女房はアノトクの妹、だが仁吉は義理を通し女房を離縁し長吉応援を決断する。
仁吉は清水次郎長に応援を依頼、次郎長は大政、小政、大瀬半五郎、仙右衛門、鳥羽熊など猛者17人を派遣した。両者はなんども話し合いで解決しようとしたが、アノトクの拒否にあった。

 そしてとうとう慶応2年4月、大喧嘩がはじまった。
しかしアノトク側は400人もの応援がありながら、実態はまとまりが悪かった。
あっと云う間に清水次郎長の子分17人を含む神戸長吉側33人に切りまくられ、次々に犠牲者を出してしまった。アノトクの負けがはっきりする。だが神戸長吉側で唯一の犠牲者が吉良仁吉。
 “ダーン”
 一発の銃弾が仁吉の身体を貫ぬき死をむかえた。いまも鐘楼の柱に銃弾の跡が残る。 
清水次郎長は彼の死を悼み、三河吉良の源徳寺に大きな墓を建立した。いまも全国から博奕打ちがやってきて墓石を削っていく。この荒神山観音寺境内にも浪曲師、広沢虎造が建立した仁吉碑がある。最近のドラマでは村上弘明が仁吉を演じた。
村田英雄の「人生劇場」の歌にも仁吉が出てくる。 

 天候は梅雨時とは思えないほど絶好の好天となった。
汗びっしょりで津賀池への道を歩く。池の堤防に登ると視界いっぱいに鈴鹿の山々が広がる。御在所岳や鎌ヶ岳、亀山市の最高峰、仙ケ岳の写真を撮る絶好のポイントだ。
池は人柱伝説や終戦時に日本軍の武器を投げ入れた話があるが、鈴鹿市伊船町の龍ヶ池と混同されている。
 朝食が早かったのでお腹がグウグウ。新しく出来た「みどりの大地」で昼食をとった。
この周囲一帯は広瀬野と呼ばれる広大な台地。明和5年(1768)の亀山農民大一揆ではここが一揆勢の集合地。彼らはここから隊伍を組んで亀山の城下に繰り出し、鮫屋源兵衛などの豪商の店を叩き壊した。
 戦時中は北伊勢飛行場として滑走路や掩体壕が造られた。いまも掩体壕は残されているが、民間の所有になっているので大勢での見学は無理、主宰のIさんが作成した大きな写真を示して説明をされた。私は小学6年生のとき見学にきた。各小学校がベニヤ板で製作したニセ飛行機を滑走路に並べ、本物の飛行機は掩体壕に隠していた。米軍機がダマされてニセ物を銃撃したのは数回だけ、すぐにバレたらしい。638号線道路は車が多くて危険。だが主宰のIさんは
 『これだけの人数に車のほうが負けて避けるようですね』
なるほど道を横切るときも70名が渡り終えるまで停車している。

 やがて左に折れ国指定史跡、伊勢国府跡に着いた。ここは古くから大量の古瓦が出土するので長者屋敷跡と呼ばれた。私が亀山中学生のとき歴史の先生の引率でリヤカーに石炭箱を三つ積んで発掘をしにきた。だけど古瓦が多すぎて発掘どころか、そのあたりで拾うだけで箱がいっぱいになった。平成4年から鈴鹿市が本格的な発掘調査を開始。これが大規模な伊勢国府跡と判明した。東西600m、南北800mの土地から大量の瓦が出た。
 国庁(いまの県庁)と国司館(いまの本館)の中心部、これは東西80m、南北110mもあり、その中に正殿と後殿が前後に並び両脇には脇棟があった。いまの638号線道路の北側にも2ケ所の遺跡が残る。全部で7万4千平米の広大さである。
 国府は平安時代に全国66ヶ所に設置され、機能は16世紀まで続いた。
すぐ横の畑にコンクリートの4本柱がある。なんでもないものだが、これが戦前の八紘一宇を象徴する文化財でHATと呼ばれるもの。東京から旧満州の新京の間を延々と電話線を伸ばそうとした。電話の声が小さくなるのを防ぐため、ところどころの中間に大きな線輪(コイル)を設置した名残りである。

 もうかなり疲れた。だが本日メインの能褒野陵はすぐそこだ。
能褒野神社にまず参拝、つぎに御陵にむかう。10世紀初頭に編纂の「延喜式」の調査によれば「墓の規模二町四方、墓守三戸」確実に陵墓は存在した。だがその後場所が不明。
明治12年に政府は突如これをヤマトタケル御陵に指定。別名「丁字塚または王塚」、
前方後円墳墓で全長90m、最大幅54m、最高9.5mもある。出土品は埴輪や土偶が少しだけ、宮内庁の許可が下りないので発掘はできない。
 ヤマトタケルは臨終に際し、大和を恋い忍ぶ歌を遺言に残した。
   大和は国のまほろば たたなずく青垣
          山こもれる 大和しうるわし
 “大和は尊く秀でた国だ 重なりあった青垣のような山々に囲まれ、大和は美しい“
 タケルは亡くなると白鳥になって大空へ飛び立った。降り立ったところが大和琴弾原陵(奈良県御所市)、また飛び立ち降りたところが旧市邑陵(大阪府羽曳野市)。この三陵は宮内庁が管理する御陵。最大の陵墓は羽曳野市のものである。
 いま亀山市、御所市、羽曳野市の3市が持ち回りでヤマトタケル、サミットを開催して
いる。

 のぼの公園を後にしてJR井田川駅へむかう。途中に茶臼山古墳公園があるが、時間がないので寄らない。だがこの古墳公園は歴史研究者から蛇蝎の如く嫌われたのだ。
昭和47年、住宅地造成工事中に沢山の古墳が発見された。それは戦後最大の発見と云われた。しかし列島改造論で世の中は金銭至上主義になる。歴史研究者の古墳調査の要望も完全に無視され、ブルドーザで古墳を完全に破壊したのだ。そして古墳の残骸を集めて古墳公園を造ったらしい。いわば宅地造成工事で自分たちの負の行為を覆い隠す公園である。
 JR井田川駅前には新しいヤマトタケルの像が建立されていた。その前で記念パチリをし、16時27分発の列車に乗った。
 好天に恵まれて歩いた楽しい一日であった。
 
戻る