東海道の昔の話(21)
     琴の橋              愛知厚顔   元会社員  2003/9/20投稿
 
 昔の東海道を歩いてみると、関宿の西の追分を過ぎしばらくいくと、急に両側の山々が街道に迫ってくる。そして筆捨山を右に見るころから、鈴鹿川は源流の様相を示していくつもの瀬、別名の八十瀬となって岩を噛む。
 このあたりの地質はコンクリートと間違えそうな砂岩であり、上流は花崗岩の岩盤で成っている。そして表面をわずか数十センチの腐葉土が覆っているだけである。 
 このため山の保水力が弱く、雨水はたちまち浅い表面を流れてしまう。それが急流となって砂岩を砕いて流れるものだから、いくつもの瀬と奇岩怪石とが入り混じった険阻な地形となってしまった。

 平素はおだやかな浅い流れも、いったん雨が降ると濁流が渦をまく。旅人も村人も長い間街道の通行に難渋してきた。
 古い時代ではこの川に橋はまったくなく、人々は衣の裾をからげて草鞋の素足で岩から岩へと、飛び移って歩いていた。
流れが穏やかなときはこれでいいが、濁流が膝を越すようになると危険で渡れない。
 そこで橋を架けることになる。ところが険阻な地形と貧弱な技術では大規模な土木工事はできない。そこで人々は大木を二つに木挽きで縦割りに曳き、それを岩から岩へと架けていった。その木の端を綱で結んで川岸の樹木に縛っておく。すると水かさが増しても橋は流されることもない。雨が止んで減水したのち綱を引っ張ればまた橋が架けられるわけだ。

こんな渡渉の川瀬が市之瀬から坂下宿までに五ケ所もあった。

 いつの頃か、ここに少しましな橋を架ける計画が持ち上がった。
その橋材は思い切って最高の木材を使おうという。
 松、杉、樫、柏、楓、いろんな木材が候補にあがったが、この荒れ狂う急流と砂岩の奇岩に架けるに適当なものが見つからない。
そんなとき誰かが
  『関宿の背後にある桐の御神木を切らせてもらおう』
と提案した。その桐の大木は街道を見下ろす関山の一角にあった。
地元では「桐の木御畑」と呼ばれている神域に沢山生えていた。
  『旅人を助けるために切るのを許してください』
人々は丁寧に神事を催して神に祈り、この桐の大木を数本切り倒し、念願の橋を完成させることができた。
 それまでは衣の裾をからげて水の中に入って渡ったり、木挽き丸太をひやひやしながら亙っていたので、安全な桐の橋の完成は大変に喜ばれたのであった。
 
 幾年か月日が経った。
 はじめに架設した桐の橋もやがて腐って危険になる。人々はふたたび桐の木御畑から大木を伐採して橋を架けなおした。
 そのとき古い橋に使用されていた桐材に、まだしっかりしているのがある。それをみた旅の途中の京の左小路為篤某という公家が
  『この古い桐をぜひ譲ってほしい』
と持ち帰ったのであった。
 やがて彼はその桐材を利用して和琴をひとつ作らせた。
そして春の都の宮中の神楽殿での舞で演奏されたのである。ところが琴が爪弾かれはじめると、その美しく深い音色に聞き入る宮人は一様に驚いた。
  『なんと見事な音色なんだ!。どこから入手されたんです?』
そして我先に
  『我もぜひほしいものだ』
その公家に琴の謂れを尋ねまわるありさまだった。

 そのとき殿上で演奏を聞かれていた天皇が
  『こんな名器はぜひ皇室もほしいものである』
と仰せになった。それを知った公家は
  『この琴は一公家の私物にするべきではない。宮中の
   宝物として長く保存されるのがふさわしい』
と、皇室の御物として献上されたのであった。
 
 この琴は〔玄上〕とか〔鈴鹿六弦〕とか呼ばれる名器となり、宮中主催の神楽殿での舞や琵琶との合奏会で演奏され、宮人を驚かせたという。皇室累代の宝物としていまも伝えられているはずだが、くわしくはわからない。それから桐の木で架けられた橋を「琴の橋」と呼ば
れるようになった。
 この話は順徳天皇の建暦年間(1212)に著わされた〔禁秘抄〕という
書物に出ている。
  
   鈴鹿川桐の古木の丸木橋
    これもや琴の音にかよふらん          俊成

   桐の木の琴になれとの橋なれば
       鈴鹿の川にひきて渡せよ        勘之丞

 この琴の橋の場所については、関宿の新橋と中町との間の南裏明神の森の東の小川にかかる橋とか、坂下の片山鈴鹿神社より一町ばかり東の方の橋。あるいは坂下宿の駅の東の入り口の橋という説、また市之瀬の弁天の橋のことだとか…。いろいろあって判然としていない。
 この琴の橋が完成したのち江戸時代末期に至る間も、この街道では鈴鹿川の渡渉を強いられ、本居宣長も太田南畝も渡渉に閉口した旅日記を残している。


参考文献、 荒井勘之丞〔勢国見聞集〕〔東海道名所図会〕〔禁秘抄〕
 
戻る