東海道の昔の話(26)
 旅日記〔旅の命毛〕  愛知厚顔 元会社員2003/10/3投稿
 
 土屋茅淵は大阪堺奉行、土屋紀伊守の妻女である。
夫が新しく堺へ赴任するのにしたがい、彼女は東から東海道を西へ旅した。そのときの日記が「旅の命毛」である。
 いかにも女性らしい、やさしい眼で旅の途中の感想を記しているが、ここでは桑名から鈴鹿峠までの旅を読んでみる。

     *      *       *     *

 文化三年(1806)旧暦八月十四日桑名「七里ノ渡し」
 宮の渡しから海路桑名についた。まだ正午ごろであった。
宿は桑名の城の土手の端の向かいにあたる。行き交う舟あるいは蛤などを採る人々も、宿にいながらにしてよく見える。中国の故事に聞く平天府の山海関でみる蜃気楼というのも、これに似ているのだろうか。今日はこの旅の疲れを癒すため、同行の人々はゆっくりとくつろいで話などしている。

 当地の遊女たちだろうか、艶かしい声をうち揃え、歌などを唄いながら群れていく。いかにも潮来のおもむきである。船が係留されてところは、きらきらと新しい家並が続いている。これは昨年の火災で焼失したのが、新しく再建されたためである。
あの吉原の宿によく似てけばけばしい。

 真昼なのに同行の人々は居眠りをはじめた。これでは子供の躾にはよくないだろうと笑う。私は昼寝ができないので宿から海や城の方を眺めた。夕暮れちかくになったころ、城の矢倉から大きな太鼓が打ち出され、大手門の木戸が閉じられた。じつにおごそかなものである。いまは戦国の世も終って、弓矢の振る舞いも見ない時代なので、忘れられていたのだが、これが東海道第一の城の守りを固める要だと思われた。

 海を大手の方向にあてたこの城は守りが鉄壁なのだろう。
矢ざまの形など日ごろ見慣れたものと違い、黒い板が打付けられている。どういうわけか知らないが、いまの太平の世の中にも、こんなけじめもあるのだと感心した。戦国の昔、伊勢の大将滝川一益が立て篭もった城でもある。矢倉の透き間を這い上がる松の枝ぶりに、歳月の過ぎ去った昔の日々を思い浮かべた。

  千とせふる松の問はばや過ぎし世の
       その武士(もののふ)の道のきほひを
 英雄一去豪華尽    英雄ひとたび去りて豪華尽き
 唯有青山似洛中    ただ青山、洛中に似たる有り

という歌を思いめぐらした。
 今日は残暑がとくにひどく、申の刻から雨も降ってきた。
この七里の渡しも明日だったなら、運行中止となり佐屋の渡し(愛知県佐屋町)の遠廻りになっただろう。よいときに渡ったものだと人々も喜んでいる。
 
 八月十五日
 昨日の雨は夜中も止まなかった。今朝もまだ降っている。
 そぼ降る中を進んで富田(四日市市)というところで休む。下仕士の者たちはこの雨も気にせず、名物の焼蛤を立って食べている。
これを駕籠の透き間から見てうらやましく思う。風も強くて雨も垂れこめ行手もみえない。四日市に至ってようやく雨が止んだ。
陽も少し射してほっと一息。
  『鶴舞いて日高く、竜昇りて雲残らず』
と独り言しながら見ると、伊勢地の山々は左に続き、那古の海(四日市市霞ヶ浦)が右にあたって、はるかにその白波と砂川が音も無く、大変近いところにあった。雲の晴れ間に鎌ケ岳という険阻な山が立っているのが見えた。

 日永追分(四日市市日永町)で少し休んだ。四日市「日永追分」
このあたりから男や女たちの身なり化粧も、どことなく都めいて大変垢抜けして美しい。さぞ人の心もなごやかであろう。
むこうから来る人もみな道の傍らにかたまり、名残の雨を避けているので道が渋滞する。いらいらしながら早く行け…と思うが、急がせることもできない。 道の左に来国光と書き付けたところがある。名前にも似ず包丁を沢山置き並べて売っている。なんとも妙な商売である。

 午後四時ごろに亀山に宿をとった。
 私の幼子たちは庭に下りて遊んびながら
  『ここは亀山と云うそうよ、夜中に妖怪が出てくる
   そうよ、夜は荒れるでしょうよ』
大人がそれを聞いて
  『それは本当かも知れないね』
と真顔で笑った。夕方から北風が恐ろしく吹き荒れて、本当に亀山の鬼が出てきた気配である。大変恐ろしい心地がして、そのあたりをがたがたと風が打ち叩いている。ここの宿は人の宿りも少ないのだろうか、家も古くて荒れ果て、障子や遣り戸も破れている。風は容赦なく吹き透き間風も寒く、ひと晩じゅう眠れなかった。あの妖怪変化云々と言った幼子は、なにもなかったように
ぐっすりと眠っている。本当の鬼は人の心に住むよろず心だと思った。明日は山々が連なり、雨だったら越えるのが難しい。
  『どうか手向け(峠)の神様守ってください』
と一生懸命お願いした。

 八月十六日
 ほんとうに神様のお守りがあったのか、朝からよく晴れた。
明け方の横雲もことに美しい。風はたいへん強く吹いて止まない。
鈴鹿川の縄手(大綱寺畷)というところを行く。夜明けて間もないころだが、一里あまりの縄手の右は、鈴鹿の山々から吹き下ろす風がおびただしい。左はずっと遠方まで果てがなく、四方に眺望を遮る木立もない。眼下には鈴鹿川がめんめんと帯のように流れている。朝の風は肌を透し、厳冬と思えるほどの寒さ、手足も凍えるばかりである。従者たちも身体を縮めて行き悩む。
寒さに耐え難い者は雨具を出し、何枚も何枚も重ねて着ている。
 とかくするうちに関の宿場につき休息をとった。
 昨日は桑名で残暑がきびしく、汗を絞っていたというのに、ただひと晩で雪の降る朝のような寒さになるとは…。大変珍しい気候だと云いあった。

 関地蔵尊は道の傍らに立ち給う。関地蔵本堂
いまは御堂が大変大きくなった。ただ有り難く参拝をさせていただいた。昔は形も小さいものだったが、この地に移ってからは大変に賑わしく、御功徳もさぞ大きいだろうと有り難く思った。
 昼にはまだ時間があるが、ここからは山路にかかるので、人々は昼食を取って時間をつぶした。関を出立してからだんだんと高度も上がっていく。目をとめてみると、これが東海道の山水第一の景色と思われる。私はおろかな身だけれど、海の風景が好きで、いつも海を眺めて楽しんでいた。山路は苦しいだけで、眼に止めるものは無いと思っていたが、この山はじつにたぐい稀な景色であった。

 八十瀬川という山の裾を分れて流れる谷川があり、めぐり流れてゆく水が、右に流れていたと思えば、またたく間に左に流れている。名のとおり八十瀬が多くて、すばらしい景勝が沢山あった。
 ところどころに三間ばかりの橋を渡る。みな杭と板で造られている。石の橋もあるがそれは風情がない。
琴ノ橋というのもあると聞いたが、人に聞いてみないとどれだか判らない。水は深くはないが渓谷の源流なので大変急流である。
また怪しく美しい岩もあって、陽光に照らされてじつに美しい。
 「ギギ」という魚がいて「ゴリゴリ」と川の底で鳴くといわれる。カジカが鳴くのだとも云う。土地の人に聞こうとしたが人影もないので、ただ立ち止まって耳をたててみた。行きかう旅人は興味がないのか、ただ通り過ぎていくのが憎らしかった。

 藤の木茶屋で休憩した。
 ここからの登りもだんだん高くなる。山はすべて大木にあらず矮木の松ばかり生えている。有名な筆捨山はすばらしい形をしている。このあたりの山々とくに左の山は禿山であり、見所もない。
右に見える山々は見る眼を楽しませる。近からず遠からず、ほどよいところに松の木立が見事である。この景色はいいようがない。すべての松の枝を画くよりも、なおい美しく造ったようである。
ことに廿町ばかりの間は、千代の緑がうち茂る常盤の姿、櫛の歯をまき並べたようであり、身近に植えておき、朝と夕に枝と葉の手入れ剪定をしたようである。
 山の頂きから谷の下りまで、隙間もなく生えている。その中に筆捨山があり、すばらしい松の木の間から、切り立った岩がさまざまな姿で沢山の松に添われいる。何ともいえないすばらしい眺めである。
  楚山石巌巌 漢水碧蕩蕩 一村暖枝弱 山晴彩翠奇
と云う歌も、この景色のためにあると思った。
 
 午前十時ごろから風も止む。坂ノ下で休憩をとった。
 ここから鈴鹿山を登る。その急なことは箱根の山以上である。
これは東海道第一の険しさである。登りはくねくねと大木の茂った羊腸の曲が道。真昼どきなのに日光も見えず、道も滑らかに踏む足を止めない。馬は雲の上を踏み、人は石腸の中を行く。かろうじて登っていった。
 鈴鹿峠にある田村明神に参拝する。どこも同じく神様への願いごとをする。
 「和光の神威を垂れ給え、ふたたび故郷に立ち帰り
  老いた親を安心させてください」
と伏し拝んだ。
 この先は近江である。


 参考文献   土屋茅淵「旅の命毛」  

 
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