東海道の昔の話(27)
  壬申の乱の道       愛知厚顔 元会社員2003/10/5投稿
 
天智天皇が崩御され八ヶ月ほどたった西暦六百七十二年。
初夏の六月廿四日、大和国吉野で出家し隠棲されていた大海人皇子(のち天武天皇)が甥の大友皇子(のち弘文天皇)を討つため、突如として行動を起こした。

 壬申の乱の勃発である。
 大海人皇子の一行はわずか廿数名で吉野を出発した。
奈良県宇陀郡から夜中に三重県の名張に至る。ここで援軍を得て総勢百人ほどになった。一行は伊賀地方の豪族に決起をうながし、有力な豪族を味方にする。
 こうして吉野を出発して丸一昼夜の後、ようやくなんとか軍勢らしき姿が整う。東の空が明るくなるころ伊賀の「たら野」に着く。ここで食事をとったのち積埴(つむえ)の山口(柘植町平地区あたりか?)で高市皇子と手勢の出迎えを受けた。

 このあと柘植から伊勢の鈴鹿郡へ越えたのだが、このルートを唯一の記録書である「日本書記」では
 『大山を越えて伊勢の鈴鹿に至る』
と簡単に記している。鈴鹿山系の山越えとして一番楽なのは柘植から加太、関へと、いまのR25とJR関西線沿いに進む道がある。
 おそらくこの道を進んだと思われるが、ほかに三国岳686mと旗山650mの間にあるゾロ峠、あるいはすぐ西隣の鳥不帰峠(トリカエラズトウゲ)を越えてバンドウ、市ノ瀬、関の道をたどったと主張する学者もいる。こちらの道は東海自然歩道が通じているとは云え、今日でもほとんど人影はなく、風化した花崗岩地質の山肌は、一雨ごとに道を崩している。
 壬申の乱の当時、大勢の武装した兵や女子供が歩いて通過できる山道があったとは到底想像できない…。

 ともかく一行がいまの関宿に到着したのは六月廿五日の正午ごろとあるから、吉野から約百キロの道を実に驚異的なスピードで歩いてきたことになる。そしてここ関でも国司など多数の豪族の味方を得て、
  『五百軍を発して鈴鹿山道を塞ぐ』
軍勢はかなりの数になっており、これで鈴鹿山系の山道を閉鎖している。

 このあと大海人皇子の軍は関から亀山、井田川、加佐登あたりを過ぎ。川曲(カワノ)の坂下、三重郡家で一泊したとある。
このルートはいまの国道R1号沿いと同じと考えられている。
しかし学者の中にはもっと西の山寄りだったいういう人もいる。
 亀山からは川崎、いまヤマトタケルの御陵がある能褒野、鈴鹿市の広瀬野をへて加佐登。そして伊勢国分寺跡近くの川曲(カワノ)の郡家で宿泊し、家を一軒燃やして寒さを凌いだというのである。
 このあとは朝明の迹太川(四日市市茂福鳩町に遥拝地跡あり)で、遥かに伊勢神宮に必勝の祈願をしている。そして桑名郡家へと進んだ。

 このルートも日本書記に記載された地名は、いまでは消えてしまっており推測するだけ、現在のそれがどこなのか、諸説入り混じってはっきり固定されていない。
 しかし六月廿六日には支援者のいる根拠地の桑名に到着。
吉野を出てから僅か三日しかたっていないのだから…、一日に五十キロ以上歩きとおしたことになる。 

 とても人間業とは思えない。
 いまなら自動車など便利なものがあるが、その当時一部は馬に乗っていただろうが、大部分の兵士たち、そして子供と女性たちも混じる。彼らは自分の足しかなかった。日本書記でも
  『非常に疲れたので休む』
と素直に記されている。なのにどうやって踏破したのだろう。
なにか特別の援助と手段があったのではなかろうか…、でなくては道路網が整備発達したいまでも、この距離を戦闘装備のまま三日で歩き踏破するのはむつかしい。
 いろいろ昔の古文書、記録類をひっくり返していると、つぎの話がみつかった。

 大海人皇子の一行が伊賀国を越えて、この鈴鹿の山を越えようとされたとき闇夜で道に迷われた。ふと見ると遥か彼方に光が見える。それを頼りに進まれたところ、この山中に柴の庵を結んで翁と姥が住んでいた。そこで皇子は
  『こんな深山にどうして住まわれているのか?』
翁は答えて
  『ここは山中の仙境です。人がくるところではありません』
と言う。そしてじっと皇子の顔を眺め
  『どなたか存じませんが、拝見しますと貴方の両眼には
   尊い印が顕れておられます。私に一人の娘がおりますが、
   これを貴方に捧げます。どうかお傍においてお役に立て
   てください。』
すると皇子は
  『じつは我こそは先帝の皇弟、浄見原親王です。大友皇子
   の乱を避けてこの地にきました。これから近江へと合戦
   にいくところです。』
それを聞くと翁は敬礼して跪き
  『恐れ多くも皇祖天照太神は五十鈴川の上流におわします。
   親王はその後裔ですから、その地にいかれて祈り給ま
   うと必ず勝利するに違いありません。私がご案内します』

 そして翁は皇子を伴って進んでいったところ、急に雨がひどく降ってきて鈴鹿川が氾濫し、渡ることができず立ち止まってしまった。
 するとそのときどこからか鹿が二頭あらわれ、二人の前に頭をうなだれた。そこで皇子と翁はこれにうち乗り、やすやすと川を渡られたのである。そして伊勢大神宮の背後にある岩窟にたどりつき、金や銀、水銀などの軍資金を授けられた。また参拝した大神宮の御神託は
  『この合戦では必らず勝利する』
との仰せであった。
 それから後、この鈴鹿川のまたの名を会鹿川(アウカガワ)とも呼ばれるようになった。
 このときの翁は、いまの鈴鹿峠の直下にある鈴鹿片山神社の神だと人々はいう。このほか皇子の一行が進軍するとき、各地で神の使いが顕れて援助したことが伝説として残されている。

 やはり鈴鹿の神様の御加護があったのだ。
 そうでなければ吉野を廿数名だけで出発し、僅か三日で桑名に到着し、そのときは幾万という大軍勢が整えられているのだから、まったく神業としか思われない。皇子は行軍の忙しい合間を縫って伊勢神宮まで往復し、祈願をされて引きかえし、また自軍に合流したわけだが、これは人智を超えた神の助力があったからできる業であろう。

 そして大海人皇子はこの後、不破ノ関(岐阜県関ケ原町)を越えて近江へ進撃し、大友皇子の軍に勝利したのだが、この壬申ノ乱の勃発から終息までが、僅か一ヶ月余だったこと。先帝が没して八ヶ月、隠棲したはずの大海人皇子が蜂起してから一ヶ月。
こんな早くに大軍を味方にし、蜂起が成功するとはとうてい信じられないことである。
 これは神の御加護あっての賜物に違いない。「鈴鹿権現」とされている片山神社

 こんな民間伝承や昔話を疑わずに、そのまま信じると案外面白く説明もつく。しかし壬申の乱のような天皇の弟君と実子との間の骨肉の争いでは、伊勢神宮の祖神もどちらを応援してよいのか、かなり迷われたのではなかろうか。
 これも歴史学門に縁のない素人の遠慮ない推測である。      


参考文献:  林羅山〔神社考〕 〔日本書記〕 

 
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