東海道の昔の話(28)
 関地蔵の開眼供養      愛知厚顔 元会社員2003/10/5投稿
   
 関町の中町の町並みを西へたどると、地蔵院を真正面に見てから街道はゆるく右に曲がる。何といっても地蔵院は関のシンボルである。町の人々は
  『関の地蔵さん』「関地蔵院」
と親しみを込めて呼ぶ。新所町にあり九関山宝蔵寺の山号がある。真言宗で本尊の創建は天平十三年(741)、名僧行基によって地蔵菩薩一体が彫刻され安置された、とされているが、別の伝承では天台宗の最澄の弟子が、大同元年(806)に九冠山宝蔵寺という地蔵堂を建立し、最澄を招いて法要を営んだといわれる。地蔵菩薩像としてわが国で最古のものだという。

 いまのご住職さんに聞いてみると、
  『最澄うんぬんは絶対にあり得ない』
と断定されていた。本堂はまことに古くて立派である。傾きかけた屋根、朽ちかけた回廊、見上げるといつの頃に寄進されたのか、見るからに時代を感じる絵馬がかかっている。
 この本堂の地蔵様と愛染堂、鐘楼はいま重要文化財に指定されている。
毎日、大勢の観光客や参拝客が出入りしている。心配なのは古い回廊や木段を人々が土足のまま歩いていること。何百年歳月を経た文化財が磨り減っているかと思ったが、その後まもなく平成の大修理が行われ、その心配は危惧におわった。
いま修理もすべて完了し往年の壮麗な雰囲気をとり戻した。

  『地蔵堂にいたる。世に関の地蔵菩薩とて、
   柴野の何某大徳の開眼し給ふと聞くはこれならし、
   桂昌院殿帰依ましまし、護持院僧正の願ひいよりて、
   かくいつくしき堂とはなれりとぞ、』
               〔太田南畝:改元紀行〕
 行基が彫刻した尊像も、年月が経過して馬蹄の塵や埃に穢れ荘厳さも衰弊していたので、人々は集まってこれを補修した。
誰か旅の僧侶を見つけて開眼供養をしようと、待ちうけていると、そこに通りかかったのが柴野の某、すなわち一休和尚であった。彼は人々の頼みに心よく応じ、地蔵にむかっていとも簡単に
   
    釈迦は過ぎ弥勒は未だ世に出ぬ間の
           かかる浮世に目明かしめ地蔵

と唱えて地蔵像に小便をひっかけて立ち去ってしまった。
 釈尊が人々を救済した時代はすでに過ぎた、また弥勒菩薩が出現するのはもっと先の世である。こんな末法の今世はただこの地蔵菩薩だけが救いである。どうか開眼させ給え。
すばらしい歌の意味なのだが、そのとき居合せた人には理解できなかった。
 人々はこれをみて
  『大事な地蔵さまに汚物を引っかけるとは!』
  『およそ開眼供養というのは威儀正しく御経を読み
   さまざまの作善をもって厳粛におこなうことなのに
   わけもなく和歌を詠み、小便をしかけて立ち去る
   とは…実に憎い僧ではないか。』
大いに怒り、尊像を洗い清め、また荘厳彩色をやり直した。
そしてほかの僧侶に頼んで開眼を改めておこなった。

 この僧はうやうやしく威儀をつくろい、九条の袈裟に座具をとり揃え、水晶の数珠をおしすり、地蔵発願経を片言まじりに読んだ。そして高座に上り発願の鐘を打ちならし、鼻をうちかみなどして、うやうやしく声を出して地蔵経について説教をした。
  『これで皆さんの生命は刀利天の天人に等しく、形は
   金剛不壊になぞらえ、病の憂いは消え失せました。
   田畑に稲穂は実り、雨風の難もなく、火難水難の恐
   れもありません。この御本尊は将軍地蔵です。
   たとえ追剥ぎ、強盗が出てきても、この難に打ち勝
   つでしょう。』
など良いことずくめの説教を云いちらした。人々は
  『これこそまことの開眼供養なり』
と随喜の涙を流したのであった。

 その夜のことであった。
 開眼供養に立ち会った人々の夢枕に地蔵がとりつき
  『名僧の供養によって眼が明いたものを、どうして
   わけの判らん供養をして迷わせるのだ。元のように
   して返せ』
と高熱を出して患ってしまった。人々は大に驚き
  『あのお坊さんはえらい人に違いない。お詫びをして
   戻ってもらい。供養をやり直そう』
と、桑名あたりまで一休さんを追いかけた。そして
  『私たちが悪うございました。どうか和尚さま
   戻ってきてください』
頼むと、彼は自分のフンドシを外して
  『私は用があるので戻れないが、私が詠んだ和歌を
   三回唱え、これを地蔵の襟にかけて拝みなさい 』
と渡した。人々は喜んで関にたち戻り、教えられたとおりにするたちまち祟りはピタリと治まってしまったという。

 いまも地蔵様が麻の布を襟巻きにされているのは、この謂れからである。 この話を当時の川柳では

   とんだ開眼一休のろり出し     柳多留

   開眼すると一休ぶらぶら      柳多留

   関の地蔵で笑うまいまい      柳多留

   関の宿から名僧抜き身也      柳多留

   しはぶきや関の地蔵の秋の風   立圃〔東の紀行〕

 また狂詩では銅脈先生こと畑中観斎が明和六年に刊行した「太平楽府」の中で、伊勢道中六首として発表している。

   序詣地蔵堂     ついでに詣でる地蔵堂
   一休開眼場     一休の開眼の場
   其言不可説     そのいわれ説くべからず
   縁起与褌長     縁起ふんどしと共に長し
 
 その謂れは混み入った話になるので、それを全部語ることはむつかしい。開眼供養の縁起をしゃべりだしたら、一休のフンドシよりも長くなるから…。
 また徳川幕府の信任厚い政治顧問兼学者、林羅山は京都から江戸へ下るとき、各地で漢詩を詠んでいるが、関の地蔵開眼の話を聞いて一作とした。

    寛永甲子三月廿四日(1624) 晨発関地蔵和閑林詩韻
   不見長安眼豈窮  長安を見ずして眼あにいわんや
   回頭湖上似雲夢  頭をめぐらせば湖上雲夢に似たり
   裟婆来往八千返  裟婆 来往 八千に返る
   多自地蔵関裏通  多くはおのずから地蔵関裏に通ず   

 本堂は五代将軍綱吉や母の桂昌院の寄進によって、元禄十三年(1700)再建された。そのむかしは崩れて形ばかりになっていたのが、元禄十年に江戸まで出向いて御開帳があった。そのとき桂昌院様が参詣されたのが縁となり、多額の寄進を獲て翌十一年に工事が着工され十三年に落成したものである。再建されてからは大いに栄え、近郷近在はもとより、上方、江戸にまで帰依する人が多く、東海道を通行する人の参拝で終日賑わっていた。

 地蔵院本堂に入ると見事な天井が眼にとまる。仏典から題材をとって画かれたという百七十四枚の天井画は、華麗な色彩と緻密な描写で見る人を圧倒する。元禄時代の狩野派の絵師、狩野永敬が十年余の歳月をかけて画いたといわれる。

 また愛染堂は初めは地蔵堂といわれた。伊勢国下ではもっとも古い建造物で、文永四年(1267)の建立である。元禄十三年(1700)本堂ができたので、地蔵尊はそちらへ移り、そのあとへ愛染明王が奉られた。愛染堂の鍔口の銘文に「九関山」とあり、左に元和九年(1624)大工藤原種幸三郎右衛門の銘が読み取れる。
いまのは寛永七年(1630)修理されたものだが、最近では平成の大修理が行われて一新されている。

 この地蔵様は女性と商売人に人気があり、毎年八月廿六日には御開帳が行われる。厨子は太閤秀吉の寄進によるもの、銀箔を押し上から透かし彫りを施した珍しいものである。ここの天井も近年の改修のとき、黒いススを払ったところ、その下から見事な天井画が現れて驚いたとのことである。また書院のフスマには山岡鉄舟の書や今井景樹の絵が描かれている。「山岡鉄太郎の書」

   関の地蔵  文政十一年(1829)  豊蔵坊信海
     六の道に六の関守やむつかしや
           いの字のついた国の地蔵は

 わが国の地蔵さまでは、もっとも古くて立派だといわれる関の地蔵院。遠方に住む私たちからみると、地元の人々はいつでも御参りができて、功徳法恩が受けられるとは、実にうらやましいことである。


参考文献:〔関町史〕〔続未曾有記〕〔羅山詩集〕〔太平楽府〕ほか
 
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