東海道の昔の話(34)
 三子山        愛知厚顔  元会社員  2003/10/23投稿
 
  いまの国道一号線は関の町を抜けると、沓掛、市之瀬、坂下の集落を俯瞰しながら鈴鹿峠にむけ高度を上げる。すると峠の右に形がよくて同じような山が三つ並んでいるのが目に飛び込む。「三子山」
これが三子山である。この名前も山の形からきている。
鈴鹿山系は季節の気象の変化が激しいが、なかでも一日の中での変化が大きく、とくに晩秋から初冬にかけての気候はよく知られている。馬子唄でも

  坂は照る照る鈴鹿は曇るあいの土山雨が降る

と唄われている。伊勢側の坂下では陽射しがあるのだが、八丁廿七曲がりの急坂を登って峠では曇っている。そして近江の土山あたりでは雨が降っている。冬がくる前の西高東低の気圧配置における、典型的な鈴鹿の山の時雨模様である。

 そのため昔、東海道を旅する人たちは、三子山にかかる雲の様子を見て天候判断したという。いわゆる観天望気である。
西洋人としてもっとも古く、長崎平戸のオランダ商館員ケンペルが元禄四年(1691)、江戸幕府へ伺候のため通行したときの日記に
  『三月四日 日曜日。
   我われは旅篭から駕籠に乗って、険しい鈴鹿山地を越
   え、曲がりくねった骨の折れる二里の道を坂下の村ま
   で担がれていった。…その山峡のところから道が別れ
   て、幅の広い石段が近くの高い山に続いていた。
    この山は旅人にとって、いわば一種、旅のバロメータ
   のような役割を果たすので、注目すべきものである。
   彼らはその山頂に登っていく霧や、峰を蔽った雲を見て
   天気を予測し、それによって旅の予定を決めるのである』

 ケンペルが見たとき、鈴鹿峠から広い石段の道が三子山の頂まであったが、それはおそらく山頂は神聖な神域であり、雨乞いや山頂の磐座でいろんな儀礼、催事が盛んに行われている時代である。
人々は盛んに山を登り下りしていた道であろう。いまもこの道はところどころ石段は失われているが、昔どおりに山に向かって直登している。
 三子山は北の峰(568m)が一番高く、登ってみると山容も立派であり展望も優れている。中央の峰(555m)は展望は北ほどでもない。
南の峰には山頂に注連縄が張られた大きな岩、すなはち磐座(イワクラ)が鎮座している。

 この三子山になぜ磐座が存在するのか、学者は鈴鹿川流域に定着した農耕民族が、水を司る神が降臨する場所だとして崇拝し信仰したとか…。天照大神よりずっと古い時代の原始土着信仰だとか…、
いろんな説を唱えているが、いまもまだ大きな謎のままである。
坂の下の片山神社は昔は鈴鹿権現とか鈴鹿御前と呼ばれており、この本宮は三子山の山頂にあったが、のち山火事にあい今の場所に遷座されたと伝えられている。

 この山の近江側に笹路(ソウロ)という集落がある。この集落は木地師が拓いたとされ、祖神の木工ロクロの発明者、惟高親王に関する伝承が沢山残されている。この笹路に三子神社がある。この社は鈴鹿姫を祭神としており、片山神社と同じである。また田村神社も同じ神が合祀されていることから、この一帯の三つの神社の密接な関係が何となくわかってくる。
 この鈴鹿姫を倭姫、すなわち第十一代垂仁天皇の御娘であり、伊勢神宮の遷座場所を五十鈴川上流と決めた姫だが、この姫と鈴鹿姫は同じ姫だという学者もいる。すこし年代が合致しないが、いずれも古い時代にまで伝承がさかのぼる、歴史の山であることには違いない。

  『三神山。俗に三ツ子山といふ。是は古名、片山とて
   三神垂の跡地なり』(勢国見聞集)

   山ざとはすみうかれども時鳥
    呼子鳥さへしばも鳴とふ     建部綾足

   三ツ子山や中に霞むと霞まぬと      佐角

   時雨るるや底に故郷の松の声       千梅亜靖

   行く春を追っ立てるやら叩き鐘      鶴老
         鈴鹿は曇る宮の御馬     一茶


 昔の旅人もこの山を眺めてこれらの歌を詠んでいる。
この地方の人もこの端麗な三つの山を誇りにし、ぜひ訪れてほしいものだと思っている。


参考文献: 「勢国見聞集」「小林一茶俳諧集」「卯花日記」
      ケンペル「江戸参府旅行日記」 
 
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