東海道の昔の話(36)
  本町心中      愛知厚顔  元会社員  2003/10/30投稿
 
 私、山田三左衛門は七石取りの下級武士です。
 私がちょうど二十三才になった年、元禄十三年(1700)十月三十日のことでした。夕刻から降り出した冷たい時雨は、夜半になるとミゾレに変わりました。今年はじめてのミゾレです。それが深夜になるとパラパラと軒先の板を叩いて耳につき、ほとんど寝むることができませんでした。
  「うるさいなあ。明日は朝早く椋川に仕掛けたモンドリを
   見にゆくんだが、これじゃ起きられないなあ…」
ウトウトしながら寝返りをうつ。明方近くになったころミゾレは止んだようでしたが、そのとき
  『人が死んでる。心中だあ!』
と騒がしい声にびっくりして目が覚めました。
  『お寺の前らしい』

 その寺は彼の家の近く、本町表通りの角を曲がった奥にある念仏寺の門前と聞こえました。それを聞くと私はまだ薄暗い通りに飛び出しました。
 門前にはすでに大勢の人だかりができており、その輪の中に心中した男女が横たわっていました。どうやら男が女を刺し殺しての心中とみえました。
 同心役人の調べでは、女は鍛冶屋重兵衛の娘で三和、年は廿一才とのこと。男は義吉で年は廿三才で本町の炭屋で働いているそうです。
彼の兄は藩の御馬廻り役の若党との由、私も顔見知りの兄です。
女は伊勢の古市で客商売をしていた過去があるとか…。なんでも心中の原因は義吉が親に
  『三和女と所帯を持ちたい』
と申し出たとき、両親は聞き入れず
  『そんな何をしてきたか判らぬ女は家に入れぬ、
   薄汚い娘の顔など見たくもない』
といって猛反対をしたそうです。また世間も過去のある女を
  『あの女は男相手の商売をしてきた汚い女だ』
と非難し、道で出会ってもそっぽを向く始末。同情や味方する人はなかったのようでした。それ以来二人は近くに住みながら、人の目や噂がうるさくて逢う瀬もままならなかったようです。

 二人を哀れみ私、三左衛門が後に作った浄瑠璃の道行(心中)の歌。

 あわれ嘆きは有明の、月さへ同じ月なれど、
 二人見なれし夢枕、いまは冥途へ出ずる旅、
 鐘の宮にも陰とめて、千里を胸にたたみ込む、
 女心のあずさ弓、男ゆえにぞ引かれゆく、
 ひと村雨に我が涙、袖につつみて袂に残し、
 帰るあてない夫婦雁 

二人は
  「このまま生き続けていて、苦しい恋の想いに心を悩ませ、
   いつ果てるとも知れない地獄の苦しみを続けるより、
   いっそあの世で幸せになろう」
と寺の門前にうずくまり
  「これが今生の別れ」
と、女が持ってきた扇子に、二人は思いのたけを〔書置き〕として書き尽くしたようでした。

 「書き置き
 あと僅かの我が生命、この浮世の名残と思い、心の底から世の
 中を恨んで書き残します。まことに夢うつつの世の中、今日まで
 美しく色よく咲いた花であっても、散ってしまえば影もなく、
 まことに浅ましいのが人の世の常です。いまさら驚くことではな
 いけれど、無情な世間を恨みます。心ある人にお願いします。
 どうか私たちを哀れみ、一辺の念仏回向をよろしくお願い申し上
 げます。」
  恨みの歌 三和
          恋知らぬ人の心に嫉まれて
                流す涙の乾く間もなし

  辞世の歌 義吉
          一筋に心あずけて夢に見し
               浄土へたどる道ぞ嬉しき
 
 彼らは扇子にこの書き置きや辞世を書きつらね、女は嶋田の黒髪をふっつりと切って扇子の上ののせ、もろ手を合わせて合掌したのでしょう。人を恋したことがない世間の人々…、
  「こんな人たちに私たちの恋が非難され、流す涙は
   乾く間がない…」
なんと強烈な皮肉と恨みをこめた辞世の歌でありませんか…。
 この夜は大変暗く、雲は低く垂れこめ、四方に声を発する人もなく天莫莫として鐘の音も聞こえません。
 男もまた辞世を詠んだのち、女を引き寄せ一息に一刀を刺し、自分も咽喉を突いたのでしょう。
 間もなく冷たいミゾレが降ってきて、二人の血を蔽い隠していきましたが、白い帷子もミゾレがとけて濡れ、私三左衛門も目をあてて見ていられませんでした。 
 
 女はまだ息があるらしく、泥水の中で酔った魚のように、ときどき手足をぴくぴくとさせています。それは目もそむける実に気の毒な姿でした。
 やがて男は兄に引き取られていきました。女も戸板にのせられて鍛冶屋の父のもとに引き取られていきましたが、薬を与えようと医者がすすめても、ただ頭を振って口をあけず、翌日の夜、父のすすめた好物の柿の実を一切れ食べ、ひっそりと息を引きとったそうです。
 これは私、山田三左衛門が日記に書きとめた心中話です。

 自由に恋愛もできなかった時代の、哀れな出来事でした。

 
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