東海道の昔の話(39)
実録、荒神山の血闘2愛知厚顔    2003/11/4投稿
   
 神戸の長吉が三河へやってきたとき、ちょうど清水の次郎長の子分十七名が何か不始末をしでかし、次郎長親分の怒りに触れて三河まで逃げてきていたが、次郎長自身も十名の子分を同行して十七名を追跡し、仁吉方の近く西尾まで来ていたところだった。この詳細はあとでふれることにする。
 彼は長吉から事情を聞くと大いに同情し、長吉を援助することにした。そして十七名を許して自身引率の十名、他に大政、滑栗の初五郎、大瀬半五郎、桝川の宮下仙右衛門、小松の七五郎など五名を仁吉の後見にした。そして次郎長は
  『このたびの出入りでは仁吉の命令には絶対服従とし、
   もしこれにそむく者があれば打ち首に処す。』
と一同に宣告した。次郎長自身は清水に戻るため参加できないのである。

 慶応二年(1866)四月三日、
三十余名の清水の一隊は、三河から船で桑名に上陸し、旅宿を角屋に宿泊した。翌日の朝早く安濃徳宅を訪ねたところ、彼ら一家はすでに賭場の盆割準備のため、荒神山に出かけたあとで不在だった。清水一家はすぐに跡を追おうとすると、安濃徳の妻「お浪」が仁吉に
  『このクソ馬鹿者、お前なんか死んじゃえ!』
と罵ったが、彼らはあえて反発しなかった。そして河芸郡神戸におもむいてそこで宿泊した。
 翌日、稲木の文蔵が病気なのに南勢からやってきた。そして仁吉一行と安濃徳との間の仲裁を試みた。
  『なんとか出入りを避けて手打ちをしてほしい』
と双方が受け入れる条件を示したのだが、安濃徳が真っ向から
  『絶対に承知できない』
と一貫してこれを拒否して失敗に終った。

 また信濃から時次郎という親分が安濃徳を応援するため、十数名を引率してやってきてこの談判を聞いていたが、あまりの安濃徳の態度にあきれてしまい、子分を引き連れて
 『わしは中立を守るわい』
と言い残して荒神山から立ち去り、近くの庄野宿で滞在しながら様子を見ていた。間接的に長吉を応援する気配でもあった。
しかし安濃徳の激に応じて荒神山に集合した博徒たちは八ケ国におよんだ。
 なかでも甲斐の黒駒の勝蔵の子分で、ドモリの安、大八、長次、伝之助、源弥など、名の知れた連中がやってきた。
また伊豆からは韮山金太などの一家。信濃からも浮浪人たちが続々とやってきた。数の上で長吉と清水一家を圧倒していたが、彼らは八ケ国から来た集団なので、どうみても統一に欠けているのが弱点であった。

 四月六日、
こんどは寿屋琴治という侠客が和解仲裁を買ってでた。
 彼は妻が重病なのにそれを置いて両者の説得をおこなった。
しかし安濃徳ははじめから話を聞こうともせず、そうこうするうちに琴治の妻の訃報に接し、彼はこの地を後にしたので、またしても仲裁は失敗に終った。 
 四月七日、
 神戸の長吉を中心に清水からきた一行は、河芸郡神戸を出発して荒神山にむかった。安濃徳は猟師を雇い入れ、樹木の上から一行を狙撃させようとしたが、はたしてこの作戦が成功したか疑わしい。 
 また甲州信濃からきた黒駒の勝蔵の子分たちは、少し前に清水一家と衝突して争闘に破れていたので、この機会に乗じて仕返しを考えている者もいた。この黒駒の勝蔵は甲斐国八代郡黒駒村の親分、つねに東海道を横行して清水次郎長と喧嘩の末、信濃伊那郡飯田へと逃亡していた。

 このとき次郎長の子分で滑栗村の初五郎という者が、三河の吉良の仁吉方に赴いた隙に乗じて、飯田市内の博徒、畑中の鉄五郎、鯛屋鶴五郎などを煽動し、初五郎の家族と同人宅に寄寓していた他国者の博徒を殺害し、そのうえ家屋を焼いたのである。
 初五郎は怒りに燃え、清水におもむきいて次郎長に告げた。
次郎長は
  『ただちに子分十七名を派遣し、事の経過を調べ
   させるが、返事があり次第、自分もすぐ後を追う』
という。そこで十七名は信濃に至り、有無を言わせずただちに鉄五郎と鶴五郎など一家を殺害し、家を焼いてしまったのだった。これを聞いた次郎長は
  『なんとおろかな!早まったことをした!』
と怒り、近所の住民にも不安を与えた罪を謝罪し、放火は自分の意思ではなかったと世間に言い、十七名を斬に処すため後を追ったのだが、あにはからんや仁吉宅でこの騒ぎに巻き込まれてしまったのである。

 吉良の仁吉の後見五人のうち、滑栗の初五郎はその行動はきわめて敏速で知られ、黒駒の勝蔵には家族を殺されただけでなく、自分の親分である次郎長の妻もまた勝蔵の子分に殺されている。その怨恨からも勝蔵の子分を殲滅しようと意気に燃えていた。
 神戸を出発した一行三十余人は荒神山観世寺を目標にして進んだ。 
 
 この事態になってようやく幕府領内の御用聞(準警察官) 福田屋勘之助、梅屋栄蔵たち四十余人が手下を引き連れ、博徒たちを解散させようと出張してした。神戸からの長吉、清水の一行はこれを聞いて
  『安濃徳の方で解散するなら、我らも命令に従う』
という。そこで彼らを途中で留め置き、手下の留吉と春太郎ほか廿人余に監視を命じた。そして御用聞の残り廿人を引率して荒神山に到着し、 安濃徳に対し
  『直ちに解散せよ。この紛糾はこの郡一帯に留まらず、
   八ケ国にまたがって波瀾を起すことになり、これは
   絶対に許せない』
と通告した。そして庄野宿までいったん戻り安濃徳からの返事を待った。
    戻る    (続く)
「仁吉の銅像」

参考文献   龍渓隠史「位田武左衛門聞き書」 

  
 
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