東海道の昔の話(41)
亀山藩領内の切支丹  愛知厚顔    2003/11/8投稿
 
 寛永十四年(1637)、九州島原と天草で一揆が起こった。
総大将は紅顔の美少年、天草四郎である。幕府はその知らせに驚愕した。ただちに東海以西の大名たちに号令をかけ、鎮圧を命令した。
しかし彼らの団結と抵抗が激しく、本拠にした原城を幾重にも取り囲んで攻めたが、なかなか陥落しない。幕府首脳たちははあせった。

 この一揆にははキリシタンだけでなく、関ヶ原以来は合戦もなくなり、主家を失った浪人や失職した武士たち、あるいは無頼の連中も沢山参加していた。これは一揆側と攻囲側の両方に共通している。
徳川政権が成立して日が浅く、まだ安定していないとき、もし全国にまで一揆が波及すれば大変なことになる。またちょうどこのころ大凶作がつずき、とくに寛永十三年(1636)はひどかった。
 それなのに島原、天草の領主、松倉勝家や寺沢堅高たちは、貧しい領民から容赦のない収奪を行った。一揆は起こるべくして起こったのである。この乱は基本的には幕藩封建体制への農民の反抗であり、それに加えてキリシタン弾圧が、彼らの団結を強める結果になった。

 幕府は島原の乱の鎮圧を急いだ。そして幕府連合軍の総大将に三河小大名の松平重昌を任命し、攻撃に当たらせた。しかしキリシタン側が約三万数千人に対し幕府側が十五万人。圧倒的に多数なのに原城は陥落しない。その原因には信仰にもとずく一致した団結があったが、もう一つに攻囲軍の足並みが揃わなかったこともある。
 総大将の松平重昌は僅か六万石の禄高。その指揮下に入っている大名の方が禄高が多く、官位も高いという矛盾。これでは総大将がいくら号令をかけても動かない。とうとう頭にきた松平重昌は率先して出撃し、総大将みずから抗議の戦死をとげてしまう。
 私(厚顔)は西尾にある重昌の菩提寺に行ってみたが、寺の裏山には遠く九州まで派遣され、命を落した重昌や藩士たちの苔むした墓が、累々と重なっていたのに胸をふさがれたのを覚えている。

 これで幕府首脳は愕然とする。総大将に知恵伊豆と呼ばれた老中、松平信綱を任命した。再度の失敗は許されない、慎重かつ徹底した攻撃を行った。彼はオランダ船に依頼して海上から砲撃をも加え、外国勢力も利用した。その結果、翌年二月に乱は鎮定させることに成功したが、一揆の三万七千人のほとんどが殺戮された。まことに悲惨極まりない結末であった。

 このとき、この亀山藩領河芸郡三日市村の農夫が三人も、一揆に加わっていたことが判明した。彼らはどうやって数百里の遠い土地の乱に参加したのか、どうやって信仰を持つようになったのか…。
彼らが死亡したいまとなってはまったく不明だが、こんな亀山領の中まで禁制のキリシタンが浸透していたのに驚くのである。

 ザビエルによってわが国にもたらされたキリスト教。
三十年を経過し織田信長の時代になると、彼の融和政策もあって全国で約十五万人の信者に増えていたという。それが豊臣政権末期から一転して弾圧をうける。
 バチカンから聖人と認定された長崎の廿六人のうち五人は尾張の人である。キリシタンの中心は九州、山口、京都、堺、安土などだが、私(厚顔)の住む町でも弾圧による犠牲者が出ている。
とくに徳川政権の島原の乱の前後には数回の弾圧を受け、信徒が八百人とか二千人とか処刑されたり、入牢や転向を強制されている。

 ある村などあまりにも隠れキリシタンが絶え間なく出てくるので、村の半分を断罪に処したこともある。村の人口が回復したのは明治維新を迎えてからだった。
 尾張地方の中心の一つは花正(津島市近郊)である。
ここで一人の老人が熱心に布教し、最盛期には三百人ほど信徒にしていた。彼は高山右近の父、高山飛騨守の家臣だったが、このキリシタン大名が大和の沢城(榛原市)城主のころ彼から洗礼を受けた。そして故郷の尾張に帰って信仰を広めていた。

 この沢城は伊勢国の北畠氏が支配していたことがあった。
この縁から人の往来も盛んだった。だから大和から伊勢へとキリシタンが伝わったと推定する学者もいる。もっともイエスズ会の布教関係者が本国に報告した文書によれば、ポルトガルの宣教師、修道士たちの足跡は日本全国に及んでいるし、その後の厳しい弾圧もはるか蝦夷地にまで及んでいる。
 仙台で元和九年(1624)に処刑された八人の出身地は、地元のほか、豊前、但馬、遠江、越前、会津、相模、越中、それにポルトガルの宣教師もいた。これらをみても亀山領の農民の間にまで、信仰が伝わっていても別に不思議ではない。
 人々の心の中の信仰を暴力や強制で絶ち斬る、こんなことは絶対にできないことである。
 
 明治十七年の夏。フランス人のゴブールという人が亀山にやってきた。彼はキリスト教の宣教師か、あるいはそれに類する人だったらしい。
 彼は町の辻や会堂で演説を繰り返し行った。そして
  『伊勢の天照大神が日本では一番尊敬されており、
   皆さんはその御名を知らない人はいません。
   しかしそれは日本の国内だけのことです。
   外国ではまったく知られてません。それに比べ
   亀山藩領三日市村の三人の殉教者は万国にその
   名が知られています。
   彼らは伊勢の神様より偉大な人物なのです。』
と言ったのである。それを亀山東町の林某という人が聞いて大いに怒り
  『わが国の神になんて不敬なことを言うのだ!
   すぐに亀山から出ていってくださいッ!』
とゴラールに退去を求めたところ、ゴラールはそれにもめげず
  『この神の教えに殉じたのは、まことの聖人な
   のです。』
と再度論争をふっかけ、とうとう大論争になってしまった。
 この当時の西洋人は日本の国情に暗く、このように人々を激怒させることが多かった。しかしこのとき亀山の人々は
  『ゴブールの説く話は間違っているけれど、遠い国
   へやってきて、自分の考えを堂々と主張する大胆
   さには敬服する』
と噂しあったという。


参考文献     渋谷厚二郎「鈴鹿郡野史」
         松田毅一「キリシタン時代を歩く」
 
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