東海道の昔の話(43)
    日本鋳物師頭      愛知厚顔    2003/11/14 投稿
 
 平清盛が権勢をほしいままにし「東大寺の大仏」
  「平氏にあらずば人にあらず」
と言われたころ、奈良興福寺の僧兵が大きな蹴鞠の玉をつくり
  『これは清盛の頭なり、打てや踏めや』
と囃て遊んだ。またまもなくこの僧兵が大軍で攻めてくるという。
 これを聞いた清盛は烈火のごとく怒り、息子の重衡に兵四万をつけて奈良に差し向けた。興福寺、東大寺を中心とする僧兵七千はこれを迎え撃つ。俗に[平氏の南都攻め]といわれるもの。合戦は夜になっても一進一退で決着がみえない。頭にきた平重衡は
  『火をかけよ』
と命令した。このため南都(奈良)は炎上し東大寺が焼け落ちた。
平家物語には
  「大仏の御頭は焼け落ちて大地にあり、御身は
   融合(ワケアイ)て山の如し、大仏殿にて、
   焼死者千七百余人とぞ」
とある。治承四年(1180)の出来事であった。

 この大仏は天平の昔、全国国分寺の総本山として国家の総力を傾けて作られた巨大なもの。銅製の頭部は八層に分けて鋳造されている。この南都攻めで焼け落ちた大仏を含む、東大寺全体の復興総責任者に、俊乗坊重源上人が選ばれた。
彼は中国に留学し研鑚を積んだ経歴があった。ときに六十一才。
争乱の時代の復興は困難をきわめた。しかし大仏と大仏殿、回廊、中門、南大門などの伽藍のほとんど、八十六才で没するまで建て直しに成功した。

 このとき重源上人は大仏の修復に、中国から仏工の陳和卿を招き起用した。それは中国の新技術に工夫を重ね成功させるためだった。そして実際の鋳造をする鋳物師集団の頭梁に、亀山出身の神田五太夫が選ばれた。
 陳和卿は修理の設計計画を立案し、それに従って五太夫の指揮する鋳物師たちが修理を担当した。この修復は困難をきわめたが、文治三年(1187)の四月から建久六年(1195)にかけて行われ無事竣工した。
 五太夫はこの仕事に全魂を傾けて取り組み、成功させのだった。

 このことは重源上人や後白川院も認めた。また広く世間の人々も知るところとなった。大仏はビルシャナ仏と呼ばれる。これはマカビルシャナ仏の略であり、マカ(摩訶)とは「大きい」ということ、またビルシャナは「太陽の別名」でもある。すなわち
  『五太夫は大きな太陽を修復した人だ』
という意味になる。そのため五太夫の名声は全国に鳴り響き、各地の寺院や社で修復、あるいは新しい鋳造に招かれるようになった。

 五太夫は本姓を米川といい、のち神田姓に変わっている。亀山の本町地内に鍋町の名前が残っているのは、むかし彼の鋳造工房があったことによる。その当時の人々は
  亀山には金物の名人あり
     西に鍛冶の興助、東に鋳物の五太夫
と噂した。輿助は鍛工の名人といわれた人である。

 仁治三年(1242)彼が七十七才の喜寿の年、朝廷は彼に従五位下の叙勲を与えた。そして
  「日本鋳物師頭(ニホンイモノシノカミ)」
の名誉ある称を名のることを認めたのである。また亀山に土地を給わった。それは亀山の江戸口から東の井田川村井尻(昔は井後)の大字和田の西に至る、約廿三万坪の広大なものであった。

 文永十一年(1274)二月十六日永眠す。享年百六才とも伝えられ、おどろくべき長寿の人であった。

 
参考文献     柴田厚二郎「鈴鹿郡野史」

 
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