東海道の昔の話(44)
     老中を辞退     愛知厚顔    2003/11/19 投稿
 
 亀山藩主、石川総和は嘉永二年(1849)御年は三十四才、壮年期をむかえて働き盛りである。彼は過ぎる天保の大飢饉では、領民に藩米四千石を提供したり、大規模な新田開拓を奨励して成功したり、その治世実績は江戸まで聞こえていた。その年のはじめ江戸屋敷にあった彼に幕府から内示があった。  
  「幕府の老中に推薦したい」
それも上席としてである。しかし老中職は日本全体の政治を見る立場、自分の治める藩に何らかの憂いがあっては勤まらない。また多額な出費も必要となる。
 そのころ亀山藩は天保の大飢饉のあとでもあり、また支藩の常陸の石川総貨に相当額の援助をしたため、藩債ならびに本国の財政はまったく困窮の極みにあった。藩の借金は三十万両にも達している。うえに、江戸屋敷の運営費や参勤交代の諸経費は暴騰し、藩の財政は危機に瀕している状況だった。

 そのうえ江戸在勤の藩士と国許の諸士との意思の疎通、この確執はもう百年以上も前から続き、その溝の広がりはいまにも衝突しそうな空気であった。江戸在勤者は国許を
  『彼らは天下の形勢を少しも判らない、無能無知なる集団だ。』
とけなせば、国許は江戸の連中を
  『国元の様子を知ろうともしない、口ばかり達者な連中だ。』
とこき下ろす。

 いまや時世は武士と農民で国家を維持するときは過ぎ、商業や工業に目をむけ、歳入の増加を考えるときなのだが、幕府の施政者はすでに米経済の時代でないのに気がつかない。
だからこの頃の米穀問題や物価の騰貴は財政、経済の根本的改革が必要な社会問題でもあった。米を重視の経済機構が破綻しそうになったきっかけ、その原因のひとつは大名の参勤交代にあった。そこで享保七年に幕府はいったん参勤を緩めたのだが、室鳩巣は
  『参勤制度を緩やかにすれば、諸候が富裕となり、
   その力が強大になって中央を圧迫する』
と論じたため、享保十六年には元に戻されるという、くるくると目の廻るような政策転換が行われていた。

 異常な物価の騰貴や飢饉、風水害。先行き希望が持てない庶民の生活。これでは農民一揆、米騒動が各地で発生してもおかしくない。それでも幕府や諸藩は、まだ米中心重視の経済政策をいっこうに改められなかった。
 当時、亀山藩の歳入は約十六万俵であり、天保九年の米相場から算出すると、わずか六万両にすぎなかった。藩債に年七分の利息を付与すると、二万三千俵が必要となる。また本国や江戸在勤の藩士にも、俸禄米として二千五百俵が必要である。
 こんな状況で、もしも米の価格が下落して一俵が一歩二朱ともなると、利息の支払いには六万俵も必要となる。藩債の利率は変らないが、米の価格は毎年上がったり下がったりする。だからもし米が一俵一両以上に高騰したら、亀山藩はたちまち破産してしまう。

 この当時、亀山藩は名君といわれた石川昌勝(慶安四年〜寛文九年の藩主)の時代のように、財政的に豊かで恵まれておれば、藩主の入閣は家臣一同の希望するところだったのだろうが、藩債の利息に多額の支出あるうえ、歳出歳入の均衡をとろうとすれば、倍額以上の重税を農民に課すことになる。それをすれば必ず農民一揆が勃発するのは明らかだ。

 亀山藩国元で奉行職にあった佐藤四兵衛は、当時四十六才の分別盛り。彼は主君の老中推薦の情報を聞くと、さっそく江戸におもむき主君に拝謁し言上した。
  『殿、藩の財政が困窮のときです。どうか思い
   止まってください』
縷々と藩の窮乏を訴えて主君を諌めたのである。しかし江戸家老は国許の状況に暗い。その考えと立場は違った。
 江戸在勤年寄、加藤三右衛門は
  『またとない機会です。藩の名誉でもあり、殿には
   なんとしても入閣してもらわねばなりません』
佐藤とまったく反対の意見を強行に具申した。そのうえ卑劣にも彼は佐藤四兵衛の滞在手当の支給を停止し、いやがらせをして対抗する。しかし佐藤はそれにも屈せず、なおも主人に
  『どうか思い止まってください。
             これは亀山藩にとって最良の選択です』
と懇願した。
 その熱意に負けてとうとう石川総和は老中就任を辞退したのであった。

 嘉永四年(1851)藩主、石川総和は江戸から亀山城に帰った。
そして佐藤四兵衛の奉行職を罷免し、俸禄五十石を削減した。さらに同じ考えの大目付、近藤伊太夫ほか数名も連座して処分された。
 あとで判明した事実では、佐藤四兵衛は主君に諫言しても、とうてい聞いてもらえないだろうと、ひそかに閣老の松平乗全、松平忠優たちに接触し、亀山藩の内情を訴え、入閣を阻止したことが発覚したのだった。
 彼らは君命に違反しても、国元の利益になると行動したのだが、君主をないがしろにした行為は許されず、この処分は妥当だとの評価であった。
 
 しかし老中職辞退は結果として正しかったようだ。
このあと間もなくペリー提督の率いる黒船が来航し、幕末動乱の時代に突入していったのだから…。もし総和が老中になったとしても、彼が自分の能力手腕を発揮する前に、国元の財政が先に破綻してしまい、下手をすれば農民一揆が発生したかも知れず、そうなれば藩は改易、御取り潰しの運命を辿ることになる。
 どうみても老中職は無理だったと思われる。
 
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