東海道の昔の話(46)
明和五年の農民一揆1   愛知厚顔    2003/11/28 投稿
 
【一揆の発端】
明和三年(1766)。
 幕府の命令で亀山藩は甲斐国の河川浚渫工事を行った。
このため藩は莫大な出費となり、藩の財政は延享元年の移封、寛延八年と明和元年の朝鮮通信史送迎、そしてこの甲斐国での普請などで危機的状況に陥っていた。
 そこで守山御用金、甲州御用金、桑御用金、茶年貢などの名義で、臨時に租税を徴収するようになった。農民はこれできびしい重税負担となり、怨呪の声をあげてたびたび嘆願書を提出した。
しかし庄屋や大庄屋たちは、亀山藩の財政危機をよく承知していた。

  「増税は苦痛だが、これは止むをえないだろう」
と認め、農民の不満の声は藩上層部には届かないようだった。
いや届いていても、もうどうしようもない実情だった。
 すでに藩でも命令を絶対とする古いやり方は崩れ、社会に適合させる必要に迫られていたので、すこし商人や豪農の意見に耳を傾けるまでにはなっていた。
 そのころ亀山西町に鯨屋源兵衛という商人がいた。豪胆だが自分の才覚におぼれる欠点もあった。しかし機知に富んでいた。
 彼は豪農の羽若村(亀山市)の服部太郎右衛門、八野村(鈴鹿市)の伊東才兵衛と三人の名で明和四年(1767)秋に建白書を提出した。

その内容は
  「文録三年検地のとき荒地として年貢御免の処分を
   受けた田畑のうち、いま良田となったのが非常に
   増えている。これを新田に組入れると亀山藩は
   一万石の増収が見込まれ、藩の収入増加は間違い
   ないでしょう」

 豊臣秀吉が行った文録年間の検地から百七十四年を経過し、いま当時の荒地は土地改良されて美田になっている。亀山藩の法定石高は一反平均一石三斗一升であり、地租は七斗八升六合を納付する。
 豊臣時代に上田が一石、中田が八斗、下田七斗の地租を納付していたのに比べても、この税の負担は重くはないのだが、守山御用金、甲州御用金、桑年貢、茶年貢など。数え切れないほどの課税があり、結局は重税になってしまう。まして荒地の認定なら課税はゼロだったのが、もし下田に格付けになれば七斗の地租を納付することになる。

 しかし藩は背に腹は変えられない。建白書をみて奉行の杉田藤左衛門、代官猪野三郎左衛門たちが家老の近藤綾部に具申した。
当時の藩財政はまったく切迫していたので、これをみた重役はただちに実行するよう、つぎの指示を発した。
 一、領内の農民は米穀を他領に売却することを禁止
 一、領内の農民は公設米問屋以外に米穀の販売すべからず
 一、領内の農民は公設問屋の指示する場所まで米穀を
   運搬すること
 一、公設問屋は安くて粗悪な伊賀米を購入販売し、
   領内産の米は四日市または白子より輸出すべし
 一、藩士の扶持米は伊賀米とする
 一、公設米問屋の利益はすべれ上納すべし
 これでは内緒で余剰米を売ることも、運搬することもできない。
まったく過酷な農民いじめそのものであった。

 明和五年(1768)春のある日。
 亀山藩代官の奥村武左衛門宅につぎの男たちが集められた。
いずれもそれぞれの村の農民を代表する者である。その中で 大庄屋 野村の伊藤兵衛門と兵助。下大久保村(鈴鹿市)の大久保彦三郎と彦十郎。   関駅(関町)の市川善左衛門と春吉。
国府村(鈴鹿市)の打田正蔵と庄左衛門。
野尻村の打田権四郎。若松村(鈴鹿市)の加藤孫兵衛。

大庄屋とは下に複数の庄屋があり、それらを統括しながら藩組織の一端を担い、司法と行政の二権を司る重要な立場である。
ほかに目付庄屋、帯刀庄屋などが出席した。
 藩の方からは郡代の大久保六太夫、奉行の杉田藤左衛門、代官の西村直八らが出席した。全部で三十数人が集まった会議である。
会合の目的はもちろん地租、年貢の改定であった。代官の奥村は
  『このところ、御領内の農民から地租、年貢の
   査定が平等でないとの訴えが増えている。これを
   放置しておくことはできない。なにか思案はない
   だろうか』
と湾曲に話を切り出した。大庄屋たちはお互いに顔を見合わせる。
  「いちばんふれてほしくない、いやな案件だな」
顔からありあり読み取れる。それはこのところ農民の間に、増税増税の追い討ちで、不平不満がくすぶっていることを、承知していたからである。
 
奥村の発言に一人が質問した。
  『私の村の農民は皆、お役人様の査定に不満を申
   す者はおりません。両隣の村でも同じです。
   何かのお間違いでは…』
この発言がきっかけで、すぐに別の大庄屋がしゃべりはじめた。
  『いやそれはどうでしょう。私の村では荒地を良田に
   改良しても、農民が黙っておれば地租は以前の荒地
   のまま査定されて安い。これでは正直者が馬鹿を見る
   と不満を漏らす者がいます。』
  『そうです、農民が荒地を必死に努力して開墾し、
   良い田畑に変えたのですから、しばらくは荒地の
   ままで、地租も安く認めてほしいです。』
ようやく本音の発言が出たとき、座はシーンと静まった。
大庄屋たちは、
  「これ以上、増税をしたら一揆がおこりますよ」
と農民たちの実情を訴え、反対するべきだったが、このあと誰も租税値上げ反対の意見を述べなかった。大庄屋たちは藩の財政事情をよく知る立場であり、幕藩体制を支える組織の一員である以上、それが言えなかった。農民側に立って発言する庄屋はいなかった。
そのため会議の行方が一揆の発生を左右することに、誰も気がついていなかった。
 このとき郡代、大久保六太夫がぴしゃりと
  『皆の言うことはもっともである。農民たちが汗水
   流して働いた努力の結果は尊重しなければならぬ。
   しかし掟は掟、法は法であり、何人でもこれを守
   らねばならぬ。むかしは荒地であっても、いまの
   姿が良田ならば、現在の実態で査定し課税するのが、
   法を守ることになるのではないか。』

これで一座はまったくシーンと静まってしまい、このあと大庄屋たちはまったく発言しなくなった。代官の奥村武左衛門は
  『どうだろう。文録三年いらい長いあいだ検地の実査
   もしていない、この秋に田畑検分をやってみて、その
   結果によって地租を査定すれば、不公平は無くなると
   思うが…。』
  『実際に検地した結果なら、誰も不満は出ないでしょう』
出席した庄屋全員が押し黙って認め、領内の農地検地の実施がきまったのである。

 この代官奥村宅での決議は秘密だったが、またたく間に領内各地に伝わった。農民百姓は大恐慌を起した。そしてひそかに各村の山林、あるいは原野に集合し
  『これ以上増税になっては生きていけない。
   いかにしてこの検地を阻止できるか』
と相談を始めた。もう検地を絶対反対という方向になっていた。
そのとき農民の中で最も人望があり、また勢力もあった伊船村(鈴鹿市)の豪農、真弓長右衛門が檄文を作成した。その内容は

  「来る九月十三日、広瀬野に八十三ケ村の十五才から
   六十才までの男子は集まれ。一ケ村に五人、三人は
   鉈、鎌、鋸、槌、など持参のこと。また竹竿に紙旗
   をつけ村の印を画いて御持参すべし、
   また食器と三日分の食料も用意すること。村方役人
   の指示は無視すること。
            御領分 八十三ケ村連名
                広瀬野源太夫    」
 広瀬野源太夫とは、広瀬野に住む伝説上の妖怪狐の名前である。
これはもう完全な決起の呼びかけである。これを亀山藩領内八十三ケ村の隅々まで配布し、農民を煽動したのである。当時の広瀬野(鈴鹿市)はまだ開拓されない原野であり、牛馬の餌となる草を刈り取ったり、屋根葺き用の茅をとる野原。萩や桔梗、オミナエシの花が咲き乱れる原であった。  

 藩ではそのころ検地を始めていた。
まず阿野田村、岩森村、徳原村などの調査が終了した。九月に入り他の村落四ケ村の下検査に着手した。このころすでに
  「広瀬野へ集合せよ」
との激文が村村に飛んでいたのだが、検地の役人たちはこれをまったく知らなかった。検地に従事したのは郡代の大久保六太夫、奉行の杉田藤左衛門、代官の奥村武左衛門、猪野三郎左衛門、西村直八らである。
 彼らは結果として農民の怨みを一手に買うことになる。彼らは職務上止むをえず行っていることなのだが、農民たちは
  『これ以上の増税は絶対に許せない』
怒り狂って興奮する始末。この民心にはもはや理非曲直を判別する力は失われていた。
 この怨みは五名の役人と六名の大庄屋に向けられてしまう。
これよりすこし前、宝暦四年(1754)美濃郡上で起こった農民一揆で、幕府の下した判決が農民の間で、いわゆる義民として崇拝する思想を生み出し、大きく影響したことは否定できない。

 明和五年〔1768〕九月十一日。
 真弓の檄文に触発された亀山野村の農民たちは動揺した。
  『真弓長右衛門の煽動に乗って行動したら、南と北
   の野村に住んでいる武士に殺されるだろう。また
   真弓に味方しなかったら彼ら一揆の連中に村内は焼き
   討ちされる。どうすればよいか…』
そして喧喧がくがく議論の末
  『一部は一揆に参加し、残りは無関係を装い態度を
   はっきりさせない、これでいこう』
とした。
  『だが一部分でも一揆に参加したら、首魁と目される
   者は死刑に処せられる。しかし死を覚悟で参加する
   者を決める必要がある』

皆は悲痛な気持ちで
  『この役目は宅蔵さん、あんたしかいない、頼むわ』
と無理に説得して宅蔵を指導者に選んだ。そして
  『もし宅蔵さんが死刑になったときは、村全体で金穀
   および田畑を宅蔵さんに与え、家を安全に守ってやる』
と約束した。それを聞いて宅蔵は
  『この村の安全を考え犠牲になって殺される…、
   言うは易しいが犠牲になる私の心の中を考えてくれ。
   非常に苦しいんだ。私に代わって頭になってやろうと
   いう者は幾人いる?。死にのぞんで田圃を貰っても
   用途がないものを、どうして喜べる?それよりも
   もし死刑になったら、私を神として村費でもって神社
   を建て、末長く拝んでほしい。それならば私は死刑も
   甘んじて受けよう。』
野村の二百戸の農民はこれを聞いて確約し、さらに検討したうえつぎの申し合わせを決めた。

 一、若者で一隊を編成し宅蔵を頭として広瀬野に出発する
 一、指揮は宅蔵のほかは誰も関係してはならない
 一、先方の一揆の頭から「人員が少ない」と咎められたときは、
   後続部隊がが途中で拘束されたので、我らだけ脱出して
   参加したと言うこと
 一、亀山城から討伐の出兵があったときはすぐ逃げること
 一、野村在住藩士から「何処に行ったのだ」と詰問されたときは、
   宅蔵が村の若者を煽動して出かけた。我らは少しも知らな
   かったと言うこと、その証拠に一家の主人は宅蔵のほか一人
   も参加してないと言う。
これを見ても、一揆の中には、いやいや参加している村もあったのが判る。

 この当時、南野村には八十六戸、北野村に廿七戸の藩士の家があった。このほか大庄屋が一戸と、目付庄屋一戸が野村に居住している。
 野村の大庄屋は伊藤兵左衛門。彼は九月十二日朝に宅蔵が青年たちを組織して出発する計画を知った。そこで関宿の大庄屋、市川善左衛門と一緒に従僕を連れ、偵察のため広瀬野にでかけようとしていると、そこへ西富田村(鈴鹿市)の庄屋孫兵衛の長男が飛んできて
  『大変だ!一揆だ!広瀬野へいっぱい集まっている。』
と急を告げた。

 世にいう亀山農民一揆がとうとう起こったのである。

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東町 元大手門にある高札場

 
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