東海道の昔の話(51)
  幕末天狗党の悲劇1  愛知厚顔    2003/12/4 投稿
 
 元治元年(1814)三月廿七日、国学者藤田東湖の遺児、藤田小四郎が率いる尊皇倒幕の同士六十三名が筑波山で挙兵した。水戸天狗党の旗揚げである。水戸藩は徳川御三家でありながら、藩内には二代、光圀以来の尊皇の気風があり、それが九代、斎昭公の時代になると学者の藤田東湖たち下級武士を登用し、海防と軍備の充実、藩校の設置と検地など政治改革を行った。
 やがてペリーの来航で対外危機になると、斎昭は幕閣に入り政治の中央で発言する。そして彼の側近、藤田東湖たちは全国の尊皇攘夷志士のシンボルになっていた。
 尊皇攘夷とは
  『天皇を敬い外国の勢力を打ち払おう』
と言う思想である。

 しかし幕府は開国に踏み切ってしまう。斎昭は大老の井伊直弼と対立し安政の大獄で処罰を受けた。これより天狗党と呼ばれる尊皇攘夷派と、これに反対する保守門閥派との対立が激化していった。そんなとき尊攘派の過激グループは三つの大事件を引き起こす。
 萬延元年(1860)桜田門外の変で井伊大老を暗殺
 文久元年(1861)東禅寺のイギリス公使館襲撃
 文久二年(1862)坂下門外で老中安藤信正を負傷させた
それでも自分たちの思う方向に進まない。彼らは
  『もうこれ以上待てない』
と全国各地の尊皇攘夷派の志士たちと連携し、幕府に攘夷の実行を挙兵行為で迫ったのだ。彼ら天狗党には、水戸藩士だけでなく、尊攘思想に共感する農民や商人の子、他藩の武士も参加していた。

  『いま常陸国が乱れて騒然となっている』
という情報は、いち早く江戸亀山藩邸にも伝えられた。
藩は前年から江戸城西丸や竹橋門の警備を命じられており、平常より兵員数は増えていたが、責任者の加藤源五郎は常陸の争乱に備えて
  『いまいっそうの増員派遣をお願いしたい』
と国許に依頼した。そして急遽、派遣されてきた兵員たちを引き連れ、江戸郊外の三ノ輪村まで出かけて演習を行った。
 その中に小林平太郎という平隊士がいたが、ある日とつぜん姿が見えなくなってしまった。
  『オーい。小林はいないかあ…』
草深い武蔵野の原野を隊長の大小姓、加藤源五郎をはじめ、隊士たちも演習を中止して探し回ったが、いっこうに見つからない。二日間ほど探しても無駄だった。しかたなく捜索を打ち切って失踪の処理とした。
 演習の一行が江戸藩邸に引き上げたあと、小林の日ごろの言動について徹底した調査が行われた。その結果、彼は水戸の国学者、藤田東湖にかなり心酔していたことが判った。
さらに三ノ輪村では数人の同僚に
  『俺は脱藩して常陸に行く、一緒にどうか?』
と誘っていた事実が判明した。これで彼は 
  『天狗党に身を投じたに違いない』
と断定されたのだった。

 水戸藩の勤皇派の中でも、もっとも過激な指導者が藤田小四郎だった。そして同じ勤皇派でも少し穏健派に属するのが元水戸藩家老の武田耕雲斎らであり、水戸藩の重役の田丸稲之衛門、山国兵部らも穏健な尊皇思想であった。
 ところが藩の家老や上層部重役は完全な守旧派であり、俗に門閥派または諸生党といわれた。彼らは徹底して勤皇派を弾圧する立場をとっていた。その代表が家老の市川三左衛門である。
 挙兵から間もなく、藤田小四郎の天狗党は次第に賛同する兵の数を増やし、数千名の規模にに膨れ上がった。彼らは藩士や各地の脱藩浪人や商人、在郷農民たちの有志で構成され、中には十二才程度の子供や女も含まれていた。

 亀山脱藩の小林平太郎は、はるばると常陸那珂湊に駐屯する天狗党の本陣を訪ねた。そして
  『私は勢州亀山脱藩の者です。藤田先生
   と生死を共にしたいのです。どうかお連
   れください』
 彼は水戸藩内の派閥云々にとらわれず、あくまで尊敬する藤田東湖の遺児、藤田小四郎に身をあずけたのだった。
  『遠路はるばるご苦労さまです。
   これからは同志です。』
そして他国者が中心の竹内百太郎の隊士に加えられた。この日から小林平太郎は水戸天狗党の一員として、数奇な運命を辿ることになった。
 水戸藩も天狗党の挙兵や軍用金の募金行動を見逃し許しておくわけにいかない。さっそく藩重役を天狗党の説得に差し向けた。しかし本来が尊皇思想に染まっている人たちである。
間もなく彼らも天狗勢と行動を共にしていく。
 この当時、水戸藩主の徳川慶篤は幕閣に席をおき江戸にあった。徳川御三家の紀州と尾張の二藩主は病気と国許に帰っていたこともあり、慶篤は天狗党の挙兵を聞いても、自身が江戸城を離れて常陸に戻ることはできなかった。

 そこで支藩である宍戸藩主の松平頼徳に
  『天狗党の説得と鎮圧をしてもらえないか』
と依頼した。それを受けて頼徳は取るものもとりあえず、平常の大名行列を組んで水戸城に向かった。武器もロクに持たないこの行動が悲劇の因になる。この当時、関東の大名は大なり小なり勤皇思想を持っていた。松平頼徳もほんの少し勤皇派に理解ありと見られていた。これが保守門閥派の心証
を損ねる原因にもなった。
 すでに常陸国の各地では天狗党と市川家老の保守門閥派との衝突が始まっていた。一時は天狗党が優勢だったときもあったが、だんだんと家老の市川保守門閥派とそれを応援する農民軍が押し返しはじめた。
 水戸城の周囲も騒然としており、その真っ只中に松平頼徳の一行が入っていった。彼らが水戸城門前に到着したとき、保守門閥派は城門を閉じたまま迎え入れようとせず、この宍戸藩主に対して鉄砲を撃ちかける始末だった。
 市川はよほど勤皇派が嫌いだったと思われる。

 それに対して頼徳一行も応戦したが、ロクに武器も持っていないので劣勢は疑い様がない。その様子を見た天狗党が松平頼徳の一行に加勢し、水戸城の市川保守門閥軍を攻撃した。このとき市川が城門を開いておれば、頼徳や天狗党も悲劇にならなかったろうと思われる。
 これで天狗党に松平頼徳を加えた一派に対する市川保守門閥派との闘争になってしまった。もう勤皇派と佐幕派云々というより、水戸藩内部の派閥抗争の様相であった。
 この様相を見て全国各地からやってきた勤皇志士たちは
  『こんな私闘には巻き込まれたくない』
と言って、続々と国元に帰っていった。そして水戸城をとり囲んだ天狗派は保守門閥派に敗北してしまう。

 さらに八月になると、江戸や周辺から幕府の命により、常陸周囲の諸藩の鎮圧軍が大挙して出動する。彼らは市川保守門閥軍と共同で天狗党派を攻撃するようになる。九月末には松平頼徳が幕府側に出頭して捕縛され切腹となった。
 彼は水戸藩主と幕府側の依頼で説得鎮圧に出動したのだが、市川たちの水戸城門外締め出しの策略にかかり、天狗党と行動を共にする羽目になった。実に悲劇の藩主であった。
 天狗党も始めのころは軍紀が厳しく守られ、一般住民も彼らの理念や行動に賛同していたのだが、一部の過激派中の超過激派が町家を焼き討ちしたり、住民を虐殺したりの乱暴を行ったため、だんだんと住民の心も離反していった。

 松平頼徳の切腹により、ひと区切りをつけた幕府の諸藩連合軍と市川保守門閥軍。いよいよ劣勢となった天狗党に総攻撃をかけてくる。それを知った天狗党の指導者、藤田小四郎、武田耕雲斎たちは今後の方針を相談した。
 その結果、彼らは奥州街道に沿った根拠地の常陸北部の大子村を出発し、
  『常陸を出て京都にむかおう』
となった。それは京都で禁裏守護総督をしている一橋慶喜に会い、彼の取り成しで朝廷に尊皇の意思を訴え、再起を図ろうとしたのであった。このとき武田耕雲斎、藤田小四郎らに率いられた歴戦の天狗党勢力は千余名であった。
   氷刃不渡一滴血  西風払去筑波雲
 筑波の山にかかっていた雲も西風が吹き払ってくれた。
常陸の混乱これで静まるだろう。との期待の漢詩である。
このとき亀山脱藩の小林平太郎が所属していた竹内百太郎隊は、すでに戦死したり脱走したりして半数近くに減少していた。それでも平太郎は
  『京都を目指すとなると、亀山にも立ち寄
   れるかも知れないな…』
と西の空を眺め期待をふくらませていた。

 この争乱の真っ最中に亀山城主、石川総修にむけ
  『支藩の常陸下館城主、石川総管の居城が
   危ない。支援を願う』
との飛脚が江戸藩邸に届いた。それも常陸の各地で残虐な殺戮を繰り返した、天狗党の中で最も過激な田中愿蔵の一隊が迫っていた。それを知った江戸駐在の家老は山本弥五郎という隊士に
  『どんな形勢か探って参れ』
と命令をだした。弥五郎は一人で馬を飛ばして下館にむかった。下館藩の侍士は彼を藩境まで出迎えた。以下は実際の問答記録である。
下館藩士は
  『お手前は亀山の宗家より来られた武田耕雲斎の墓(敦賀市)
   援兵ですか?』
と聞いた。弥五郎は答えて曰く
  『その通りです』
下館藩士は頭をかしげ再び問いあり
  『それで隊長の姓名は何と言われる?』
答えて曰く
  『山本弥五郎、すなわち私です』
三たび問うて曰く
  『して兵の員数はいかほどありや?』
答えて曰く
  『隊長にして兵卒を兼ねるなり』
これを聞いた下館の士卒は唖然として声も出なかったという。
 しかしあとになって江戸の亀山藩邸から山本黙、堀池幸助らに引率された本家の援兵が下館城に到着し、支藩の人々を安心させている。
     不施一箭戦雲晴 不露一鉾衆敵散
 やがて天狗党も常陸から西方に進撃を開始したので、幸いにも下館城も藩士たちも戦乱に巻き込まれることなく終り、やれやれと胸をなで下ろした。 

              〔続く〕

 参考文献   柴田厚二郎「鈴鹿郡野史」
   吉村昭「天狗争乱」 島崎当村「夜明け前」  
 
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