東海道の昔の話(54)
 冥府対談、亀山敵討1   愛知厚顔    2003/12/15 投稿
 
厚顔の口上
  『皆様こんにちわ。本日はかくも大勢の方々のご来場を給わり、まことに有難うございます。この対談を企画した者として嬉しいかぎりです。
 さて石井兄弟の亀山敵討は元禄十四年(1701)五月九日でした。討った側の石井兄弟、討たれた赤堀水之助さんも冥府に旅立たれてすでに三百年。かの地ではすでに恩讐を越えられ、親睦を深められたと承っておりますが、この企画に心よくご賛同を頂きご出席されました。まことに感謝に耐えません。なお司会には近松半二先生をお願いしました。先生は〔傾城阿波鳴門〕や〔本朝二十四考〕などで有名ですが、とくに亀山敵討題材にした〔道中亀山噺〕は傑作中の傑作といわれております。では先生をお迎えしましょう。近松半二先生どうぞ』

(近松半二登場)
近松  『過分なご紹介をいただき恐縮です。近松です。
     馴れない司会ですが、せいいっぱい勤めさせて頂き
     ますので、どぞうよろしくお願いします。石井兄弟
     と赤堀さんに登場してもらいましょう。どうぞ』
(石井源蔵、半蔵と赤堀水之助が登場)
近松  『敵討からすでに三百年たち、あの世ではお三人は仲
     良く昔話などをされ、思い出にふけっておられると
     聞いていますが、あらためて大勢の皆様の前で握手
     してください。』
石井源蔵『そのせつは大変つらい思いをおかけしました。
     あのときはあれしか方法がなかったのです。どうぞ
     お許しください』
赤堀  『いやいやこちらこそ若気の過ちでした。石井家の
     皆様には永くてつらい御迷惑をおかけしました。
     申し訳ありません。』
    (三人は握手)

近松  『はい。これで本日の対談に入れます.。さて石井家
     の御父上と水之助さんの御父上は知り合いだったの
     ですね?』
赤堀  『そうです。私の父が大垣藩の戸田氏に仕えていた
     当時、石井宇右衛門さんと知己だったと聞いていま
     す。』
源蔵  『たぶん仲のよい同輩だったのでしょう。』
近松  『石井家の父上が浜松城主、青木因幡守の家臣になり、
     主君が大阪城代に任じられたので、一家は大阪に住
     んでおられた。』
半蔵  『はい。父、宇右衛門は槍術の達人でしたから、若い
     藩士がたくさん習いにきていたようです。』
近松  『その石井宇右衛門さんに、水之助さんが預けられ
     た。』
赤堀  『そうです。私は青年になるにつれて、だんだん
     高慢になっていきました。将来を心配した養父が
     石井さんのお父上に、男としての躾や教養、たしな
     みを身につける養育を依頼したのです。』
近松  『石井家に寄寓しても、なかなか悪い性格が治らなか
     った。』
赤堀  『まったくです。私は当時、赤堀源五右衛門と名乗っ
     てましたが、浪人の身で就職(仕官)先を必死に求
     める日々でした。また先生に槍を教えてもらいまし
     た。自分では上達したつもりでしたが、いくら修行
     しても先生には及びません。ほかの学問でも先生に
     認められるのはいつになるやら…。仕官はどうなる
     やら…廿一才から廿三才ごろまで毎日悩んでました。
      私はあせっていました。ストレスがたまっていた
     んです。』
近松  『そこで自分より弱い相手に槍を教え、相手を負かす
     ことで鬱憤を晴らそうとしたんですか?』
赤堀  『先生に指摘されるまでもなく、自分が未熟なことは
     自分が一番よく知っています。そんなとき先生から
      「まだ未熟な身だから人に教えるな」
     と何回も注意され、カッと腹を立てたのです。痛い
     ことを突かれた逆ギレでした。』

源蔵  『ちょっと待ってください。それは私が書き残した話
     が元になっているのです。父の側にも人に恨まれる
     悪い性格がありました。とくに父が先妻を亡くした
     ばかりだったので、水之助さんが京都から後妻の話
     を持ってきてくれたのです。その縁談がうまくまと
     まり、いざ結納というときになり理由もなく破談に
     したのです。しかも先方と赤堀さんにお詫びもロク
     にしない。こんな性格では人に嫌われますよ。』
近松  『しかし水之助さんは、先生に自分のほうが腕が上だ
     と思って、立合いを申し入れた。』
赤堀  『カーッとなる短慮な性格です。これを父も心配して
     いたのでしたが…。先生との立合いも予想どうり
     簡単に私が負けました。』
近松  『それを恨んで貴方は先生を手にかけてしまった。』
赤堀  『まったく浅慮でした。申し訳ありません。
     延宝元年(1673)十一月十八日の夜です。私は先生が
     外出された隙に家に忍び入り、欄間に架けてあった
     先生愛用の十文字槍を盗んで待ち伏せました。
      そして先生が帰宅されたとき、私はものも云わず
     刀を抜いて斬り付け、槍をたぐって突きました。
     こんなむごい卑怯なことを…私はよくも(泣く)』
近松  『貴方はそのまま逃亡してしまった。』
赤堀  『先生の息が絶えたのをみて私は外に出たのですが、
     石井家の従僕、仁左衛門さんと出会ったので、
     無慈悲にもこの人も切り捨てました。そして逃亡し
     てしまいました。』
源蔵  『このとき父は享年六十一才、三男の私は五才でし
     た。』
半蔵  『私は四男で二才でした。』
赤堀  『私は廿三才でした。堂々と名乗りもかけず、先生を
     闇討ちにして逃亡したことが、終生あなたがた石井
     家の人々に狙われる身になりました。自業自得です
     ね。』
                          (続く)  
 
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