東海道の昔の話(56)
 冥府対談、亀山敵討3   愛知厚顔    2003/12/15 投稿
  近松  『三之丞さん返り討ちに成功した赤堀さん、それからどうしました?』
赤堀  『高札で養父の仇討に成功したことを宣伝したあと、
     叔父を頼って亀山にいきました。叔父は亀山藩板倉
     候の家臣で青木安右衛門と云い、二百石、東台に住
     んでました。』
近松  『その叔父さんの推挙で、藩主にお目通りしたんです
     ね。』
赤堀  『はい、百五十石の高禄で召し抱えられました。
     これは高札宣伝の効果で世論が私に味方したのと、
     江戸城中でも諸大名の間で話題になったこと、また
     お目見えのときの藩主重常候に与えた印象が良かっ
     たことにもよるのでしょう。』
近松  『当時の亀山藩は城代家老の板倉杢右衛門の知行が
     千三百石、家老の大石忠左衛門六百石でした。藩士
     が約三百六十余名のうち、百石以上の者は六十一名
     であり、その他の人は下級藩士ばかりですから、
     浪人の赤堀さんが、いきなり高禄で召抱えられたこ
     とは、極めて異例だったと思いますよ。』
赤堀  『はじめは無役でしたが。馬廻り役、二の丸御番勤務
     と取り立てて頂きました。そして名前も
     赤堀源五右衛門から赤堀水之助に改めました。』

近松  『またどうしてその名なのですか』
赤堀  『少し奇をてらった嫌いもありますが、石井側から仇
     と狙われる身ですから、名前は少しでも語呂の良い
     ほうが…と思ったのです。叔父の青木は苗字の赤堀
     と水之助は繋がりが悪いと云っていましたが…』
近松  『私の台本〔道中亀山噺〕では赤堀水右衛門にしまし
     た。助よりも門のほうが何となく敵役らしく、演出
     効果があると思ったのです。また鶴屋南北さんが
     文政五年(1822)に発表された〔霊験亀山鉾〕では
     藤田水右衛門で、やはり門の名にこだわっています
     ね。』 
赤堀  『おかげで亀山藩では、その後二十一年間も無事に勤
     めさせて頂きました。しかし敵持ちの身です。少し
     も心が安らぐことはありませんでした。』
赤堀  『さて敵討は三男の源蔵さん、四男の半蔵さんに
     バトンタッチされるのですが、お二人は父上が討た
     れたあとどうされたのですか?』
源蔵  『兄の三之丞の仇討が成功しておれば、私たちの出番
     は無かったのですが…。父の宇右衛門が大阪で殺害
     されたとき、私は五才、半蔵は二才の幼児でした。
     私たちは広島在住の親戚、石井九大夫そのつぎは
     丹羽三大夫に引き取られました。』
半蔵  『私は大阪の母の実家に引き取られ、九才のとき、
     こんどは伯父の田中左近に育てられました。この人
     は剣術武芸の達人です。』
近松  『源蔵さんの叔母が丹羽三大夫さんの夫にあたる
     のですね。この叔母さんの養育はどんなでした
     か?』

源蔵  『叔母はいつも
      「私が男なら自分で赤堀を探し、仇討をする
       のだが、年老いた女の身で子供も大勢いる
       ため、これが果たせない。せめてお前を養育
       して大きくなって兄の仇討を遂げるのを願っ
       ている」
     と云ってました。私たちはただ仇を討つために武芸
     に励み、心身を鍛練し艱難に耐える養育を受けてい
     ました。実に淋しい宿命だったと思いますね。』
近松  『源蔵さんは天和二年(1682)十五才で敵討ちの旅に出
     られた。』
源蔵  『そうです。伊勢国に入り関宿に逗留しながら、夜に
     なると亀山に旅人のふりをして通行し、様子を探っ
     てはまた関に戻る。そんな繰り返しです。敵が亀山
     にいることは、従僕の孫助が探り当てていましたか
     ら…。
      それから京都に上って小間物売りの行商に身をや
     つし、商品を仕入れては亀山に戻って売り歩きまし
     た。亀山に長期に滞在すると疑われるので、せいぜ
     い三日程度で近在の白子、神戸などに立ち回りまし
     た。
      また関から坂下、椋本など亀山周辺を徘徊して敵
     の動静を探っていました。これが二年ほど続きまし
     たね。』

近松  『それじゃ経済的にも苦しかったのでは?』
源蔵  『それはもう…、旅宿でも寝具をつけません。また寒
     い冬でも着の身、着のままで寝ました。これは山や
     野で野宿するときのためでした。もちろん陽気のよ
     いときは野宿です。こんな具合に各地を一日十五里
     も歩くことがありましたが、少しも疲れることはあ
     りません。しかし生活費にはいつも困っていまし
     た。』
近松  『親戚からの援助は充分あったのですか?』
源蔵  『この仇討ちは石井一族と赤堀一族との総力戦になっ
     ていました。石井の側は広島、松山、岡山、美濃な
     どに点在する親戚から金銭の援助を受けていました。
     しかし廿年以上の長い年月です。それぞれ生活を抱
     えていますし。もう援助を受けるのも限界にきてい
     ました。』
近松  『親戚が日本の広い範囲にあるのは、主君の移封に従
     って転居したことによるのでしょう。』
源蔵  『まったくです。この援助がなければ仇討は成功しな
     かったでしょう。当時多くの人が仇討ちを遂げるた
     め、厳しい生活を強いられたと思いますが、病気や
     金銭的な理由で止む無く断念した人の方が、成功し
     た人より多かったのではないでしょうか。
      私たちは金銭的には苦労しましたが、何よりも
     健康に恵まれたのが幸いでした。』
近松  『半蔵さんはいつ仇討ちに出立されたのですか。』
半蔵  『私が十八才になった元禄元年(1688)に広島を出ま
     した。兄が出立してから六年後のことです。』

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