東海道の昔の話(58)
  仏国公使館事件  愛知厚顔    2003/12/25 投稿
   万延元年(1860)、当時のフランス仮公使館は江戸三田台の斎海寺が当てられていた。その年の十一月になると幕府から亀山藩に対し
  『仏国仮公使館の警備を命ず』
と命令がくだった。このとき亀山藩の江戸家老は近藤織部(幸殖)、軍事方助役は佐藤造酒介など、対外交渉のベテランが勤務していた。
彼らはさっそく同寺に藩士を派遣してこれの守りについた。
このときフランスは江戸湾に戦艦セミラミスと巡洋艦タンクレードを投錨させており、提督バルバリンと参謀バルバリンは
  『日本の警備は信用できない。わが方
   の水兵にも出動させよう』
と相談し、若干の水兵を派遣して亀山藩兵と共同で護衛につかせた。

 彼等が心配したとおり、はたして翌月十二月六日、近くの善福寺を仮公使館にしていたアメリカの書記官ヒュースケンが、攘夷派の何者かに路上で殺害されたのである。
これを知ったイギリス、フランス、オランダなどの公使たちは大いに怒り
  『これでは日本人の護衛は信頼できない』
と言って、いっせいに公使館を閉鎖したり移転させたのである。フランスもこれに同調し、十二月十六日から翌年の正月二十日まで、斎海寺の公使館を横浜に退去させてしまった。
もちろんフランス国旗も撤去してしまったのである。
 このとき軍事方助役の佐藤造酒介は、代理大使ベリクールに
  『我れわれを信用できない理由は何か?』
と問い詰めたが、はっきりとした答えがない。とうとう双方が感情を爆発させて激論になってしまった。そして国旗の撤去も阻止できなかった。やがてイギリスとフランスの水兵が横浜に上陸して江戸に進撃を開始し、あわや開戦かと思われる気配となった。この様子に驚いた幕府は若年寄役を横浜に急遽派遣し、
  『これは日本側に非があった。謝罪する』
と述べたので外国の公使たちも
  『日本の武士に護衛の誠意があるのがよくわかった』
と認めた。そしてフランスも正月二十一日に国旗と公使館業務は再び江戸に戻ったのである。

 文久元年(1681)のはじめ、亀山藩江戸家老、近藤織部はフランス公使館の警備状況を視察するため斎海寺を訪れた。
このときフランス水兵ジラールが何を思ったのか、突然
『彼はフランス国旗に対して敬意を払わなかった』
と叫び、銃剣を構えて近藤に迫っったのである。
 驚いた近藤は身を守るために止むをえず刀を抜いて防御の姿勢をとった。ところが抜き身を見たジラールはますます大声で
  『△○×!』
怒鳴り、いまにも銃剣で近藤を突き刺そうとした。
この騒ぎを見て門内にあった亀山藩士はいっせいに抜刀し
        『ご家老があぶない守れッ!』
と号令一下、いっせいにジラールに立ち向かっていった。
驚いた当の水兵は大声で
  『助けてくれ!』
と叫びながら邸内に逃げ込んでしまった。亀山藩士たちはなおも抜刀姿で彼を追っていく。フランス側も水兵が銃を構えて続々と集まった。
もう一個人や一藩の問題を超え、フランス対日本の国レベルまさに一触即発の危機が迫った。そのとき急を聞いてフランスと幕府の通訳がかけつけた。そして双方から事情を聞いたところ、発端となった国旗に対する敬意の問題もジラールの誤解と判明した。
  『国が違えば習慣も違う、まして言葉が通じておればフランス国旗
   こんなことにならなかっただろう。こちらも至らな
   かった点があり申し訳なかった。これからは協力し
   て仲よくやろう』
これで双方が握手して和解し、殺気立った空気をおさめたのである。
 こののち、佐藤造酒介と代理公使ベリクールとの間に警備規定を作成し、それを和仏両文に翻訳して幕府外国方の検閲了解を得、双方が遵守することになった。
 この警備規定の現物はフランス大使館に保存されていたが、関東大震災で焼失してしまったという。
 
 当時の世情は外国人を排斥する攘夷派が横行ていた。
このあと文久二年(1862)八月、薩摩藩主、島津久光候の行列が武蔵国生麦村にさしかかったとき、四人のイギリス人が馬で列を乱した。これにに激怒した藩士が一人を殺害し二人に傷を負わせた。これが原因となって、翌年にはイギリスは軍艦七隻を鹿児島湾に派遣して戦闘になった。いわゆる薩英
戦争である。
 もし亀山藩が言葉の行き違いから西洋の列強と紛争を起こしていたら、とても軽い処罰では済まされなかっただろうと思われる。

 
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